フランス・バロック音楽 ミシェル=リシャール・ド・ラランド  Michel-Richard de Lalande et la musique baroque française

フランスの文化がヨーロッパの中心を占め、最も輝いていたのは、ルイ14世の時代。その中でも、パリからヴェルサイユに王宮を移転させた17世紀後半から1715年の王の死までだろう。

その時代、ヴェルサイユのチャペルで音楽演奏を担っていた音楽家の一人が、ミシェル=リシャール・ド・ラランド(1657-1726)。
フランス・バロック音楽を代表する作曲家であるド・ラランドの曲を聴くと、ヴェルサイユ宮殿でルイ14世の主催する様々な催し物に立ち会っているような錯覚に襲われる。

1711年に作曲されたとされる小モテットLeçons de ténèbres(暗闇の日課)を、ヴェルサイユ宮殿の中にあるチャペルで聞くことができたら、どんなに素晴らしいだろう。
ここでは、イザベル・デロシェのソプラノで、Leçons de mercredi(水曜日の日課)を聞いてみよう。

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17世紀の時代精神 社会の中の「人間」

ルネサンスの時代、「人間」には価値があるという認識が生まれた。そして、16世紀の後半になると、ミッシェル・ド・モンテーニュが「私」を検討し、「動き」の中にある「人間」を様々な視点から描き出した。
その二つの段階は、調和した円環に動きが加えられ、凹凸のある、いびつな真珠へと変形していくというイメージで形象化できる。

モンテーニュの後、17世紀になると、いびつな真珠を矯正する動きが急速に強まり、世紀の後半になるとその形は直線になってしまう。しかもその線には方向性があり、前進する。

時間で言えば、循環する時間が直進する時間になる。その上で、前に進むことが「進歩」と捉えられるようになる。時間は前進し、人間も文明も進歩するという思想が支配的になっていく。

「進歩」はヴェルサイユ宮殿によっても確認される。
1623年、ルイ13世がヴェルサイユに小さな宮殿を建造させ、その後、徐々に拡張していく。しかし、まだ狩りの館といった状態に留まっていた。
その状態から一気に姿を変えるのは、ルイ14世の時代。1660年代に大改造が行われ、20年後にはパリからヴェルサイユに首都機能が移転されるまでになる。
わずか数十年の間のヴェルサイユの変化をみれば、文明の進歩を目の当たりにするように感じるだろう。

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「新大陸」を前にしたラブレーとモンテーニュ

16世紀、「新大陸」が文学のテーマとして登場することがあった。
フランソワ・ラブレーは、『パンタグリュエル物語』(1532)において、巨人パンタグリュエルの口の内部を「新世界」に見立て、滑稽なエピソードを語った。
ミッシェル・ド・モンテーニュは『エセー』(1580)の「人食い人種について」の章で、ブラジルの原住民たちに関する風俗を取り上げ、文明論を展開した。

同じテーマに対する二人の作家のアプローチを比較することは、16世紀前半と後半の時代精神の違いを知ることにつながると同時に、ラブレーとモンテーニュをよりよく知るための方法にもなる。

そのための前提として、新世界を巡る当時の状況を手短に思い出しておこう。

中世末期、ルネサンス、近代初期にかけて、西洋の国々は大航海の時代を迎える。
最初はアフリカに向かい、アジアへ。さらには、アメリカ大陸へと進出した。1492年にクリストファー・コロンブスがアメリカを「発見」したと言われるのは、そうした海外進出の象徴的な出来事といえる。

日本に関していえば、1543年、種子島に火縄銃が伝えられ、1549年になるとイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが山口や大分でキリスト教の布教活動を行うなど、西欧との接触が始まった時期でもある。

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ポンペイ遺跡の新たな発見 Des trésors du Pompéi découverts lors du confinement

コロナウィルスによる外出禁止令のため、ポンペイの遺跡からもほとんど観光客がいなくなった。その間に発掘が進み、新たな発見があったというニュース。ポンペイ遺跡の美を私たちも再認識することができる。

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モンテーニュ 全ては変化する 2/2 旅の思考と人生という旅の記録

モンテーニュの『エセー』は3巻107章から成る膨大な書物だが、テーマもバラバラだし、章の長さもバラバラで、一貫性があるようには思えない。
尾も頭もなく、どこで切っても、それぞれの断片が独自に存在しうるような印象を与える。(ボードレールが散文詩集『パリの憂鬱』に付した序文に記されているように。)

実際、『エセー』を先頭のページから順番に読む必要はないし、一つの章でさえ、気になる文に出会えば読書を止め、自分なりの考えや夢想にふけってもいい。
モンテーニュ自身、愛読書を横に置き、その時その時に思いついたことを書き綴ったに違いない。

そうした中で、『エセー』を貫く姿勢があるとしたら、全ては動き、変化するという認識であり、そのことは旅行に関する姿勢によっても象徴される。
「空しさについて」(III, 9)と題された章の中で、彼はこう言う。

私が旅行を計画するのは、旅先から戻ってくるためでもないし、旅をやり遂げるためでもない。動くのが気持ちがいいと感じる間、自分を動かしておこうとするだけである。

モンテーニュは、普段の生活の中でも、読書の際にも、様々な考察を書き綴る時にも、「動き」に身を任せる「旅の思考」に従っている。

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モンテーニュ 全ては変化する 1/2 動く「私」を吟味(エセー)する

ミッシェル・ド・モンテーニュは16世紀後半、フランスが宗教戦争によって大混乱している時代、人間のあり方について新しい視点から考察した思想家。
彼の著作『エセー』は、ルネサンスの時代精神が変化し、調和した円が楕円へと形を変え始めた時代の精神を反映している。

円から楕円に。その変形は、芸術的な次元では、ルネサンス的美からバロック的な美への移行を表す。バロックとは「歪んだ真珠」の意。

Bernini, Le Rapt de Proserpine

建築でも絵画でも、視覚は永遠を捉えた静止を理想とするのではなく、躍動感を求め始める。対比が生まれ、明暗が強調され、感情表現が強く打ち出される。
音楽でも、調和を重視したポリフォニーから、感情を込めて歌詞を歌うモノフォニーに移行した。世俗的なシャンソンやマドリガーレだけではなく、宗教的なモテットでも、同様の傾向が見られるようになる。

ルネサンスにおいて「人間の価値」が発見され、その価値は理想像として表現された。ラブレーの「テレームの僧院」に見られるユートピアがその例といえる。
バロックの時代には、刻々と過ぎ去る時間の中の人間と世界の動きに焦点が当てられる。

そうしたバロックへの移行が始まりつるある時代、モンテーニュは、彼自身を実験材料に使い、「人間の変わりやすさ」が引き起こす様々な現象を考察し、思いついたことを書き記した。『エセー』はその記録だといえる。

テーマは多岐に渡る。悲しみ、噓、恐怖、幸福、友情、想像力、節制、教育、異文化(新大陸)、運命、孤独、睡眠、言葉の虚しさ、匂い、祈り、年齢、酩酊、良心、親子の愛情、虚栄心、信仰、怒り、後悔、人相、経験、等々。

「私は存在(être)を描かない。私は移り変わり(passage)を描く。」というモンテーニュが、こうした諸問題について行った考察は、21世紀の読者にとっても大変に魅力的だ。
彼は答えを教えてくれるのではない。読者が自分で考えるように導いてくれる。

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ピエール・ド・ロンサール ルネサンスの抒情詩と天球の音楽 2/2

ピエール・ド・ロンサール(1524-1585)の大きな功績は、ルネサンスの時代に、新しい形の抒情詩を導入し、定着させたことだった。
すでに記したように、抒情詩(poésie lyrique)とは本来、lyre(竪琴)の伴奏で歌われることを前提にしており、音楽的な要素が強いもの。ロンサールの抒情詩は、感情の動きを伝える詩であると同時に、声に出して歌われることも多かった。

実際、1552年の『恋愛詩集(Les Amours)』には、クレマン・ジャヌカンやピエール・セルトンといった優れた作曲家による楽譜が付けられていた。
1560年代からはロンサールの詩に曲を付けることが盛んに行われ、何人かの作曲家はロンサールの詩だけを集めた曲集を発表した。オード「可愛い人よ、見に行こう、バラの花は」も、ギヨーム・コストレーやジャン・ド・カストロたちによって作曲されている。
結局、1570年代を頂点に16世紀末まで,約30人の作曲家がロンサールの200篇以上の詩に曲を付けることになった。

こうした音楽的な側面は、ルネサンスの時代精神と深く関係していた。
人間が奏でる音楽の理想は、「天球の音楽」の「模倣」であり、天空の純粋な諧調(ハーモニー)を地上に響かせることだったと考えられるからである。

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ピエール・ド・ロンサール ルネサンスの抒情詩と天球の音楽 1/2 フランス語の擁護と顕揚

ピエール・ド・ロンサールは、16世紀フランスにルネサンス文化が開花した時代に活躍した詩人。
1550年頃に人文主義者や詩人たちで形成された「プレイアッド派」と呼ばれるグループを主導、フランス語の充実と新しいタイプの詩の確立に力を尽くし、「詩人たちの王」と呼ばれるほど絶大な人気を博した。

1524年に生まれたロンサールは、フランソワ1世の治世(1515-1547)に青春時代を送り、実際に活動を始めたのはアンリ2世の時代(1547-1559)。イタリアから移入されたルネサンス文化がフランスに根付き、一つの頂点を迎えようとしていた。
その象徴ともいえるのが、アンリ2世の愛妾ディアーヌ・ド・ポワチエ。
王が彼女に与えたシュノンソー城、彼女を描いたフォンテーヌブロー派の絵画、それらの洗練された美が、国力の充実と上昇した文化水準をはっきりと示している。

今の日本では、ピエール・ド・ロンサールという名前は、バラの品種として知られている。
その名称は、彼の最も有名な詩「可愛い人よ、見に行こう、バラの花は(Mignonne, allons voir si la rose)」に由来する。

そのバラの花に見られるような優雅で上品な美しさを持つロンサールの詩は、とりわけ音楽的な要素によって、ルネサンス文化の大きな花の一つになった。

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