石川淳 「マルスの歌」 1/2 戦争の渦中での正気と狂気

デスクの前に座る男性、背後には積まれた本があるモノクロの画像

平和な時代に戦争に反対することは易しい。しかし、戦争の只中にあるとき、多くの人々は戦争に反対するのだろうか。たとえ平和を願うとしても、それは戦争に勝利した上での平和ではないだろうか。もしそうだとすれば、戦争の時代には、軍事作戦が正当化され、それに賛同し、応援することが、ごく自然で当たり前の行動とみなされるはずだ。そこでは、軍国主義に反対したとしても、それは少数者による弱々しい抵抗でしかなく、場合によっては、その抵抗さえ許されないこともある。

古い日本の雑誌の表紙。タイトルは「界學文」で、背景に花のような模様があります。
本の表紙に記載されたタイトルと著者名のリスト。

石川淳の「マルスの歌」は、昭和13年(1938年)の『文学界』新年特別号(発売は昭和12年12月)に掲載されたが、反軍国主義的であるという理由で発禁処分となり、翌年8月には、著者の石川淳と、雑誌の編集を担当した河上徹太郎が罰金刑に処せられた。当時は、昭和12年7月に始まった日中戦争(「支那事変」)の只中にあり、言論統制も強化されつつあった時代である。

こうした処分は、当時の社会状況を反映したものと考えられる。しかし他方で、『文学界』が「マルスの歌」を掲載したことは、編集者たちがそのような処分を予想していなかったことを示している。もし処分を予想していたのであれば、同時に掲載された青野季吉の政治評論「デモクラシイは死滅するか」の方が、むしろ危険だっただろう。実際、青野は翌年、反ファシズム統一戦線に参加したことなどを理由に検挙されている。

石川淳自身も、昭和47年(1972年)に行われた対談の中で、「まだ書いているときは、これくらいはいけるのじゃないかという気持ちがどこかにあったし、また『文学界』でもおそらくこれくらいはいいじゃないかというような気持ちもあったのじゃないかと思う。まだ楽観的気分があったのです」(「無意識の選択」)と述べている。

「マルスの歌」の内容を見ると、軍神マルスに象徴される軍歌が街に流れる時代に、「NO !」と声を上げる小説家の「わたし」は、確かに戦争に反対する姿勢を明らかにしているように見える。しかし、小説全体としては、明確に反戦を訴えているとは言い切れないようにも思われる。

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Alain, Mars ou la guerre jugée アラン 『マルス 裁かれた戦争』 ノーと言う思想

教室で教える教師と生徒たちの黒白写真

アラン(Alain)は、20世紀前半のフランスで、ヴァレリーやベルクソンとともに思想家として高く評価され、「幸福だから笑うのではない。笑うから幸福なのだ」「遠くの火事より、靴の中の小石が痛い」といった言葉で知られる『幸福論』は、かつて日本でも広く読まれていた。

入り口の前に立つ男性、長いコートとヘルメットを着用し、手にはほうきを持っている。

1914年、第一次世界大戦が勃発したとき、パリのアンリ4世校で哲学教師を務めていた46歳のアランは、兵役義務を免除される立場にいた。しかし、彼は自ら志願して従軍した。

ドイツとの和平を望んでいたアランだったが、自国の領土が侵略された以上、平和を求める一方で、侵略に対しては抵抗すべきだという立場から、自ら参戦を選んだのだと考えられている。そして、エリートとしてではなく、一人の普通の市民として前線での戦闘に加わった。1916年にはヴェルダンで砲撃を受けて片足を負傷し、翌1917年に除隊した。

1921年に出版された『マルス 裁かれた戦争(Mars ou la Guerre jugée)』は、こうした戦場での体験に基づく考察である。実際に戦場を経験した思想家による著作であるだけに、机上の空論にとどまる戦争論とは異なる、非常に興味深い内容となっている。

ここでは、第88章「ノーと言う(Dire Non)」を読んでみよう。

Dire non, ce n’est point facile. Il est plus facile de punir les pouvoirs par la violence ; mais c’est encore guerre ; chacun l’aperçoit aussitôt ; ainsi la gueule du monstre est ouverte partout, d’où vient cette résignation passive. Mais l’Esprit mène une autre guerre.

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太平洋戦時中のヒットラー像 

「変なはなしだと思われるかも知れません。まったく変なはなしです。しかし、それを変だと思わないほど、ぼくは日常そのことに慣れっこになっていたんです。いや、そうじゃない。今でこそ変だといいますけど、そのときには別に何とも思っていなかったんです。」

机の前に座る男性と積まれた本の画像

これは、昭和13年(1938年)に発表された石川淳の「マルスの歌」に登場する人物の言葉だ。
後から考えればおかしい、あるいは間違っていたと思えることでも、その渦中にある時には慣れてしまっていて、変だと思うことも疑問を持つこともない。そうしたことはしばしばあるし、むしろそれこそが普通なのだろう。

逆に言えば、それほど当たり前だと思っていることや常識を問い返すことは難しく、さらに言えば、後から振り返って「変だ」「間違っている」と言い、過去の当たり前や常識を批判することほど易しいこともない。かつての当たり前を非難する際に「今の常識も実は変かもしれない」と疑うことは難しいのに対し、今の常識とは異なる過去のものを批判することは容易だからだ。

そうした視点から第二次世界大戦中の日本におけるヒトラー像を振り返ると、当時の日本の「当たり前」が見えてくる。

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タイパは何をもたらし、何を失わせるのか

溶けた時計が描かれた絵画、左側には赤いハート型のオブジェと昆虫が見える

タイパ(タイムパフォーマンス)を重視する行動は、普通に考える以上に、現代社会に大きな影響をもたらしている。

時間を効率的に使い、仕事を効率的に仕上げ、自由な時間を自分の好きなことに使う。そうすることでワークライフバランスが向上し、生活の質も高まる。ストレスの多い日々の中で、自分のために使える時間を確保することは貴重であり、タイパはそのための手段として、Z世代の若者だけでなく、中高年層にも広がる生き方になっている。

しかし、その一方で、タイパが経済活動を活性化させるマジックワードとなり、企業のビジネスモデルに組み込まれていることは、あまり見えてこない。また、時間の効率化を意識するあまり、時間のかかる思考過程が省かれ、即座の反応にしたがって判断し、行動する傾向も生まれている。

ここまでの文章で320語。タイパに慣れた人々には、「長すぎる!」と感じられるかもしれない。そうした現実を前にすると、思わずキーボードを打つ手が止まりそうになるのだが、一つのテーマについてそれなりに考えるためには、時間と一定数の言葉が必要だ。というわけで、このまま続けていくことにしよう。

(1)タイパの構造

タイパの構造は、次のように図示することができるだろう。

① 時間がない
仕事、学校、家事などで自由時間が少ない。
↓
② だからタイパが必要になる
「動画は倍速で見る」「本は要約で済ませる」「移動時間も有効に使う」など。
↓
③ 浮いた時間を「自分の好きなこと」に使う
推し活、ゲーム、旅行、ショッピング、エンターテインメントなど。
↓
④ 「好きなもの」が自分を支えてくれる
「推しがいるから頑張れる」
「つらい仕事も、推し活のためなら頑張れる」
↓
⑤ ワークライフバランスが向上し、生活の質がアップする
何かとストレスの多い生活の中で、義務を早く済ませ、空いた時間を自分のために使うことで、「生きるエネルギー」が湧いてくる。

こうした流れの中で、日々の生活に満足感を得、生きる意味を見出し、生活が豊かになったと感じるのであれば、それは一つの選択であり、そこに問題があるわけではない。

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知の民主化? 「専門家の知見」 vs 「一人の個人の意見」

知識の民主化をテーマにしたイラスト。専門家と一般の人々の意見が対比されており、情報の信頼性や議論が図示されている。

SNSでは、誰もが自由に自分のオピニオンを発信することができる。その意味では、とても民主的な対話の場であるということができる。
しかし、その一方で、専門的な分野で研究を重ねた上で発信される情報と、何の知見もないままに発信される感想とが、一つの土俵の上で相撲を取るように対峙するといった状況も生じている。

例えば、地球温暖化について、専門分野の研究者は、観測データ、物理学的理論、気候モデル、過去の研究との整合性などを積み重ね、「現在の地球温暖化は人為的な温室効果ガス排出による」と論証する。

その論証に反対するのであれば、データ、方法論、論理という同様の手続きに基づいた論証が求められる。実際、「地球はもともと温暖化と寒冷化を繰り返している」、「気温の変化は太陽活動や宇宙線の影響を受けている」といった説が提示されることもある。

しかし、それ以上にSNSでは、「そんなものは嘘だ」、「昔も暑かった」、「CO₂が増えたから温暖化したという証拠はない」、「科学者は金儲けのために言っている」などと、短い言葉で結論だけを提示し、いかにも「論破」したかのような姿勢を示す。

一見すると、とても不思議な現象である。しかし、インターネットという仮想空間では、こうした「専門家の知見」と「一人の個人の意見」が、選挙の投票にたとえれば、同じ一票であるかのように扱われ、流通している。

図示すると、次のようになる。

「発言する権利の平等」
↓
「意見の価値の平等」
↓
「根拠を示さない断言でも、一つの有力な意見として受け入れられる」

このようにして、SNS上では、誰もが発言できるという言論の平等が、「誰の意見も同じ価値を持つ」という認識へと変質していると考えられる。

しかし、こうした状況が続くことは、地球温暖化対策などを考える上で、近未来どころか、現在においてすでに大きな問題を引き起こすことにつながっている。

では、短い言葉で専門家や権威を断罪する発信者たちは、何を求めているのだろうか。

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平和ぼけ、お花畑、ポエム — 日本人のDNAは平和の精神

富士山が朝焼けに包まれている風景

日本の歴史を振り返ったとき、663年の白村江の戦いから1894年の日清戦争まで、約1200年の間、日本が外国へ軍を派遣して戦争を行うことは、ほとんどなかった。16世紀末に豊臣秀吉が朝鮮半島へ出兵したことは、唯一といっていい例外だった。

国内においては、672年の壬申の乱、12世紀末の平家と源氏の戦い、戦国時代など、いくつかの大きな戦乱があった。しかし、江戸時代の約260年間には、徳川幕府の統制によって大名同士が戦争をすることはなく、いわば「パクス・トクガワーナ」とでも呼べる時代が続いた。

日本が外国に進出して戦争を行ったのは、1894年の日清戦争から、第二次世界大戦が終結した1945年までの約50年間だったといえる。

そして1945年以降、日本は再び対外戦争を行わない時代に入った。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争などにおいても、日本が直接の戦争当事国として参戦することはなく、2026年までこの状態を維持してきた。

このように振り返ってみると、日本は飛鳥時代から現在まで、明治から昭和にかけての約50年間を除けば、外国へ軍を派遣して戦争を行うことが比較的まれだった国だといえる。その意味で、日本人のDNAには、「平和の精神」が刻み込まれているといってもいいだろう。そして、そのことは、日本が世界に誇ることのできる最も大きな美徳の一つだと言っても、決して間違いではない。

もちろん、ここでいう「DNA」は生物学的な意味ではない。長い歴史の中で形成され、日本人の社会や文化に深く刻み込まれた性質を、あえて「DNA」と呼んでいるのである。外国との大規模な軍事的対立を繰り返すことなく、戦争を避ける方向を選択してきた歴史的な知恵と伝統は、日本に深く根付いているはずだ。

ところが近年、外交努力によって平和を維持しようとする姿勢に対して、「平和ぼけ」「お花畑」「ポエム」といった言葉を投げかけ、軍事力を強化することこそがリアルな政策であるという主張が受け入れられる風潮が強まっている。

しかし、軍備の増強が、本当に戦争の抑止につながるのだろうか。リアルはいったいどちらの側にあるのだろう。

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情報操作の基本文法 — ロマンス詐偽・投資詐偽・霊感商法系の詐欺・架空請求詐偽、フェイクニュース、インフルエンサー

ロマンス詐欺・投資詐欺・霊感商法系の詐欺・架空請求詐欺といった各種の詐欺と、フェイクニュースやインフルエンサーを一列に並べると、一方は犯罪であり、他方は犯罪ではない活動であるため、同列に置くのは間違っていると思われるかもしれない。もちろん、健全な情報発信を行っているインフルエンサーも多く、これらを悪質性において同等とみなすわけではない。しかし、インターネットという仮想空間において、「感情を揺さぶり、受け手に情報を信じさせることで成立する経済活動」という点に注目すると、共通する情報伝達の仕組みが見えてくる。

そこでの「情報操作の基本文法」は、強い刺激によって感情を動かし、情報の真偽を検証するプロセスを省略させる心理状態を作り出すことである。そして、その結果として、情報の発信者と受信者の間に「閉じた仮想空間」が形成される。

その仮想空間の中で、発信者は、受信者が「真実性の錯覚」に陥るように導く。受信者は、心理的に外部からの情報を遮断し、発信者から与えられた情報以外を受け入れにくい状態に置かれる。

その空間は、あくまでもネット上の「仮想」でありながら、ネットの向こう側では「現実」とつながっている。そのため、発信者が利益を得る一方で、情報に動かされた受信者が、金銭を失ったり、犯罪に巻き込まれたりする事態に陥ることもある。

情報操作の基本文法を理解しておくことは、「真実性の錯覚」に導かれることを避けるための、有効な防衛策となるはずである。

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SNSからマスメディアへの情報拡散 — 大谷選手が熊本地震など3カ国の被災地へ100万ドル超えの寄付(?) — コタツ記事

大谷選手が熊本に20億円を寄付したという、出所不明でフェイクニュースと思われる情報が拡散したことについては、このブログですでに扱った。
「大谷選手ら熊本に20億円を寄付」と福岡県議会の高額海外視察 ―― 感情の消費から問題解決へ

その後、MLBアナリストのベン・バーランダー氏が14日(日本時間15日)、YouTubeとXで、大谷選手が、熊本地震を含む世界3カ所の災害への支援として、100万ドル(約1億6000万円)を超える金額を寄付していると聞いていると発信した。

I’m being told that once again Shohei Ohtani is stepping up for people and causes in need and is donating well over 7 figures to different organizations listed below:
– Venezuela Earthquake relief
– Canadian Wildfire relief
– Kumamoto Earthquake relief
All of his donations are going directly to those in need.
Incredible generosity from an incredible human being.

そして、前回の「20億円」情報とは異なり、今回は知名度のあるアナリストから発信された情報だったため、いくつかのスポーツメディア(日刊スポーツ、スポニチ、THE DIGESTなど)がバーランダー氏の情報を取り上げた。それらの報道は、バーランダー氏がそう伝えたという事実を報じたものではあるが、読者には、そこに書かれた寄付が実際に行われたかのように受け取られる可能性がある。

このことは、メディアとSNSの相互増幅を考える上で、重要なヒントを与えてくれる。

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「文明開化」は何をもたらしたのか 「認識の罠」から考える — 平和な日本のために

明治時代の日本での華やかな衣装を着た男性と女性の列、背景には桜や伝統的な建物が描かれている

文明開化とは、明治時代に日本が欧米の文化を吸収し、江戸時代までの制度や習慣が大きく変化した現象を指す。一般的な歴史観では、文明開化は近代日本の発展につながったと考えられている。

その成功を象徴する出来事の一つが、第一次世界大戦後に成立した国際連盟において、イギリス、フランス、イタリアと並ぶ常任理事国となったことだといえる。1868年の明治維新からわずか50年ほどしかたっていない1920年(大正10年)に、日本は列強の一員となったのである。

そのときの日本人が抱いたプライドは、現代の日本人が「G7の一員であるアジア唯一の国」という表現から感じるプライド以上のものだったのかもしれない。

では、文明開化以前の日本は、封建制度のもとで身分制度などによって自由が制限され、欧米に比べて遅れた時代だったのだろうか。

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ネット空間の「自由」とは何か — 空想世界と現実世界のあいだ

複数の人々がスマートフォンを使用しているシーン

フランスで「15歳未満のSNS利用を禁止する法律」が成立したが、憲法評議会はこれを違憲として無効化した。15歳未満のSNS利用を一律に禁止することが、表現の自由に対する「不均衡な侵害」にあたると判断したからである。
https://www.lemonde.fr/pixels/article/2026/08/14/l-interdiction-des-reseaux-sociaux-aux-moins-de-quinze-ans-censuree-par-le-conseil-constitutionnel_6746255_4408996.html?srsltid=AfmBOoqEzStMYuLxHhk1bdzlW68G8s6-aVU0UnOd_YfINYrFYgltwAbr

日本でもこのニュースは伝えられたが、あまり大きな話題にはなっていないようだ。
「自由」の「規制」に対しては、何か大きな事件でも起こらない限り、社会が強く反応しないというのが、日本の一つの傾向なのかもしれない。加えて、現在ではマスコミもSNS上の言論を無視できない状況にある。そのため、SNSの規制をめぐる議論そのものを避けがちなのではないか、とも思われる。

しかし、ネット空間がこれほどまでに普及した現代において、「自由」という言葉について、改めて考えてみる必要があるのは確かである。
現実世界においても、すべてが自由なわけではなく、さまざまな禁止事項が存在する。表現の自由や言論の自由であっても、無制限に認められるものではないことは、誰もが認めるところだろう。
ネット空間においても、一定の「規制」が必要であることについては、異論はないと思われる。では、ネット空間に対しても、現実世界と同じような考え方、同じレベルの規制を適用すればよいのだろうか。

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