石川啄木 思い出の力

石川啄木には、故郷である渋民村(しぶたみむら)を歌った美しい歌がいくつもある。

ふるさとの 山に向かひて 言うことなし ふるさとの山は ありがたきかな

故郷を遠く離れ、子ども時代を過ごした故郷を思えば、懐かしさが湧き上がってくる。

かにかくに 渋民村は 恋しかり おもひでの山 おもひでの川

思い出の山、思い出の川は美しく、懐かしい。

続きを読む

ランボー マラルメ 詩句の仕組み

フランス文学において言葉の音楽性が重視されるが、とりわけ詩に関しては、意味と同等の重要性を音が持つ。

そうした中でも、19世紀後半の二人の詩人ランボーとマラルメの詩句は音楽的に大変に美しく、意味を理解するのはしばしば非常に困難だが、それにもかかわらず高く評価されている。
というか、最初は理解が難しくても、音楽的に美しいおかげで、なんとか意味の深みにまで到達したいという気持ちにさせられる、と言ってもいいかもしれない。

当たり前のことだが、翻訳では詩句の音楽性を感じることができない。翻訳された詩の最も大きな問題はそこにある。詩の理解にはフランス語で読む必要があるのはそのため。

ただし、一口に音楽性と言っても、ランボーとマラルメの音楽はかなり違っている。ランボーの曲はすぱっとした直線を感じさせるが、マラルメの曲は柔らかく丸みを感じさせる。

その点を前提にした上で、詩句の意味的な理解を考えてみると、二人の詩句の難しさが別のところから来ることがわかってくる。
ランボーの詩句では語彙の不整合が、マラルメの詩句ではそれに加えて構文の破壊が、意味の伝達を妨げる。

続きを読む

ドガ 生命の脈動を捉える「持続」の画家

エドガー・ドガは、オペラ座の踊り子を生き生きと描いた画家として、日本でもよく知られている。
彼の絵画の中のバレリーナたちは、本当に生きているように感じられる。
外から絵を眺めるのではなく、実際に会場に入った気持ちになり、舞台の上で彼女たちが踊る姿をその場で眺めると、息づかいまで聞こえてくる。

じっとしている姿が描かれているとしても、彼女たちの生命の動きが感じられ、自然に彼女たちの気持ちに共感している自分がいるのに気づく。

止まっているはずの絵によって、どうしてこれほどの「動き」が表現されるのだろうか。
その秘密を、ここではデッサンと構図という二つの面から探ってみよう。

続きを読む

モーパッサンからネルヴァル、ランボーへのウインク

1892年の初頭にモーパッサンが精神に異常をきたした時、治療にあたったのはエミール・ブランシュ博士だったが、博士はずっと以前にはジェラール・ド・ネルヴァルの治療も行っていた。
ネルヴァルは、エミール・ブランシュ博士の父親エスプリ・ブランシュ博士にお世話になったこともある。

モーパッサンはそのことを知っていたに違いない。直接ネルヴァルのことを話題にすることはなかったようだが、精神疾患を取り上げた「オルラ」の中には、ネルヴァルに向かってウインクをしているような記述がある。

その理由を私なりに推測すると、一般的に狂気と見なされる世界観と、詩の生み出す美とが連動していることを、モーパッサンなりに示そうとしたからだと思われる。
同じ箇所に、アルチュール・ランボーに向けてのウインクもあることから、「狂気ー詩ー美」の繋がりがよりはっきりと示される。

問題の箇所は、目に見えないが確かに実在すると感じられる存在をオルラと名付け、それが世界を構成する4つの元素(水、火、大地、空気)と同様の、なんらかの元素ではないかと自問した後に記されている。

でも、あなたはこう言うかもしれない。蝶だ! 空飛ぶ一輪の花だ! ぼくはといえば、一匹の蝶を夢見る。宇宙と同じ位大きい。羽根の形も、美も、色彩も、動きも、描くことさえできない。でも、ぼくには見える。・・・・蝶は、星から星へと向かい、その飛翔の軽やかで調和のとれた息吹で、星々を、新鮮でかぐわしいものにする! ・・・天上の人々は、蝶が通り過ぎるのを目にし、恍惚となり、魂を奪われる!・・・(「オルラ」)

続きを読む

19世紀後半に活躍した芸術家たち ー 同じ年に生まれて

私たちが芸術作品や文学作品に触れるとき、普段はあまり画家や作家の生まれた年齢を考えることはないのだが、実は作品にとってかなり大きな要素になっている。
というのも、同じ世代に属していると、一つの時代の雰囲気の中で育ち、同じような教育を受けているからである。
小澤征爾と大江健三郎の対談集『同じ年に生まれて』に倣って、19世紀後半に活動の中心が位置する芸術家や作家たちを、出生年順に列挙してみよう。

続きを読む

モーパッサン 「オルラ」 小説と日常生活の心理学 3/3

ギ・ド・モーパッサン(1850-1893)は梅毒のために神経系が犯され、晩年はかなりの精神障害を患い、最後は精神病院で死を迎えた。
そのためもあってか、心理学に興味を持ち、神経病学者ジャン゠マルタン・シャルコーがサルペトリエール病院で開催していた公開講座に通い、催眠術によるヒステリー患者の治療などに立ち会っていたことが知られている。
シャルコーの指導を受けたスエーデンの医師アクセル・ムンテは、『サン・ミケーレ物語』の中で、火曜講座でモーパッサンと出会い、催眠術や様々な精神障害について長く話しあったものだったという思い出を語っている。

そうしたモーパッサンの気質が、幻想的と見なされる彼の短中編小説の土台となっていることは、代表作の一つである「オルラ」からも知ることができる。
日記形式で語られる日常生活の中で、「私」が襲われる様々な幻覚や不可解なでき事は、単に怪奇現象として幻想小説の枠組みを通して語られるのではなく、当時の心理学的な視点から検討されている。
催眠術の場面が描かれ、専門の学術雑誌らしい名称が挙げられ、「暗示」や「意志」といった専門用語が使われる。
目に見えない何かの存在を確認しようとする「私」の行動は、科学的な実験とその検証のようでもある。

モーパッサンは、「幻想的なもの」と題された雑誌記事(1883年10月7日)の中で、以前の幻想は恐怖を生み出すために超自然な出来事を用いたが、これからは、日々の細々とした事象を通して、魂の混乱や説明不可能な恐怖の強い感覚を語るのだとしている。
彼は、日常生活を送る中で感じる心理と身体の関係を様々な角度から考察し、物語の形で表現したのだった。

続きを読む

モーパッサン 「脂肪の塊」 小説と日常生活の心理学 2/3

ギ・ド・モーパッサンの中編小説「脂肪の塊」は、1870年の普仏戦争中にノルマンディ地方の一部がプロイセン軍によって占領された状況を背景にして、ルーアンの町から馬車で逃亡する乗客を中心にした人間模様を、リアルなタッチで描き出している。

“脂肪の塊”というあだ名で呼ばる主人公の娼婦は、善良で心優しい。他の乗客たちが食事を持たない時には自分の食べ物を提供するし、宗教心にも篤く、ナポレオン3世の政治体制に対する愛国心も強い。
それに対して、裕福な階級の人々やキリスト教のシスターたちは、娼婦をさげすみ、必要な時には利用し、役目が終われば無視し、彼女の心を傷つける。

ふっくらとした娘を乗客たちが最も必要とするのは、逃亡の途中に宿泊したホテルで、プロイセンの将校から足止めをされる時。彼女が身を任せなければ、馬車は出発できない。しかし、愛国心の強い女性は、敵の兵士の要求を受け入れようとしない。
その時、他の乗客たちにとって、彼女は「生きている要塞」となる。
そこで、どのようにして要塞を陥落させ、脂肪の塊というご馳走をプロイセン兵に食べさせるのか? その戦略を練り、彼女を降参させるための「心理戦」が、この小説の中心的なテーマになる。

このような視点で「脂肪の塊」を概観すると、モーパッサンが、プロイセン軍による占領の現実をリアルに描きながら、それと同時に、人々の心の動きを「心理的な戦い」として浮き彫りにしたという、二つの側面が見えてくる。

続きを読む

小林秀雄 「実朝」 知る楽しみ 2/2

文学部の大学院生だった頃、「文学の研究をして何の意味があるのだろうか?」という疑問が湧き、「研究を通して対象とする作品の面白さや価値を人に伝えること」という言葉を一つの答えとしたことがあった。

最近、それを思い出したのは、二つのきっかけがある。
一つは、ドガの「14歳の小さな踊り子」に関するユイスマンスの言葉によって、その作品の美を感じたこと。 ドガ 「14歳の小さな踊り子」 知る楽しみ 1/2

もう一つが、小林秀雄の解説で、源実朝の一つの和歌の詠み方を教えられたことだった。

箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や 沖の小島に 波の寄る見ゆ

この和歌を前にして、私には、海に浮かぶ小さな島に波が打ち寄せる風景しか見えてこない。それ以上のことはまったくわからない。

そんな私に対して、小林秀雄はこう囁く。

大きく開けた伊豆の海があり、その中に遥かに小さな島が見え、またその中にさらに小さく白い波が寄せ、またその先に自分の心の形が見えて来るという風に歌は動いている。(小林秀雄「実朝」)

続きを読む

ドガ 「14歳の小さな踊り子」 知る楽しみ 1/2

文学部の大学院生だった頃、文学の研究をして何の意味があるのだろうかと考えたことがあった。
そんなことが頭に浮かぶのはだいたい勉強が行き詰まっている時なので、教師や友人に問いかけたり、色々なジャンルの本を読んだりと、要するに真正面から研究に取り組まない時間を過ごすことになる。
とにかく、そんな風にしている中で、「研究を通して対象とする作品の面白さや価値を人に伝えること」という言葉を誰かに言われ、一つの答えとして納得した覚えがある。

最近、ドガに関する本(アンリ・ロワレット『ドガ 踊り子の画家』)に目を通している時、そんな思い出が急に頭に浮かんできた。
今までドガの絵画を面白いと思ったことがあるけれど、彫刻にはそれほど興味がなかった。しかし、最初のページに置かれた「14歳の小さな踊り子」の写真と、それに付けられたユイスマンスの言葉を見て、彫刻の素晴らしさに心を動かされ、初めて美を感じることができた。

続きを読む