縄文土器・土偶 古代日本人の生命感

現代の私たちの目から見ても、縄文時代の土器や土偶は大変に魅力的な姿をしている。その魅力は、単に装飾的な奇抜さや美しさというだけではなく、何か呪術的な力を秘めているように感じられるところからも来ている。

縄文という名前は、発掘された土器に「縄目の模様」が付けられていたことから来ている。縄を複雑により合わせて模様を付ける技法は日本独自のものであり、模様の種類は百数十種類に及ぶという。

そのことは、「縄」が、新石器時代に日本列島に生きた人々の生活に深く入り込んでいたことの証だと考えられる。
縄は植物繊維を主な素材とし、繊維の束をより合わせて強度を高め、継ぎ足すことで長さを伸ばし、織ることで布を作ることもできる。縄文人は縄をよることで植物由来の素材を加工し、衣服など生活に必要なものを制作する一方、土器や土偶には縄を使い様々な模様を施した。

それらの土器や土偶を通して、縄文人の精神性の一端を知ることができないだろうか?
もしそれが可能であれば、8世紀初頭に『古事記』や『日本書紀』の中で文字によって表現された日本的心性の源泉を知ることに繋がるかもしれない。

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佐伯祐三 パリの詩情

佐伯祐三は、フランスに留学して絵画を学んだ日本人画家の中で、パリの街の詩情を最も美しく表出した画家といっていいだろう。

彼の描く数多くのパリを見ればすぐにわかるように、佐伯は決して観光名所となるような建物や場所を対象としなかった。彼の眼が引き寄せられ、彼の眼が捉えたのは、普段着のパリの街並みだった。

最初のパリ滞在は、1924年(大正13年)1月から1926年1月までの約2年。二度目の滞在は、1927年(昭和2年)8月から翌年8月に病死するまでの約1年。そんなわずか3年の滞在で、花の都としてのパリではなく、ごく当たり前の街並みの発する魅力を感じ取り、日本的な感性をとりわけ主張することなく、一人の画家としてパリの美を表現した佐伯祐三。
彼の描いたパリの絵画が私たちに伝えるのは、穏やかだが生き生きとした抒情性。こんな街並みの中を歩き、呼吸したいと、誰もが憧れるだろう。

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雪舟 水墨山水画 四季の情感と「造化の真」

雪舟等楊(せっしゅう・とうよう)は、1420年に現在の岡山県総社市で生まれ、1506年頃に亡くなった。
80年以上に及ぶその長い人生の中で、山水画、人物画、花鳥画など数多くの作品を描き、日本における水墨画の頂点に位置する存在の一人である。

彼は、幼い頃近くの寺に入り、10歳頃は京都の相国寺(しょうこくじ)に移り、禅の修行をしながら、周文(しゅうぶん)から水墨画を学んだ。そのことは、雪舟の水墨画のベースが、相国寺の画僧、如拙(じょせつ)から周文へと続く水墨画の伝統に基づいていることを示している。(参照:如拙 周文 水墨山水画の発展

1454年頃京都を離れ、山口に設けた雲谷庵(うんこくあん)を中心に活動を行い、1467年には明の時代の中国大陸に渡る。
そこで約3年間、各地を回って風景などのスケッチをすると同時に、南宋の画家、夏珪(かけい)や、明の浙派(せっぱ)の画家、李在(りざい)たちの水墨画から多くを学んだ。
この留学が雪舟の画風に与えたインパクトの大きさは、以下の3枚の作品を見比べると、はっきりと感じられる。

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如拙 周文 水墨山水画の発展

鎌倉時代に日本の禅僧が水墨で描いたのは、仏教や道教の教えを説く道釈画が中心だったが、室町時代になると、風景画が数多く描かれるようになる。

その中間点にあるといえる如拙(じょせつ)の「瓢鮎図(ひょう・ねん・ず)」と、水墨山水画の一つの頂点ともいえる周文(しゅうぶん)作と伝えられる「竹斎読書図(ちくさい・どくしょ・ず)」を見てみよう。
どちらも、画面の下に絵が描かれ、上には漢文が書かれた、”詩画軸”と呼ばれる形式の作品。

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可翁 黙庵 初期水墨画の始まり

日本の画家が水墨画を描くようになったのは14世紀前半、鎌倉時代後期から南北朝にかけてのことだった

鎌倉幕府は、京都に住む貴族たちの平安仏教(天台・真言)に対抗するため、宋から禅僧を積極的に招き、足利幕府も禅院を保護した。
また、各地の武将たちも、日本の禅僧を大陸に留学させ、禅を中心にした大陸の文芸と美術が数多く日本に移入された。
その結果、円覚寺を始めとする禅宗寺院が建てられ、水墨画も数多く輸入され、日本人の僧たちも水墨画を手がけるようになった。

その代表として、ここでは、可翁(かおう)と黙庵(もくあん)を見ていくことにする。

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小林秀雄 雪舟 絵画の自立性について

小林秀雄は、ボードレールから学んだ芸術観に基づいて、「近代絵画の運動とは、根本のところから言えば、画家が、扱う主題の権威或いは強制から逃れて、いかにして絵画の自主性或いは独立性を創り出そうかという烈(はげ)しい工夫の歴史を言うのである。」(『近代絵画』)と定義した。

要するに、一つの山を描くとして、モデルとなる山に似ていることが問題ではなく、絵画に描かれた山それ自体が表現するものが重要だということになる。

こうした考え方は、画家の姿勢だけではなく、絵を見る者の観賞の仕方とも関係している。
「雪舟」(昭和25(1950)年)の中で、小林秀雄が雪舟の山水画について語る言葉を辿っていると、実際、絵画の自立性という考え方に基づいていることがはっきりとわかる。

小林が見つめているのは、雪舟の「山水長巻」(さんすいちょうかん)。
全長16メートルにも達しそうな長い墨画淡彩の絵巻の中に、二人の男が散策する姿が描かれている場面がある。

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長谷寺 日本の美

奈良県の初瀬(はせ)山の中腹にある長谷寺は、創建が8世紀前半と推定されるが、美しい姿を現代にまで伝えている。

日本の建造物の美の特色の一つは屋根にある。エアコンのついた現代の家と違い、かつての日本では湿度が一番の問題だった。そのために風通しのいい空間を作る必要があり、ヨーロッパの建造物のように壁を厚くするのではなく、装飾の中心は屋根に置かれたのだった。

屋根の美

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江戸時代後期の絵画 北斎 広重 酒井抱一 装飾性と写実性 

18世紀後半になると、近代ヨーロッパの絵画の基礎となる遠近法や明暗法が導入され、伝統的に装飾的で造形的だった日本の絵画にも、写実性が付け加えられるようになった。

そうした融合は決して、京都や大阪の伝統的な絵画だけではなく、江戸の浮世絵でも行われた。円山応挙(1733-1795)の「保津川図」と鳥居清長の「三囲の夕立」を見ると、両者ともに、造形性をベースにしながら、リアリティを感じさせる表現がなされていることがわかる。

円山応挙、保津川図
鳥居清長 三囲の夕立

どちらの作品にしても、現実の場面を再現したものではなく、画家が組み立てた構図に基づき、デザイン性が高い。その一方で、保津川の土地の起伏や木々、勢いよく流れる川の動きや、女たちを襲った夕立の風や雨の感覚が、リアルに表現されている。

18世紀の後半に生まれ、19世紀前半に活躍した画家たち — 葛飾北斎(1760-1849)、酒井抱一(1761-1828)、歌川広重(1797-1858)等 — は、「装飾性」と「写実性」という二重の要請を満たしながら、各自の気質に応じた表現を模索していった。

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江戸時代中期(18世紀後半)における日本の絵画 写実性の移入

沈南蘋 雪梅群兎図

18世紀前半、幕府の政策の修正があり、キリスト教を除く外国の文物が解禁されるようになる。
1720年、徳川吉宗は、主に科学技術の導入を目的として、オランダからの本の輸入を解禁した。その政策が蘭学の基礎となり、科学的、実証主義的な思考が日本に芽生え始める。
1731年になると、沈南蘋(しん なんびん)が来日。長崎に2年間留まり、写実的な花鳥画を日本に伝え、18世紀後半に活動する画家たちに大きな影響を与えた。

この時代になり、初めて、日本の絵画の伝統に、写実という概念が導入されたと考えてもいい。
それ以前の絵画は、現実の事物を目に見えるままの姿で再現するという意識はなく、「装飾的に描く」か、あるいは、「造化の真を捉える」という意識が強かった。

現在では当たり前になっている「写生」が意識的に行われるのは、日本では18世紀後半においてである。その時代になって、伝統的な「装飾的表現」に「写実的表現」が加わったのだといえる。

この新しい時代精神は、京都を中心に活躍した画家たちだけではなく、江戸の浮世絵師たちにも共通している。そのことは、現実の事物をリアルに再現するという意識が日本に移入されたことをはっきりと示している。

京画壇の円山応挙が描いた「写生雑録帖」と江戸の喜多川歌麿の「画本虫撰(がほん むしえらみ)」に描かれた鳥、昆虫、植物等は図鑑の絵のようであり、見えるものを忠実に再現するという写実精神を確認することができる。

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