小林秀雄 「無常という事」 1/2 美はいかに経験されるのか

小林秀雄を読むのは、なかなか骨が折れる。高度な考察が書かれているらしいのだが、すっと理解できる文章ではないし、思考の流れも入り組んでいるように思われる。わからないまま、途中で投げ出してしまうこともあるだろう。

「無常という事」も、日本文化を理解するうえでキーワードとなる「無常」という言葉が題名に掲げられ、しかも2200字程度の短い批評なので、なんとか最後まで読もうと思うのだが、飛ばし読みしたり、途中で挫折してしまう読者も少なくない。

そこで、ここではまず、論理の組み立てをたどることから始めてみたい。
読み解くための第一歩は、「二つの対立する要素」が積み重ねられながら論が展開されている点に注目すること。語られている具体的な内容が、その二つのうちのどちらに分類されるのかを丁寧に区別していくのである。

その二項対立を意識したアプローチで読み進めていくと、小林の批評において中心的な意味を持つ「美」という言葉の本質が見えてくる。単なる字面にとらわれることなく、彼が言葉にどんな思想を託して読者に伝えようとしているのかが、徐々に理解できるようになるはずだ。

そして、「無常という事」という短い文章を理解することができれば、小林秀雄という日本を代表する批評家の思想の中核にも近づくことができるだろう。

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野矢茂樹 日本語は非論理的か — AIが示す新しい言語観

日本語が「非論理的」だと言われることがあるのは確かである。過去には、そのことを日本人の思考や国際社会における発信力の弱さと結び付けて論じる議論も見られた。多くの場合、その対比として挙げられるのは英語である。英語は論理的であるため、自分の意思を明確に表現し、相手を説得しやすい言語だと語られることがある。それに対して、日本語は曖昧さが多いため、自国の立場を十分に主張することが苦手なのだ、といった見方である。

その一方で、日本語はむしろ論理的な言語だという反論や、日本語は繊細で微妙な表現を可能にする豊かな言語であり、「非論理的」という評価自体が日本語への不当な見方だという意見も少なくない。

その背景には、「論理的」の反対語としてまず思い浮かぶ「非論理的」という言葉が、「筋道が通らない」「支離滅裂である」といった否定的な印象を伴っていることがあるだろう。また、「感情的」という言葉も、理性的な判断を欠いた状態を意味する場合には、やはり否定的な響きをもつ。そのため、「日本語は非論理的」と言われると、日本語そのものが劣った言語であるかのような印象を受けやすいのである。

しかし、現代言語学では、言語そのものに優劣はないという考え方が広く共有されている。それ以前に、言語活動において「論理的」とは何を意味するのか、そのこと自体を改めて考えてみる必要がある。

野矢茂樹の「日本語は非論理的か」(『言語』2005年12月号所収)という評論は、この問題を考える上で、多くの示唆を与えてくれる。

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ぼくはうなぎだ I’am an eel (?)

「ぼくはうなぎだ。」 この文が正しいか、変なのか、質問されたら、あなたはどう答えるだろうか。

実は、少し前の言語学では、この「うなぎ文」が研究のテーマとしてよく取り上げられていた。

そこで、いつものように、ChatGPT、Gemini、ClaudeというAI三兄弟に、「『ぼくはうなぎだ。』 この有名な文を、現在の言語学ではどのように説明していますか。」という質問を投げかけてみた。

ChatGPT

「ぼくはうなぎだ」は、日本語学や言語学では非常に有名な例文です。もちろん、話し手が本当にウナギであるという意味ではありません。
例えば、うなぎ屋で店員が注文を確認するとき、
• A「何になさいますか」
• B「ぼくはうなぎだ」
• C「私は天ぷらです」と言えば、
「私はうなぎを注文します」
という意味に理解されます。

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柄谷行人「場所と経験」からプラトン『国家』へ — AI・SNS時代の民主主義を考える

柄谷行人の「場所と経験」(『意味という病』所収)は、1972年(昭和47年)に発表された評論である。しかし、この作品は、21世紀に入って加速度的に進行しているさまざまな社会問題がどこから生じているのかを考えるうえで、多くの示唆を与えてくれる。

そして、その問題の本質を理解することは、現在の世界的な政治状況が今後どこへ向かうのかを考える手がかりにもなる。その際、紀元前4〜5世紀のギリシアの哲学者プラトンが『国家』で展開した政治論は、約2500年の時を経た今日においても、私たちに有益な視点を提供してくれる。

人間の本質は古今東西それほど変わるものではない。だからこそ、過去に書かれた書物であっても、私たちが「読む」ことによって常に「今」という時代に甦り、進むべき道を照らし出してくれるのだ。

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丸山真男 「思想のあり方について」 — 『日本の思想』を読み解く 2/2 現在進行中の世界の姿

丸山真男の『日本の思想』に収録されている「思想のあり方について」を読んでいる。1957年に行われた講演の原稿を元にした評論だが、21世紀に入り、SNSによって変容してしまった現代の日本、さらには世界のあり方を驚くほど鮮やかに先取りしている。

一言で言えばこういうことだ。人々はSNSによって広く繋がっているように見えて、その内実は思考のコミュニティが「タコツボ化」し、仲間内だけで通用する言葉や考え方に閉じこもっている。その結果、他者への差別的な意識と言語が強化され、その反作用として被害者意識が生まれるという悪循環が形成されてしまう。そうした社会構造が、いまや完全に出来上がっているのが現状だ。

丸山がここで描いたのは、明治維新を契機に伝統的な日本の価値観へと西欧思想が急激に入り込み、そのために起こった弊害が第二次世界大戦後も地続きで残っている状況だった。しかし、そこで指摘された「タコツボ化」という構図が、いまや21世紀の世界全体にまで広がっている事実には、深い驚きと切なさを禁じ得ない。

それでも、これが私たちの生きるリアルなのだ。まずはこの現実を冷徹に認識することこそが、次の一歩を踏み出すための確かな足場になるに違いない。

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丸山真男 「である」ことと「する」こと — 『日本の思想』を読み解く 1/2 今を生きる私たちへの道しるべ

丸山真男の「『である』ことと『する』こと」は、1958年(昭和33年)の講演を下敷きに執筆され、『日本の思想』(岩波新書、1961年)に収録された評論であるが、21世紀の現在でも、日本社会や日本人の心理構造を理解する上で重要な示唆を与えてくれる。

その理由は、政治学者である丸山の関心が、明治維新以降の近代化のプロセスにおいて、「飛鳥時代に本格的な形をとった日本の伝統」と「開国を契機とした西欧文物の急速な移入」という、二つの大きな潮流の複雑な絡み合いを探ることにあったからだと考えられる。

このことは、丸山の思索が「自然と作為」「成ると為す」「『である』と『する』」といった二項対立の概念を軸に展開されていることからも窺える。「伝統と近代」という問題もまた、この対比と深く関わっている。

現代の日本は、海外から「超近代的な側面を持ちながらも、他方で伝統文化を色濃く残す国」として知られ、時に驚きをもって語られる。「『である』ことと『する』こと」を読み解いていくと、まさに「である」の伝統と「する」の近代との葛藤が、今の日本でも地続きで存在していることに気づかされる。

60年以上も前に書かれた評論でありながら、丸山のまなざしは1000年以上の歴史を射程に収めており、現代社会の分析にとどまらず、「日本」という国や日本人の心のあり方を根底から知るための貴重な考察となっている。

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清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 2/2

清岡卓行の『手の変幻』(美術出版、1966年)に収められた「腕失われた両腕――ミロのヴィーナス」が高校の国語教科書にしばしば採用されていることから、「1/2」では、その文章に書かれている内容をできるかぎり綿密に読み解く過程を示してきた。それは、高校生だけでなく、一般の読者にとっても読解の出発点となるものだからである。
清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 1/2

しかし、読解はそこで終わるわけではない。
文章の内容を理解したうえで、その考え方や前提そのものを問い直してみることもまた、読解の重要な営みだからである。ここでは、そのような批判的な読みの力を「リテラシー」と呼ぶことにする。

現代社会では、さまざまな情報が絶えず流れ続けている。その中で、リテラシーを身に付け、言葉の背後にある前提や価値観を吟味し、一人ひとりが主体的に考える力を養っていくことが求められている。

リテラシーの第一歩となるのは、「疑う力」である。

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清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 1/2

清岡卓行(きよおか たかゆき、1922年 – 2006年)の『手の変幻』(美術出版、1966年)に収められた「失われた両腕 —— ミロのヴィーナス」と題するエッセイは、高校の国語教科書にしばしば採用されている。その理由の一つは、冒頭の一節がきわめて謎めいた文章で綴られているからではないかと思われる。

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。

通常であれば、完全なものが美しく、そこから何かが欠ければ美しさは損なわれると考えられる。ミロのヴィーナスについて、「欠損があるにもかかわらず美しい」と言うのであればまだ理解できる。しかし清岡は、「両腕を失っていなければならなかった」と、むしろその欠損を積極的に肯定する。腕がないからこそ、彼女はこれほどまでに魅力的なのだ、と。腕がないにもかかわらず美しいのではない。腕がないからこそ美しいのである。

その「逆説」を不思議に思うのは清岡だけではない。この一節を読む私たち読者もまた同じである。そして、その違和感ゆえに、私たちは一気にこのエッセイへと引き込まれる。

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泉鏡花 峰茶屋心中 作家の想像力 摩耶山をめぐって

泉鏡花が友人から贈られた摩耶山の絵はがきを目にしたとき、その風景は、幼くして失った母への思いと、摩耶山山頂の天上寺に祀られる釈迦の生母・摩耶夫人(まやぶにん)のイメージと重ね合わさって、いかにも鏡花らしい幻想の世界を生み出していった。それが、『峰茶屋心中』(『新小説』大正6年4月号)の冒頭に描かれた摩耶山にほかならない。

ここでの目的は、作家の想像力の働きを辿ることにある。そこで、まずは大正期の古い文体ではなく、現代語訳によってその世界に触れ、その後、『峰茶屋心中』に関しては、時代の息遣いを感じさせる鏡花の文章を読んでみることにしよう。

『一景話題』(明治44年)に収められた「夫人堂」の冒頭には、摩耶山の絵はがきを受け取ったときの思い出が綴られている。

神戸にいる親しい友人の西本氏が、先日、摂津国の摩耶山の絵葉書を送ってくれた。その便りには、次のように書き記されていた。

「亡くなった母が恋しくてたまらなくなり、二里(約8キロ)の山道を一気に駆け登りました。たなびくかすみの向こうに、慈愛に満ちた光を放つ(摩耶夫人の)尊いお姿を拝むことができました。」

これを行間から読み取るだけで、言葉にできないほどの懐かしさが胸に込み上げてくる。実は、私もまったく同じ思いを抱えている身なのだ。はるか遠くから摩耶山のあたりに思いを馳せるだけでも、あの端正で美しい(お母様の、そして仏様の)お姿が、ちょうど芽吹いたばかりの若葉の梢に包まれて、まるで紫色の薄い衣をまとっていらっしゃるかのように目に浮かんでくる。

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飛鳥・藤原の宮都 日本国誕生の舞台  世界文化遺産登録に寄せて

2026年6月、ユネスコの諮問機関が「飛鳥・藤原の宮都」の世界文化遺産への登録を勧告したというニュースが流れた。対象となるのは飛鳥時代の宮殿や仏教寺院の遺構、墳墓などで、「文化的伝統や文明を伝承する物証として無二、あるいは少なくとも稀有な存在」との評価を受けたという。

世界遺産への登録を推進する側からは、以下のような趣旨が発表されている。

『飛鳥・藤原』−この言葉から多くの方が連想されるのは「日本の心のふるさと」です。これは、この地で東アジアとの政治的・文化的交流によって中央集権体制に基づいた宮都が誕生し、日本国誕生の舞台となったから、そして、その歴史の舞台が、1300年以上も経た現在も、田園景観の中に良好に伝えられてきたからです。
https://asuka-fujiwara.jp/asuka-fujiwara/

こうした言葉を読むと、なんとなく納得するところもあるのだが、具体的に掘り下げてみると、例えば「日本国誕生の舞台」という言葉が本当は何を意味しているのか、はっきりとわからなかったりする。

それに、そもそも飛鳥時代とはいつ頃のことで、その前はどの時代だったのか、あるいは藤原京がいつ・どこに存在したのか、すぐに答えられる人はそれほど多くないのではないだろうか。

しかし、少し調べてみると、現在の日本の骨格が飛鳥時代に出来上がったことが見えてくる。この時代を知ることは、まさに「今」を理解することにつながっているのだ。

これから少しだけ、飛鳥時代へとワープしてみよう。

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