
「わたし」は、マルスの歌を耳にするたびに拒否反応を示す。それは戦時中に反戦を主張することであり、平和な時代から見れば、それこそが正当な抗議あるいは抵抗であり、勇気ある正義の行為であるとみなされて当然だろう。
しかし、冬には冬用の服を着るのが普通であり、季節が変わっても夏服を着ていたら、寒さで命を落としてしまうとしたらどうだろうか。冬に夏服を着ている人間は、周囲から奇異の目で見られ、相手にされないだろう。同じように、戦争という季節の中で、国を守るためであれば多くのものを犠牲にし、最終的には命をかけても仕方がないと考える人々が数多くいたとしても、驚くことではない。
石川淳も、そのことは十分に意識していたはずである。実際、「わたし」以外の登場人物には、反戦の思想を持っていると思われる人間は誰もいない。街頭や食堂に集う人々はマルスの歌に声を合わせ、心の中でも戦争という季節にふさわしい服を着ている。ごっこ遊びの末に死ぬ冬子の思想は不明だが、帯子は「ばんざい」を叫び、三治は軍に召集されることを当然のこととして受け入れる。彼らが国家の方針に反発を示す様子は見られない。
しかし、「マルスの歌」という小説の本当の狙いは、「わたし」に身近な人間たち、つまり、戦争という季節にふさわしい服を着ている普通の人々の中に、本人たちにも意識されていないであろう戦争に対する拒絶を浮かび上がらせることにあったのではないだろうか。それは、言論統制が行われ、自由な意思を表明することが困難な時代に、石川淳という作家が、多数派の勢いに流されるのではなく、静かに反対の意思を表現する、非常に巧みな仕掛けにほかならない。
その仕掛けの中心に置かれるのは、「死」である。戦争は死に直結する。非常に大まかな数字ではあるが、第二次世界大戦中の日本では、軍人約230万人、民間人約80万人が死亡したという推計もある。太平洋戦争末期の沖縄戦では、県民の約4分の1が死亡したといわれている。冬子の死は、戦争における死とは異なる。だからこそ、冬子の死を通して、戦争における死とは何かという問いが浮かび上がってくることになる。
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