坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その 1 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 1

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、峠に住む残忍な山賊と美しい女性との屈折した関係を中心に展開する怪奇小説であり、残酷な場面も多く見られる。しかし、複雑な人間のあり方を通して、読者一人ひとりが自らの生きる道を考えるきっかけとなる作品でもある。そして、そこでは、桜の開花が特別な役割を担っている。

Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison, de Sakaguchi Ango, est une nouvelle fantastique qui se déploie autour de la relation tourmentée entre un brigand cruel vivant dans un col de montagne et une femme d’une grande beauté ; on y rencontre de nombreuses scènes d’une violence saisissante. Néanmoins, l’œuvre constitue aussi, à travers la complexité des figures humaines qu’elle met en jeu, une invitation adressée à chaque lecteur à réfléchir sur sa propre manière de vivre. Et là, la floraison des cerisiers y assume un rôle tout particulier.

ここでは、坂口安吾の独特な文体をできるかぎりフランス語に移植することを目指し、フランス語を母語とする読者にも『桜の森の満開の下』の魅力が伝わるような翻訳を試みたい。

Ici, nous tenterons de transposer en français, autant que possible, le style singulier de SAKAGUCHI Ango, afin de faire percevoir aux lecteurs francophones tout le charme et la puissance de Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison.

桜の森の満開の下

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

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フランス語における比較級の否定形 ne … pas moins A que Bなど

日本語を母語とする人にとって、フランス語の比較級のうち、優等比較(plus…que)や同等比較(aussi…que)は比較的すんなり理解できる。しかし、劣等比較(moins)になると、やや抵抗を覚えることがある。

さらに、そうした文が否定形になると、その都度立ち止まって考えなければならない場合が多い。
« Il n’est pas moins intelligent que courageux. »
彼は知的なのか、勇敢なのか、あるいは両者の程度がどう比較されているのかが、直感的にはつかみにくいのではないだろうか。

そこで、次の四つのケースを整理し、すぐに理解できるようにしてみたい。

(1) Il n’est pas moins intelligent que courageux.

(2) Il n’est pas tant intelligent que courageux.

(3) Il n’est pas plus intelligent que courageux.

(4) Il n’est pas aussi intelligent que courageux.

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日本の自然観 源氏物語絵巻 東屋(一)(二)を通して

『源氏物語絵巻』東屋(一)を見ると、平安貴族たちがいかに自然と親しみ、自然の中で生きていたかが見えてくる。

私たちは一般に、この絵画を『源氏物語』第50帖「東屋」の一場面であることを前提に鑑賞する。そのため、つい女性たちに目が向き、左端で本を見ている女性が浮舟(うきふね)であり、その前で長い髪を梳いてもらっているのが中君(なかのきみ)である、といった具合に、物語の内容に即して解釈しがちである。

しかし、あらためて場面そのものに目を向けると、中央を占めているのは几帳に描かれた風景であり、その背後の襖にも自然の光景が大きく描かれていることに気づく。そのうえで物語を思い起こせば、浮舟が見ているのは、女房が読む「詞書(ことばがき)」に対応する「物語絵」であることがわかる。つまり、この室内には三つの風景が取り込まれていることになる。

「東屋」の物語が旧暦の八月から九月にかけて、すなわち秋に設定されていることを頭に入れた上で、当時の色彩に復元された画像を見てみよう。

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日本の自然観 大伴家持とベルナール・ド・ヴァンタドゥールの雲雀 Deux alouettes pour penser la nature au Japon

日本の自然観をフランスで紹介しようと考えたとき、まず思ったのは、それが何に由来するのかということだった。そこで行き着いたのが、和歌の伝統である。和歌には季語があり、季節に応じてさまざまな風景が立ち上がってくる。

そんなふうに考えていたとき、ふと、和歌に詠まれた雲雀と、十二世紀フランスの詩に歌われた雲雀の姿を思い出した。どちらも人間の感情を託された鳥である。しかし、その現れ方はまったく異なり、むしろ対照的だと言ってよい。
雲雀 万葉集の和歌とトゥルバドゥールの詩を通してみる日仏の美的感性

この二つの雲雀を手がかりに、日本では人間と自然がどのような関係にあったのか、そしてその関係が今もなお保たれていることを、フランス語で短くまとめてみた。ここではまず、その大まかな内容を日本語で紹介し、続いて元となったフランス語の文章を転載することにする。

(1)フランス語文の概要

空へ舞い上がる雲雀を詠んだ二つの詩がある。一つは大伴家持の和歌で、春の寂しさがそのまま息づいている。もう一つは十二世紀南フランスのトルバドゥール、ベルナール・ド・ヴァンタドゥールの恋の歌である。

家持の歌はこうだ。

うらうらに 照れる春日に ひばり上がり 心悲しも ひとりし思へば

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八咫烏(やたがらす)をめぐる小さな旅

最近よく話をする知り合いが「八咫烏にはまっている」と言い、Facebookのリールで得た情報を送ってくれた。
それによると、「イザナギの大御神、天照大御神、かもの大御神が八咫烏だったと、聖徳太子が記している」のだという。

八咫烏を中心にしたこの不思議な組み合わせがどこから出てくるのか、今から八咫烏を探す旅に出発してみよう。

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La Nature mère : une sensibilité japonaise face à l’écologie occidentale

Il est toujours enrichissant de découvrir une autre manière de penser afin de mieux comprendre la sienne. Ici, je voudrais apporter à la sensibilité occidentale un point de vue japonais sur la frontière du vivant, ainsi que sur notre empathie envers les autres êtres vivants, dans l’espoir d’ouvrir un dialogue entre deux modes de pensée — occidental et oriental — qui se distinguent souvent dans leur manière d’aborder ces questions.

(1) La ligne de démarcation entre l’être humain et les autres êtres vivants

Comparé à l’Europe et aux États-Unis, le Japon ne connaît pas un essor aussi marqué des mouvements végétariens ou écologistes.

Tout en réfléchissant aux raisons de cette différence, examinons tout d’abord la manière de penser, dans le monde occidental, des personnes qui ont fait le choix de ne pas consommer de viande animale. Autrefois, même si l’on pouvait éviter de manger la chair de certains animaux pour des raisons religieuses, il semble que l’on ne refusait pas de consommer de viande au nom de la lutte contre la maltraitance animale.

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感情的即断(感情ヒューリスティック)の時代

マーケティングの世界では、「感情(情動)ヒューリスティック」という言葉がよく使われる。人の感情に訴えることが、ビジネスの成功につながる重要な要素だと考えられているからだ。

しかしその一方で、SNSで見られる攻撃的な言動と、この「感情(情動)ヒューリスティック」が結びついている可能性について語られることは、あまり多くない。

「感情ヒューリスティック」は Affect Heuristic を日本語化した表現だが、「ヒューリスティック」というカタカナ語は少しわかりにくい。
そこでここでは、これをもっと身近な言葉である「即断」と言い換え、「感情的即断」と「攻撃性」の関係について、少しだけ考えてみたい。

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日本語を漢字で表記し始めた段階 法隆寺金堂 薬師如来像 光背銘 2/2 

推古天皇と聖徳太子の前で行われた請願の内容が次に記されていく。

我大御病太平欲坐故

A. 「われ」— 我

ここでは、日本語の一人称「われ」あるいは「わが」という概念に対して、漢字「我」が充てられている。読みは訓読みで「われ」とする。

光背銘では、寺や仏像を建造する側の人間を指す主語として使われていると解釈できる。したがって、ここでの「我」は天皇ではなく、天皇の命令を受けた側の人間を示す。

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日本語を漢字で表記し始めた段階 法隆寺金堂 薬師如来像 光背銘 1/2 

漢字仮名交じり文が日本文化の最も大きな特色の一つだとするならば、どうしても調べてみたくなることがある。
それは、文字をもたなかった時代に、中国大陸との交流を通して古代中国語による文語、すなわち漢文を知った私たちの先人が、外国語の書記記号である漢字を用いて、どのように日本語を書き記そうとしたのか、また、その過程でどのような工夫を凝らしたのか、という点である。

まず、古代中国語によって書かれた文、すなわち漢文と、日本語との根本的な違いを見ておこう。

 民不畏死 : フン・フ・イ・シ (『老子』)

語順は、主語+動詞+目的語である。
文法的には、動詞は活用せず、日本語の助詞に相当する形態素は存在しない。また、文中の語の関係は、主として語順や文脈によって示される。
発音は単音節で、一つの漢字に一つの音が対応する。すなわち、民=ミン、不=フ、畏=イ、死=シ、である。

タミハ シヲ オソレ ナイ 

語順は、主語+目的語+動詞(+否定辞)となる。
文法的には、動詞は活用し、文中の語の関係は助詞によって明示される。
発音は、シ(si)のような単音節もあれば、タミ(ta-mi)、オソレ(o-so-re)のような多音節語も存在する。

このように、日本語は漢文とは構造的にまったく異なる言語である。
その日本語を、漢字という別言語の書記体系を用いて表記し、最終的に「民は死を畏れない」という形で、漢字と仮名を交えて書き表せるようになるまでには、数百年に及ぶ歳月を要したであろうことは、想像に難くない。

ここでは、その過程を知るための代表的な例として、法隆寺金堂に収められた薬師如来像の背面に書かれた光背銘(623年)を読んでみよう。

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面白い話と事実の確認 — 考えるためのベース 琵琶湖と淡路島

ある人から、面白い話を聞いた。

知っていますか? 琵琶湖だったところの地面が飛んでいって、淡路島になったんですよ。

普通なら誰も信じない話なのだけれど、その話の主の仲間内では、エジプトのピラミッドは縄文時代の日本の技術で作られた、などという説がごく普通に流通している。そんな環境なので、「もしかすると?」と思ってしまったりもする。

確かに、琵琶湖と淡路島は形がよく似ているし、大きさも同じくらいに見える。ところが、そこですぐに次の言葉が続いた。

でも、琵琶湖の深さと淡路島の高さは違いますよね。琵琶湖の深さは6メートルくらいだし、淡路島の山は200メートルくらいある。合わないですよね。

話はこれで終わりなのだが、あまりにも面白かったので、それを使って、話題を楽しむことから情報の事実確認へと進むという、認識法について簡単に考えてみることした。

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