芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 7/7 立石寺 月山 最上川 佐渡

『おくのほそ道』は、太平洋側を歩む行き旅と、日本海側に沿った帰りの旅という二つの行程によって、大きな構造が形作られている。
その分岐点となるのが、平泉と尿前。

平泉では、「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」の句によって捉えられた「無常な時の流れ」(流行)と、「五月雨の降(ふり)のこしてや光堂」の句が感知させる「不変・永遠」(不易)とが、古代の英雄や中尊寺の金色堂を通して詠われた。
それに対して、後半の旅の開始となる尿前の関で、芭蕉は悪天候のために門番の家に3日間も泊まることになり、「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」といった、卑近な題材を俳句として表現する。
この明確な対比を境にして、芭蕉の旅は後半に入る。

尿前の関から日本海側に抜けるためには、尾花沢の近くにある大石田で船に乗り、最上川を下っていくという行程が考えられる。
芭蕉もその旅程を取るのだが、しかし、二か所で寄り道をする。
まず、尾花沢からすぐに船に乗らず、立石寺を訪れる。
大石田で船に乗った後、出羽三山(白黒山、湯殿、月山)を訪れるために、いったん船を下りる。

太平洋側の旅では、時間の経過によって失われたもの(流行)と、永遠に残っているもの(不易)が別々に捉えられてきた。
ところが、蚤、虱、馬の尿から始まる後半の旅の始まりにおいて、山中を横切りながら、芭蕉は流行と不易が一つであることを悟っていく。
弟子の去来(きょらい)が伝える言葉で言えば、「不易と流行は元は一つ」(「去来抄」)。
それが日本海側の旅の中で、どのように表現されているのか見ていこう。

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アルチュール・ランボー 吐いた泥までが煌(きら)めく詩人 2/3 『地獄の季節』

『地獄の季節』は、1854年10月生まれのアルチュール・ランボーが、1873年、19-20歳の頃に書き上げた散文詩集。

1871年9月、17歳直前のランボーはポール・ヴェルレーヌと出会い、その翌年からはベルギーやロンドンで共同生活を送った。
その生活は、1873年7月10日、ブリュッセルにおいてヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件によって終結する。

『地獄の季節』の最後に「1873年、4月-8月」と記されているが、その日付は、詩集がヴェルレーヌとの波乱に富んだ関係の中で構想されたことを教えてくれる。

ちなみに、ヴェルレーヌの有名な詩「巷に雨が降るごとく/わが心にも涙降る」のエピグラフには、ランボーの「街に静かに雨が降る」という詩句が掲げられ、二人の詩人が相互に影響を与え合っていたことを示している。

彼らの最も大きな点は、音楽性の重視。
ランボーとヴェルレーヌの詩句においては、言葉の持つ音楽性が際立ち、大変に美しいフランス語の響きを聞かせてくれる。

他方、大きな違いもある。
ヴェルレーヌはあくまでも韻文詩の枠内に留まったが、ランボーは素晴らしい韻文詩を書きながらも、そこに留まることなく、「散文」による詩へと表現の幅を広げていった。

「散文詩」の試みは、19世紀後半には非常に革新的なものだった。
フランスでは、詩は「韻文」であることが不可欠な条件であり、「散文詩」というジャンルは、1850年代の半ば、シャルル・ボードレールによって展開されたものだった。
その際に前提として知っておくべきことは、詩的散文、つまり詩を思わせる散文はあくまで散文であり、詩ではないということ。
(まれな例だが、現在でも、詩は韻文でなければならず、散文詩は存在しないと主張する研究者が存在する。)

では、散文で書かれた作品を、どのようにして「散文詩」という一つの文学ジャンル」として認めさせるのか?
韻文でなければ詩として認められなかった時代、それが大きな問題だった。
『地獄の季節』の散文は、その問題に対する一つの解答に他ならない。

ただし、いかにもランボーらしく、自費出版の約束でブリュッセルの出版社に原稿を渡しながら、1873年10月に印刷製本が終わった時、費用の残額を支払わなかった。そのために彼は数冊を受け取っただけで、残りの500部近くはポート社の倉庫に残されたままになった。

その『地獄の季節』が、20世紀になると広く読まれるようになり、現在では世界中で最もよく知られた詩集であり続けている。文学における奇跡の一つと言っていいだろう。

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シャルルヴィルのランボー・ツアー

ランボーが死んだ頃、家族は恥ずかしい思いをしていたそうだが、今ではシャルルヴィル=メジエールの誇りであり、ランボーの足跡を巡るツアーも行われている。

Sur les pas d’Arthur Rimbaud à Charleville-Mézières

Charleville-Mézières, dans les Ardennes, est la ville natale du plus grand poète français, Arthur Rimbaud. 

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新しいタイプの原子力発電

現行の原子力発電は核分裂によってエネルギーを得たが、現在研究されているものは核融合によるものであり、その場合には現在のような危険はなくなるというニュース。

La fusion nucléaire

Pour bien comprendre comment une fusion nucléaire marche, on se tourne vers le soleil. On va l’observer parce que c’est lui qui est la source d’inspiration.
Sur les images, si on zoome au niveau des atomes, les deux petits noyaux vont se rapprocher jusqu’à fusionner ensemble pour créer un seul gros noyau. Et en fusionnant, il libère énormément d’énergie, de la chaleur, de la lumière, et c’est exactement cela qu’on appelle “la fusion nucléaire”.

Tout l’enjeu va donc être de réussir à recréer tout cela mais chez nous sur terre, dans des immenses centrales de fusion nucléaire, pour fabriquer, comme à l’intérieur du soleil, énormément d’énergie sous forme d’électricité et sans émettre de CO2. 

Les risques dans les centrales nucléaires d’aujourd’hui sont très différents, car on n’utilise pas la fusion, mais la fission nucléaire. Concrètement, on va casser un noyau d’atome, qui libère de l’énergie, qui va casser un autre noyau et ainsi de suite. Et c’est cette réaction en chaîne qui peut s’emballer, si on perd le contrôle et potentiellement causer un accident, voire une explosion dans de très rares cas. 

アルチュール・ランボー 吐いた泥までが煌(きら)めく詩人 1/3 

アルチュール・ランボーは、10代の半ばに詩を書き始め、20歳頃には詩作を完全に捨て去ってしまった。その間に詩集としてまとめられたのは、『地獄の季節』の一冊のみ。
それにもかかわらず、現在でも世界中で最もよく名前の知られた詩人であり、活気に満ちた美しい詩句が多くの読者を魅了し続けている。

ランボーの詩がどのようなものか、的確かつ簡潔に理解させてくれる言葉がある。

ランボオ程、己を語って吃(ども)らなかった作家はない。痛烈に告白し、告白はそのまま、朗々(ろうろう)として歌となった。吐いた泥までが煌(きら)めく。(小林秀雄「ランボオ II」)

小林秀雄のこの言葉、とりわけ「吐いた泥までが煌めく」という言葉は、詩人としての天才に恵まれた若者が、社会的な規範にも、詩の規則にもとらわれず、自由に思いのままを綴った詩句が、新鮮な輝きを放ち続けていることを見事に表現している。

私たちは、その実感を、小林秀雄自身が訳した『地獄の季節』の冒頭から感じ取ることができる。

かつては、もし俺(おれ)の記憶が確かならば、俺の生活は宴(うたげ)であった、誰の心も開き、酒という酒はことごとく流れ出た宴であった。
ある夜、俺は『美』を膝の上に座らせた。 — 苦々しい奴だと思った。 — 俺は思いっきり毒づいてやった。                   
               (ランボオ作、小林秀雄訳『地獄の季節』)

ランボーは、「美」を崇め、「美」の前で跪(ひざまづ)くことはしない。その反対に、「美」に向かい勢いよく毒づく。
その毒づいた言葉が、「美」に祝福されているかのように美しく、キラキラと煌めく。
小林のこの訳は、ランボーのフランス語の詩句の勢いを、見事に日本語の移し換えたものになっている。

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命の線引き  妊娠中絶 安楽死 ベジタリアン エコロジー etc.

命の価値は絶対的なものであり、殺人は絶対的な悪だと誰もが考えるだろう。
そして、その前提に立った上で、堕胎や安楽死など、生命に関係する問題について、賛成か反対かが論じられる。
視点を少しズラすと、菜食主義に関しても、動物を人間と近い存在と考え、植物との間で線引きをするるかどうかという問題になる。

だが、歴史的に見ると、人間が価値を置く生命に関しての絶対的な基準はなく、時代や地域によって考え方が異なることが確認される。
子供殺しが頻繁に行われていた時代があり、動物を残酷に扱うことが動物虐待と見なされない地域が今でもある。
悪や善の基準に「変化」はあっても、「進歩」はない。基準は常に相対的なものだ。

ここでは、人間が人間の命を左右する問題(中絶、安楽死等)と、人間以外の生物の問題(ベジタリアン、エコロジー)に分け、「命の線引き」について考えていきたい。

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日本を民主主義政治から読む

現代の社会において、議会制民主主義は正常に機能しているのだろうか。それとも、古代ギリシアのように、衆愚政治と見なされる政治制度になってしまっているのだろうか。
その問いは、政治をよりよく機能させ、人々の日々の暮らしをよりよくするために、今こそ必要とされると考えたい。

国会議員の選挙にしろ、地方議員の選挙にしろ、選挙がある度に投票が呼びかけられる。そして、一定数の人々は、自分たちの権利として、あるいは義務感に駆られて、投票所に足を運ぶ。
同調できる意見を持つ人を自分たちの「代理」として選択し、選ばれた人々がその意見を反映した政治を行うことを前提とした「議会制民主主義」が日本の政治制度である以上、投票しないことは選択の権利を放棄することを意味する。だからこそ、投票は義務なのだと言われることもある。

議会制民主主義は、デモ(古代ギリシア語で「民衆」を意味する)+クラシー(支配)を実現することを可能にする一つの制度であり、一つの共同体において多数の意見を実現する政治を行うために適したものといえる。

ただし、その制度が適切に機能するためには、投票する側の人間に二つのことが求められる。
1)一定の知見と判断力
2)選択された人々の実現する政治を検証する意識

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芭蕉 『おくのほそ道』 不易流行の旅 6/7 失われたもの 永遠なもの

芭蕉と曽良は江戸を出発して以来、歌枕の地を数多く訊ねながら、仙台までやって来る。そして、「おくのほそ道」と呼ばれる小道を通った後、多賀城で壷碑(つぼのいしぶみ)を目にする。
それは多賀城の由来が刻まれた石碑で、歌枕として多くの和歌に詠み込まれたものだった。

壷碑を実際に目にした時の感激を、芭蕉は次のように綴る。

むかしよりよみ置(おけ)る歌枕、おほく語り伝ふといへども、山崩れ川流て道あらたまり、石は埋(うずもれ)て土にかくれ、木は老いて若木にかはれば、時移り、代(よ)変じて、その跡たしかならぬ事のみを、ここに至りて疑いなき千歳(せんざい)の記念(かたみ)、今眼前に古人の心を閲(けみ)す。
行脚(あんぎゃ)の一徳、存命の悦び、羈旅(きりょ)の労をわすれて、泪(なみだ)も落つるばかりなり。

芭蕉は、壷碑が「疑いなき千歳の記念」、つまり1000年前から続く姿をそのまま留めているに疑いはないと確信し、これこそが長い旅の恩恵であり、生きていてよかったと痛感し、旅の苦労を忘れるほどに感激し、涙を流しそうになる。

その歌枕が古の時代に詠われた姿のままであるのを前にし、心を深く動かされるのはごく自然なことに違いないが、感激が大きいのにはもう一つの理由があった。

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ランボー 「わが放浪(ファンテジー)」 Rimbaud « Ma Bohême (Fantaisie) » 放浪する若き詩人の自画像

「わが放浪(ファンテジー)Ma Bohême (Fantaisie)」は、1870年10月に、年長の友人ポール・デメニーに預けた手書きの詩22編の中の一編。

翌1871年6月にデメニーに手紙を書き、全ての詩を燃やしてくれと依頼した。しかし、幸いなことに、デメニーは要求に従わなかった。そのおかげで、私たちは、16歳を直前にしたランボーの書いた詩を読むことができる! 

当時のランボーは、「詩人になる」という目標を掲げ、模索していた。
1870年5月24日に高名な詩人テオドール・ド・バンヴィルに送った3編の詩(「感覚(Sensation)」を含む)は、ロマン主義的な傾向をはっきりと示していた。
その1年後、1871年5月に書かれた「見者(le Voyant)の手紙」では、ロマン主義の詩を真っ向から否定し、「あらゆる感覚を理性的に狂わせ、未知なるものに達する」という詩法を展開した。

その中間時点にあるデメニーに託した詩群は、ロマン主義から出発して「見者の手紙」の詩法へと歩みを進めつつある段階にあった。
そのことは、放浪と詩作のつながりをテーマとする「感覚」と「我が放浪」 を並べてみるとよくわかる。

「感覚」では、全ての動詞が単純未来に活用され、まだ実現されていない希望が理想として思い描かれる。

夏の真っ青な夕方、ぼくは小径を歩いて行くだろう
Par les soirs bleus d’été, j’irai dans les sentiers

ランボー 「感覚」 Rimbaud « Sensation » 自然を肌で感じる幸福

理想との対比を強調するために、「わが放浪」では動詞は過去時制で活用される。

Je m’en allais, les poings dans mes poches crevées ;
Mon paletot aussi devenait idéal ;
J’allais sous le ciel, Muse ! et j’étais ton féal ;
Oh ! là ! là ! que d’amours splendides j’ai rêvées !

ぼくは出掛けていった、破れたポケットに拳骨を突っ込んで。
ハーフコートも同じように、理想的になっていた。
大空の下を歩いていたんだ、ミューズよ! ぼくはお前の僕(しもべ)だった。
あーあ! なんて数多くの輝く愛を、ぼくは夢見たことだろう!

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