小説家の想像力 浦島太郎と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

言われるまでは気づかない。だが、言われてみると、思わず「そうだ」と膝を打つことがある。こうした気づきが小説家の言葉によってもたらされるとき、小説家の想像力の働きとはまさにこういうものなのだと、深く納得させられる。

小泉八雲が浦島太郎伝説について思いを巡らせた「ある夏の日の夢(The Dream of a Summer Day)」の一節を読んだとき、私はまさにそんな思いにとらわれた。八雲は、竜宮城から故郷へ帰っていった太郎を思い、夫の帰りを待ちわびる海中の妻の姿に言及している。

それまで私は、浦島太郎がなぜ楽園である竜宮城を去り、地上へ戻ろうとしたのかという理由について考えたことはあった。しかし、太郎が消え去った後の乙姫について考えたことは、一度もなかった。

取り残された妻について、八雲は次のように語る。なお、英語版で、乙姫は竜王の娘とされている。

私はもう一度、浦島のことを思った。竜王の娘が、彼を迎えるために美しく整えられた宮殿の中で、むなしく待ち続けている姿を見た。そして、あの無情な雲の帰還、何が起こったのかを告げ知らせるその帰還を思い浮かべた。さらに、晴れ着のような盛装に身を包んだ、いかにも素朴で愛情深い海の生きものたちが、彼女を慰めようとしている光景も。しかし、実際の物語には、そうしたものは何ひとつ語られていない。そして、人々の憐れみは、すべて浦島に向けられているように思われた。(「ある夏の日の夢」The Dream of a Summer Day, p.18)

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青木繁 「朝日」 穏やかな静寂の情景

たまたま青木繁の「朝日」を目にした。
絵画を鑑賞する際には、描かれた世界の中に入り込むのが一番なので、まずは絵そのものを見つめてみよう。

ここに描かれているのは、雄大にうねる波と赤く染まりゆく空が、今にも溶け合おうとする姿。

(1)色彩

海は、群青色や紫で描かれた波がゆったりとたゆたい、物質的な重みと底知れぬ静寂をたたえている。その重厚な感覚に対して、波頭の白さと射し始めた光が、海面に確かな生命感を与えている。
一方の空は、金色から淡いピンク、そして薄紫へと色彩が変化し、おぼろげながらも、今まさに昇りつつある太陽の温かさを伝えている。

(2)筆致(タッチ)

海は、短く力強い筆致によって絵具の質感が際立っている。色彩に「物質としての重み」が加わることで、波の振動が直接的に響いてくる。
対照的に空は、薄く層を重ねるように描かれ、大気の軽やかさと広がりのある光が表現されている。

(3)グラデーションによる境界の消失

海の「冷色(青・紫)」と空の「暖色(黄・橙)」、そして重厚さと軽やかさという二つの対比は、水平線付近で鮮やかに溶け合う。太陽の光が海面へと滴り、海の青が空の低い位置に霞として立ち上るその様は、まさに色彩の境界が調和し、溶け合っていくかのようだ。

「朝日」という画題は、昇りゆく太陽が暗い海を照らし始め、闇から光へと移り変わる「瞬間のドラマ」を捉えている。それこそが、この絵に刻まれた情景に他ならない。

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なぜ人は「事実」より「理由」を求めてしまうのか 陰謀論の心理学

あるインタビューの中で、SF作家であり政治家でもある安野貴博が、興味深い指摘をしていた。

私はSF作家だからわかりますが、作家の思考回路と陰謀論を生成する思考回路はとてもよく似ている。脳みそに「妙に残っちゃう」ストーリーや、仮にそうだとしたら面白いと思うアイデアを生み出すところが(笑)。
https://books.bunshun.jp/articles/-/9738

確かに、単なる事実よりも陰謀論の方が「ロマン」があるように感じられるし、人間にとってフィクションと現実が切っても切れない関係にあることは確かである。

しかし、夢のあるサイエンス・フィクションとは異なり、悪をでっち上げ、それを攻撃することで成立する陰謀論は、決して社会を善い方向へは導かない。
いまや偽りの情報に対して、どれほど「正しい情報」を提示しても意味をなさない時代が到来している。「ポスト真実」という言葉さえ、すでに過去のものになりつつある。

こうした現状を踏まえ、ここでは「なぜ正しい情報は広がらないのか」という問いから出発し、「陰謀論のシステム」と「そこにハマる人々の心理」について、できる限り簡潔に考察していきたい。

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真理に達する道は一つではない — シンマクスによる多様性と寛容の勧め

「ただ一つの道によって、これほど大いなる神秘に到達することはできない。」

力で相手を打ち倒せばすべてが解決する、そんな発想からなのか、自己の正義を振りかざした戦争という愚かな暴力が、いまも世界各地で繰り返されている。
だからこそ、この言葉はいっそう強く心に響く。

Nous contemplons les mêmes astres, le ciel nous est commun, le même univers nous enveloppe.
Qu’importe par quelle sagesse chacun cherche la vérité ?
On ne peut parvenir par un seul chemin à un si grand secret.

私たちは同じ星を仰ぎ見ている。空はすべての人に共通であり、同じ宇宙が私たちを包んでいる。
いったい何が重要だろう、どのような叡智によって、人それぞれが真理を求めるのか、ということが。
ただ一つの道によって、これほど大いなる神秘に到達することはできない。

英語だとこんな風に訳される。

We look up at the same stars; the sky is common to us all; the same universe encompasses us.
What does it matter by what path each of us seeks the truth?
We cannot arrive at so great a secret by one route alone.

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坂口安吾 文学のふるさと — 「救いがないこと自体が救い」という逆説

坂口安吾の作品を読んでいると、残酷な場面の後にも救いが示されず、ハッピーエンドにも至らないため、読者である私たちはしばしば途方に暮れてしまう。読み終えた後にもカタルシスがない。それでもなお、彼の作品をつい読んでしまうのはなぜだろうか。

その問いに対して、坂口安吾自身が答えてくれているかのようなエッセーがある。それが、1941年に発表された文学論「文学のふるさと」だ。

このエッセーの冒頭で、安吾はフランスの作家シャルル・ペローの「赤ずきん」を取り上げる。そこでは、少女が狼に食べられたところで物語が終わり、狩人による救出劇は存在しない。人間が狼にむしゃむしゃと食べられる場面で物語は閉じられ、そこには救いがない。

安吾は、「救いのなさこそが救いである」という逆説的な議論を展開し、そこに「文学のふるさと」を見出す。その展開の中で、『伊勢物語』第六段「芥川」を取り上げている。

ここでは、愛する女が鬼に食べられて終わるという、救いのない「芥川」の物語を辿りながら、坂口安吾の文学観について考えてみたい。

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能ある鷹は爪を隠す — 文化の違いを楽しむ

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に訳すとどうなるか考えていて、日本とフランスの文化、あるいは日本的精神とフランス的精神の違いに思いを巡らせることがあった。

日本語をフランス語に直訳すれば、« Le faucon talentueux cache ses serres. »

では、このフランス語の単文がフランスの文化の中で、日本語の諺が意味する「本当に力のある人間はそれを見せびらかすことなく謙虚に振る舞う」といったニュアンスを伝えるだろうか?
問題は、「隠す」という言葉がどのように受け取られるかにかかっている。

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AIを活用して「考える力」を育てる  —— 対話する技術

ChatGPT、Gemini、Claudeといった生成AIを使っていると、それぞれの個性に面白みを感じる一方で、その論理展開の精密さには驚かされる。人間を凌駕するほどの論理性を備えたこれらのツールが、極めて有用であることは疑いようもない。

しかし、その一方で危急の課題もある。
AIはこちらの問いかけの先を行く回答をスムーズに提示するため、油断するといつの間にかAIが示す方向へと、こちらの思考が引き寄せられてしまいそうになるのだ。

では、私たちはどのようにして自らの思考の主体性を保ちながら、AIの論理力を利用すればいいのか。少々矛盾するようだが、その術(すべ)をGeminiに問いかけてみた。

AIの論理の展開力は、普通の人間のレベルを超えているように思います。一般の人々が、どのように利用すれば、自分の思考を保ちながら、AIの論理展開力を利用できるでしょうか。

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その4 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction -4

女は大変なわがまま者でした。どんなに心をこめた御馳走をこしらえてやっても、必ず不服を言いました。彼は小鳥や鹿をとりに山を走りました。猪も熊もとりました。ビッコの女は木の芽や草の根をさがしてひねもす林間をさまよいました。然し女は満足を示したことはありません。

 La femme était extrêmement égoïste. Même si on lui préparait de délicieux repas avec tout son cœur, elle ne manquait pas d’exprimer son mécontentement. Lui courait dans la montagne pour capturer de petits oiseaux et des cerfs. Il attrapait aussi des sangliers et des ours. Quant à la femme boiteuse, elle errait dans les bois tout le jour, cherchant des bourgeons d’arbres et des racines. Et pourtant, la femme ne montra jamais aucun signe de satisfaction.

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