
キャンディス・スプリングス(Kandace Springs)は、テネシー州ナッシュビル出身のジャズ・シンガー兼ピアニスト。
彼女の歌声は、深みと温かみのあるソウルフルなスモーキーボイス(Smoky Voice)で、生楽器(アコースティック楽器)の本来の音色や、演奏者の「呼吸」を大切にした音作りをしたオーガニック・サウンド(Organic Sound)とよくマッチしている。
そんな雰囲気がよく感じられる 「As Time Goes By(時の過ぎ行くままに)」をまず聴いてみよう。

キャンディス・スプリングス(Kandace Springs)は、テネシー州ナッシュビル出身のジャズ・シンガー兼ピアニスト。
彼女の歌声は、深みと温かみのあるソウルフルなスモーキーボイス(Smoky Voice)で、生楽器(アコースティック楽器)の本来の音色や、演奏者の「呼吸」を大切にした音作りをしたオーガニック・サウンド(Organic Sound)とよくマッチしている。
そんな雰囲気がよく感じられる 「As Time Goes By(時の過ぎ行くままに)」をまず聴いてみよう。

「美しいもの」というとき、私たちは、目に見えるものや耳に聞こえてくるものを思い浮かべるのではないだろうか。花を見て美しいと思う。あるいは、好きな音楽でなくても、楽器の音を聞いただけで美しいと感じることがある。そうしたとき、大切なのは、その美しさを説明することではなく、まず美を感じることだと、小林秀雄は強調する。
美しい自然を眺め、或(あるい)は、美しい絵を眺めて感動した時、その感動はとても言葉で言い現せないと思った経験は、誰にでもあるでしょう。諸君は、何んとも言えず美しいと言うでしょう。この何んとも言えないものこそ、絵かきが諸君の眼を通じて直接に諸君の心に伝え度(た)いと願っているのだ。音楽は、諸君の耳から這入って真直ぐに諸君の心に到り、これを波立たせるものだ。美しいものは、諸君を黙らせます。美には、人を沈黙させる力があるのです。これが美の持つ根本の力であり、根本の性質です。絵や音楽が本当に解るという事は、こういう沈黙の力に堪える経験をよく味(あじわ)う事に他なりません。ですから、絵や音楽について沢山の知識を持ち、様々な意見を吐ける人が、必ずしも絵や音楽が解った人とは限りません。解るという言葉にも、いろいろな意味がある。人間は、いろいろな解り方をするものだからです。絵や音楽が解ると言うのは、絵や音楽を感ずる事です。愛する事です。知識の浅い、少ししか言葉を持たぬ子供でも、何んでも直ぐ頭で解りたがる大人より、美しいものに関する経験は、よほど深いかも知れません。実際、優れた芸術家は、大人になっても、子供の心を失っていないものです。
絵画や音楽の場合には、感じることが大切だと言われれば、その通りだと思う。しかし、言葉によって成り立つ文学の場合はどうだろう。言葉を理解することなしに、文学の美を感じることができるのだろうか。小林は、次に、こうした疑問に答えていく。
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小林秀雄の「美を求める心」は、小学生や中学生に向けて、「美」を感じる際の心得をやさしく語ったエッセーだと考えられている。
私が驚くのは、子供たちに絵画や和歌、詩を理解することだけでなく、そうした芸術の美を感じる方法についても語っていることだ。しかし、それと同時に、1957年(昭和32年)、つまり今から約70年前には、これほど硬質な文章でも子供たちに向けたものとして通用したという事実にも驚かされる。現在であれば、こうした文章は、高校生や大人の読者を対象としたものと考えられるだろう。それほど、文章を読み解く力の水準が低下しているのではないかと思ってしまう。
他方で、「美を求める心」で展開される小林の勧めが、知識を持たず、素直に芸術作品に向き合うといった、単なる体験主義として理解されてしまうのではないかという懸念も拭えない。「美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ」という、冒頭に出てくる言葉は、そうした反知性主義や経験第一主義といった誤解を招く余地を残している。
しかし、「何も考えずに」という言葉をそのまま受け取ってしまうとしたら、なぜ小林が「何を措(お)いても、見ることです。聴くことです」と、「見ること」や「聴くこと」をあれほど強調するのかが理解できなくなる。小林がこのエッセーで子供たちに伝えようとしているのは、まさに「見ること、聴くこと」の難しさなのだ。そして、その難しさを通して、「理解する」とはどういうことか、「感じる」とはどういうことかを考え、子供たちを「美しい物の姿を正しく感ずる心を持った人」へと導こうとする。それが、彼の意図だったと考えられる。
ここでは、「美を求める心」を素読するようなつもりで、小林秀雄の言葉に触れていきたい。
近頃は、展覧会や音楽会が盛んに開かれて、絵を見たり、音楽を聴いたりする人々の数も急に殖えてきた様子です。その為でしょうか、若い人達から、よく絵や音楽について意見を聞かれるようになりました。近頃の絵や音楽は難かしくてよく判らぬ、ああいうものが解るようになるには、どういう勉強をしたらいいか、どういう本を読んだらいいか、という質問が、大変多いのです。私は、美術や音楽に関する本を読むことも結構であろうが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりする事が第一だ、と何時も答えています。
続きを読む(3)「他者」は敵?

一般的に、昔話や童話では、主人公が勧善懲悪の物語を通して悪を退治し、最後には幸せな結末を迎える。しかし、芥川版「桃太郎」では、鬼征伐を終えた桃太郎に、必ずしも幸福な結末が待っているわけではない。生き残った鬼たちによる攻撃に悩まされ続けることになるのだ。この不思議な結末から、私たちは何を読み取ることができるだろうか。
そのヒントとなるのが、鬼の母が孫たちに語り聞かせる言葉である。
「お前たちも悪戯(いたずら)をすると、人間の島へやってしまうよ。人間の島へやられた鬼はあの昔の酒顛童子(しゅてんどうじ)のように、きっと殺されてしまうのだからね。え、人間というものかい? 人間というものは角(つの)の生(は)えない、生白(なまじろ)い顔や手足をした、何ともいわれず気味の悪いものだよ。おまけにまた人間の女と来た日には、その生白い顔や手足へ一面に鉛(なまり)の粉(こ)をなすっているのだよ。それだけならばまだ好(い)いのだがね。男でも女でも同じように、うそはいうし、欲は深いし、焼餅(やきもち)は焼くし、己惚(うぬぼれ)は強いし、仲間同志殺し合うし、火はつけるし、泥棒(どろぼう)はするし、手のつけようのない毛だものなのだよ……」(芥川龍之介「桃太郎」)
鬼にとって人間とは、見た目が気味悪いだけでなく、野獣のように野蛮な存在なのだ。だからこそ、「人間の島へやってしまう」という脅し文句は、子供たちにとって最も恐ろしい罰を意味することになる。人間が恐ろしい生き物であるという認識は、鬼の島では常識だったに違いない。
続きを読む(2)桃太郎は「天才」

芥川龍之介が語る「桃太郎」では、鬼ヶ島での鬼退治が、桃太郎一団による侵略として描かれていることを確認した。しかし、そうした理解だけでは、こぼれ落ちてしまう部分がある。そのことは、物語の最後で桃太郎のような存在を「天才」と呼んでいる一節を読むと、はっきりと見えてくるはずである。
物語の冒頭では、深い山の奥に大きな桃の木が数多くあり、その一つの実を八咫烏がついばむと、実が地上に落ち、桃太郎が生まれたというエピソードが語られた。そして物語の最後では、これからも「未来の天才」が桃の実の中から生まれてくるというのである。
人間の知らない山の奥に雲霧(くもきり)を破った桃の木は今日(こんにち)もなお昔のように、累々(るいるい)と無数の実(み)をつけている。勿論桃太郎を孕(はら)んでいた実だけはとうに谷川を流れ去ってしまった。しかし未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。あの大きい八咫鴉(やたがらす)は今度はいつこの木の梢(こずえ)へもう一度姿を露(あら)わすであろう? ああ、未来の天才はまだそれらの実の中に何人とも知らず眠っている。…… (芥川龍之介「桃太郎」)
平和に暮らす鬼たちの島を侵略し、宝物を奪い、若者たちを人質として連れ去った桃太郎が、なぜ「天才」といえるのだろうか。天才と呼ばれる人間が、それほど非人間的で、倫理に反する行動をするのだろうか。そんな疑問が湧いてくるのではないだろうか。
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「桃太郎」と聞けば、私たちは、桃から生まれた桃太郎がきび団子を持ち、犬、猿、キジを連れて鬼ヶ島へ向かい、鬼を征伐して宝物を持ち帰る、といった物語を思い浮かべる。
こうしたイメージが広く定着した背景には、明治期以降、桃太郎を題材にした唱歌が繰り返し歌われ、また小学校の国語教科書にも取り上げられてきたことがある。その中でも、明治44年(1911年)の『尋常小学唱歌』に収録された「桃太郎」は、現在でもよく知られている。

1.桃太郎さん、桃太郎さん、お腰につけた黍団子、一つわたしに下さいな。
2.やりましょう、やりましょう、これから鬼の征伐に、ついて行くならやりましょう。
私たちはこの歌詞をなんとなく口ずさむことができるが、歌うときに、「なぜ鬼の征伐に行くのか」と考えることはない。鬼とは、もともと人間に悪さをする怖い妖怪であり、鬼退治をする桃太郎は、勧善懲悪のヒーローとして描かれるものだと、私たちは自然に受け止めているからだ。
ところが、芥川龍之介の「桃太郎」では、鬼の島は平和な楽園のような場所として描かれ、桃太郎は部下たちとともにその島を侵略し、富を奪って故郷に戻る存在として描かれている。その上、芥川は、その桃太郎を「天才」に属する人物としている。
この物語は大正13年(1926年)に発表されたものだが、芥川龍之介によって語り直された昔話は、私たちに何を考えさせてくれるのだろうか。ここでは、三つのレベルの読解を提示してみよう。
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ジャズはポップスに比べて聴く人が少ないようで、現在、最高峰のジャズシンガーの一人といっても過言ではないダイアン・リーブス(Dianne Reeves)でさえ、YouTubeでの視聴回数はそれほど多くない。
ジャズ好きとしては少し残念なので、彼女のライブから、いくつかの動画を紹介してみたい。
最初は、今から60年くらい前に大ヒットした「君の友達(You’ve Got a Friend)」。ギタリストのラッセル・マローン(Russell Malone)とのデュオで、曲の良さを最大限に引き出している。

第1詩節の10行を読むだけで、現代フランス語と中世フランス語の違いの大きさは十分に理解できたに違いない。ここでも、活用された動詞の前に主語代名詞が置かれないことや、現代とは異なる語彙が用いられていることなどを頭に置きながら、「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み進めていこう。
また、ここでもやはり、ジェラール・フィリップの朗読に耳を傾け、中世のフランス語の音とリズムを心と体に刻んでいこう。
第2詩節
第1詩節の冒頭で、絞首台に吊るされている死体を見物している人々に向かい「Frères humains(人類の兄弟たちよ)」と呼びかけたように、第2詩節でも再び frères という言葉が使われる。そして、この詩節の前半では、処刑台の上の死者と下から見ている生者が、実は近い存在であることが示される。
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フランソワ・ヴィヨンの名前は、日本では太宰治の『ヴィヨンの妻』によって広く知られている。あるいは、芥川龍之介の「フランソア・ヴイヨンだけは彼の心にしみ透つた。彼は何篇かの詩の中に「美しい牡」を発見した」(「或阿呆の一生」)という一節から、この中世フランスの詩人に興味を持った人もいるかもしれない。
芥川や太宰に愛され、本国フランスでもヴェルレーヌやランボーらに愛読されたことを知れば、どうしてもヴィヨンの原詩を直接読んでみたくなる。
しかし、中世のフランス語は現代フランス語とは大きく異なっているため、少し努力しないとなかなか読み解くことができない。ここでは「それでも原語でトライしてみたい」という読者の存在を期待して、綴り字は現代風に補正しつつも、単語や構文は中世フランス語のまま、ヴィヨンの最もよく知られた詩「絞首刑にされた者たちのバラード」(Ballade des pendus)を読み解いていくことにする。

フランソワ・ヴィヨンは、中世末期の百年戦争の混乱期に生まれ、何度か牢獄に投獄され、実際に死刑宣告を受けたこともあった。そうした極限状態のなかで、絞首台に吊るされた者たち(pendus)の姿を想像し、その死体を見物する生者たちへ語りかけるという構図を着想したのだろう。
実際、この詩の正式な題名は「ヴィヨンが、彼自身と仲間たちが絞首刑に処されるのを待ちながら書いた、バラード形式の墓碑銘」(l’Epitaphe en forme de ballade que fit Villon pour lui et ses compagnons s’attendant à être pendus avec eux)というものである。
この題名の中でバラード(Ballade)という言葉が使われているが、中世の定型詩法において、その形式は厳密に規定されていた。
この「墓碑銘」が属する「大バラード(la grande ballade)」は、「1行10音節」「1詩節10行」の本体が3つ、さらに「1詩節5行」の結句(envoi)が1つ、計4つの詩節で構成される。
韻の構成は、10行の詩節ではababb / ccdcd、5行の結句ではccdcdという定型が決まっていた。
「絞首刑にされた者たちのバラード」は、この厳格な定型を守り抜いているだけでなく、詩句の音楽性も見事に工夫されており、死者と生者のために捧げる祈りとしての効果を最大限に高めている。
その高い詩的達成を知れば、ヴィヨンがいくら無頼で放浪の人生を送ったとしても、キリスト教が絶対的だった中世において、乱暴な言葉で詩を綴ったとは考えられないことがわかるだろう。
従来の日本語訳では無頼漢らしい粗野な口調が用いられることも多いが、ここでは提示する日本語は、できる限りフランス語の語順に忠実に、そして神や聖母マリアに捧げる切実な祈りにふさわしい言葉遣いを心がけることにする。

また、この詩の内容は「キリスト教の教え(leçon)」、「絞首台の死者たちの描写(description)」、「神への祈り(prière)」という3つの要素に分かれるため、各部分を色分けし、ブロックごとに読み解いていく。
名優ジェラール・フィリップによる素晴らしい朗読をYouTubeで聴くことができる。彼の声に耳を傾け、15世紀フランス語の音楽的な詩句に身を委ねていると、中世フランス語への抵抗感も自然と消えていくに違いない。
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パリの街並みを背景に、フランス人なら誰でも知っているシャンソンをジャスミン・ロワ(Jasmine Roy)が歌う動画がある。
彼女は非常に歌がうまく、その歌声は「懐メロ」とも言える古き良きシャンソンの時代に心地よく寄り添う。さらに、モノクロで映し出されるパリの映像がノスタルジックな雰囲気を醸し出しており、まるで少し昔のパリを散歩しているかのような気分にさせてくれる。
ようやく夏が終わりを告げ、秋の気配が漂い始めた今の季節。まずはLes Feuilles mortes(枯葉)に耳を傾けてみよう。
Les Feuilles mortes