ルノワールの「イレーヌ・カーン・ダンヴェール嬢の肖像」は素晴らしく美しい。
この絵画のモデルとなった女性を映像で見ることができるだけではなく、彼女がこの絵を好きでなかったこと、彼女が結婚したカモンド家のこと、子供たちのこと、ナチスに奪われた絵が戦争の後彼女の元に戻されたこと、そして、その絵を彼女が売ってしまったことなど、本当に色々なことがわかる番組。
Month: 10月 2021
ミロのヴィーナスが発見された島 ミロス島
バルザック 人間社会の博物誌と神秘的直感 2/2
「バルザック 人間社会の博物誌と神秘的直感 1/2」からの続き
https://bohemegalante.com/2021/10/26/balzac-histoire-naturelle-de-la-societe-humaine-1/
(3) 分析 —— 意味の解明
人間の社会を観察し、分類した後には、分析し、結論を導き出すことになる。
バルザックの達した結論は、同時代の動物学者ジョフロワ・サン・ティレールが主張した「構成の単一性」に基づくものだった。
「構成の単一性」は、多様な動物の存在を説明するための一つの原理として提示された。
19世紀前半、博物学者であり、化石の研究によって古生物学を確立したジョルジュ・キュヴィエは、各種の動物の違いに連続性はなく、天地の大変動の度に生物が生まれ変わるという「天変地異説」を主張した。
それに対して、ジョフロワ・サン・ティレールは、異なる動物の連続性を主張し、究極的には一つの生物から全ての生物が発生するという「構成の単一性」説を提示した。
バルザックは、1842年に発表した「人間喜劇」の序文の中で、サン・ティレールの学説に基づき、彼の試みを次のように説明している。
単一の動物しかいない。創造主が全ての生物に関して使用したのは、ただ一つの同じ型だけだった。その動物とは一つの原理であり、その原理が外的な形を取る。より正確に言うならば、様々な環境の中で、形態の違いを形作るのであり、その環境の中で動物が自らを発展させるのだ。
この一節には様々な要素が含まれている。
続きを読むバルザック 人間社会の博物誌と神秘的直感 1/2

オノレ・ド・バルザック(1799-1850)は、16世紀の作家フランソワ・ラブレーに匹敵する言葉数の多さで、全てを語り、全てを説明し、全てを解明しようとした19世紀前半の小説家。
90巻以上の小説で構成される「人間喜劇」シリーズでは、「戸籍簿と競争する」という言葉で示されるように、ナポレオン失脚後のフランス社会全体を体系化して描き出そうとした。
その試みは、18世紀の博物学者ビュッフォンの『一般と個別の博物誌(Histoire naturelle, generale et particulierey)』に匹敵すると言ってもいい。
「博物学」とは、動物、植物、鉱物など自然界に存在する全てのものを対象として、収集し、分類する学問。
ビュッフォンは、地球、人間、自然の歴史といった一般論から始め、動物、鳥類、鉱物、元素など個別的な事物を体系的に記述し、数多くの精密な挿絵も含め、彼の死後に発表された巻を合わせると、全44巻に及ぶ百科事典を作り上げた。




バルザックは、ビュッフォンが自然界に関して行った作業を、人間社会に置き換えて実現しようとしたと言ってもいいだろう。





ジョルジュ・ブラサンス 生誕100年 死後40年
ジョルジュ・ブラサンス(Georges Brassens、1921年〜1981年)は、ギターの弾き語りというスタイルで、かつてのフランスの庶民の心情を文学的な歌詞にして歌った。
メロディーが素朴で、フランス人にしか理解できないような非常に微妙なニュアンスに富んだ歌詞だったために、フランス以外の国では人気が出なかったが、フランスでは今でも圧倒的な人気を誇っている。
彼の生誕100年、死後40年の今年、各種の音源や書籍が発売されたという紹介。
カーメン・マクレエのピアノ引き語り 新宿ダグでのライブ
カーメン・マクレエ(Carmen McRae : 1920年4月8日~1994年11月10日)は、ニューヨークのハーレムで生まれ、ジャズを代表する歌手として長く活躍した。
彼女の歌はいつ聞いても心を落ち着かせてくれるが、個人的に彼女のヴォーカルを好んで聞くのは、彼女が歌詞を大切にし、英語がとても聞き取りやすいからなのかもしれない。
アルバムの題名” As Time Goes by”は、映画「カラブランカ」の中で歌われた有名な曲から来ている。
1972年に新宿のジャズ喫茶「ダグ」において、カーメン・マクレエがピアノ弾き語りでスタンダート曲を歌った曲が収められている。
彼女の代表作ではないかもしれないが、とても親密な感じが溢れていて、10曲の作り出す約50分あまりの時が、あっという間に過ぎてしまう。
スタンダール 『赤と黒』 Stendhal Le Rouge et le Noir こうして恋心は生まれる

『赤と黒』には「1830年の年代記」という副題が付けられ、非常に明確な時代背景が描き込まれている。
ナポレオンの時代であれば、平民の出身でも、軍隊での功績次第で出世できる可能性があったかもしれない。しかし、1815年にナポレオンが完全に失脚し、ブルボン王朝が復活した後、平民が社会階層を駆け上がるためには聖職に就くしかなくなる。
題名にある「赤」は軍人を示し、「黒」は僧侶を示している。
貧しい製材屋の息子ジュリアン・ソレルは、田舎町ヴェリエールの町長レナール家の家庭教師となり、最初は「上流階級の女性をものにする」という野心を満たすために夫人を誘惑する。
しかし、その関係が発覚し、ジュリアンはレナール家を追われる。
その後、僧侶になるためにブザンソンの神学校に通い、校長であるピラール神父の保護を受けるようになる。そして、神父が神学校内部の争いのために職を追われ、ラ・モール伯爵の力添えでパリで聖職に就くようになると、ジュリアンも彼に従いパリに出、ラ・モール侯爵の秘書として働くようになる。

ラ・モール伯爵の家には、19歳になる娘マチルダがいる。彼女は我が儘に育てられ、気位が高い。夢見がちで、情熱的な恋愛に憧れている。そのために、サロンに集う若い貴族たちに満足できず、回りを退屈だと思い始めている。
そんな彼女にとって、最初、平民出身のジュリアンは単なる使用人でしかない。
そうした状況の中で、マチルダの心にほんのわずかな変化が生まれる瞬間がある。
優れた心理分析家であるスタンダールは、「恋愛の結晶化作用」の最初の一歩と言ってもいいマチルドの微妙な感情の動きを、本当に自然に描いている。
スタンダール 『パルムの僧院』 Stendhal La Chartreuse de Parme 幸福な監獄 La Prison heureuse

『パルムの僧院(La Chartreuse de Parme)』の主人公ファブリス・デル・ドンゴ(Fabrice del Dongo)は、劇場の踊り子マリエッタをめぐり一人の男を殺してしまう。その後、逃亡先で歌姫ファウスタをめぐり再び騒ぎを起こし、結局、検察長官の陰謀によって捕らえられ、ファルネーゼ城砦に投獄される。
その監獄の中で、恋多きファブリスは、他の幸福とは比べられない至上の幸福を経験する。というのも、独房に閉じ込められる前に、監獄の長官ファビオ・コンチ将軍の娘クレリアと再会し、恋に落ちたからだった。(7年前に一度二人は会ったことがあった。)
塔の上の閉ざされた独房の窓から下を覗くと、クレリアの部屋が見える。窓辺には鳥かごが置かれて、時にはクレリアが姿を現すこともある。
そうした状況の中、スタンダールが『恋愛論』の中で「結晶化作用」と名付けた精神の活動が作動する。
ザルツブルクの塩鉱山で、うち捨てられた深い穴の中に、冬に葉の落ちた木の枝を投げ入れる。2, 3ヶ月後、それを引き抜くと、輝く結晶で覆われている。最も小さな枝、シジュウカラの身体よりも大きいとはいえない枝が、キラキラと眩しい無数のダイヤモンドで覆われている。人はもうそれが最初の枝だとは思えない。
https://bohemegalante.com/2021/10/08/stendhal-de-lamour-cristallisation/
ファルネーゼ城砦の独房の中でファブリスに起こったのは、まさに恋愛の結晶化作用であり、監獄は至上の幸福の場となる。
その様子を、スタンダールがどのように描いているのか、読み説いていこう。
スタンダール 幸福を求めて

1783年に生まれたスタンダールの最大のテーマは、「幸福」だった。
実際の人生においても、様々なジャンルの著作においても、スタンダールが求めたものは「幸福」であり、その意味で、「個人の自由」や「科学の進歩」を通して「幸福」を追求した18世紀精神を継承しているといえる。
彼は、一方ではヴォルテールに代表される合理主義精神や科学主義に基づく思想を持ち続け、他方ではルソーを代表とする「人間の内面」に価値を置く心持ちの持ち主でもあった。
(18世紀の時代精神 幸福を求めて https://bohemegalante.com/2021/05/12/esprit-du-18e-siecle-bonheur/)
18世紀から19世紀に流れ込んだこの二つの精神性を合わせ持っていることは、フランス革命の6年前に生まれたスタンダール(本名:アンリ・ベール)が、18世紀精神の継承者であることを示している。
しかし、別の視点から見ると、彼の求める「幸福」は徹底的に「個人」に属するものであり、18世紀に主要な関心事であった「公共」の幸福は彼の関心事ではなかった。
彼が求めたのは「私の幸福」であり、「社会全体の幸福」を考えることはなかった。社会はむしろ「私」と敵対する存在として姿を現した。
その点では、彼と相容れなかった19世紀前半のロマン主義文学者たちとスタンダールは共通している。たとえロマン主義的抒情を好まなかったとしても、彼もまた「私」を視座の中心に据えた作家だった。
21世紀の日本人が、自分の感性を羅針盤にしてスタンダールの世界を航海するのではなく、19世紀前半のフランスにおける時代精神に基づいてスタンダールの「幸福の追求」を読み説くとき、どのような世界が見えてくるのだろうか。
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