清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 2/2

清岡卓行の『手の変幻』(美術出版、1966年)に収められた「腕失われた両腕――ミロのヴィーナス」が高校の国語教科書にしばしば採用されていることから、「1/2」では、その文章に書かれている内容をできるかぎり綿密に読み解く過程を示してきた。それは、高校生だけでなく、一般の読者にとっても読解の出発点となるものだからである。
清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 1/2

しかし、読解はそこで終わるわけではない。
文章の内容を理解したうえで、その考え方や前提そのものを問い直してみることもまた、読解の重要な営みだからである。ここでは、そのような批判的な読みの力を「リテラシー」と呼ぶことにする。

現代社会では、さまざまな情報が絶えず流れ続けている。その中で、リテラシーを身に付け、言葉の背後にある前提や価値観を吟味し、一人ひとりが主体的に考える力を養っていくことが求められている。

リテラシーの第一歩となるのは、「疑う力」である。

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清岡卓行  ミロのヴィーナス 解読からリテラシーへ 1/2

清岡卓行(きよおか たかゆき、1922年 – 2006年)の『手の変幻』(美術出版、1966年)に収められた「失われた両腕 —— ミロのヴィーナス」と題するエッセイは、高校の国語教科書にしばしば採用されている。その理由の一つは、冒頭の一節がきわめて謎めいた文章で綴られているからではないかと思われる。

ミロのヴィーナスを眺めながら、彼女がこんなにも魅惑的であるためには、両腕を失っていなければならなかったのだと、僕はふと不思議な思いにとらわれたことがある。

通常であれば、完全なものが美しく、そこから何かが欠ければ美しさは損なわれると考えられる。ミロのヴィーナスについて、「欠損があるにもかかわらず美しい」と言うのであればまだ理解できる。しかし清岡は、「両腕を失っていなければならなかった」と、むしろその欠損を積極的に肯定する。腕がないからこそ、彼女はこれほどまでに魅力的なのだ、と。腕がないにもかかわらず美しいのではない。腕がないからこそ美しいのである。

その「逆説」を不思議に思うのは清岡だけではない。この一節を読む私たち読者もまた同じである。そして、その違和感ゆえに、私たちは一気にこのエッセイへと引き込まれる。

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泉鏡花 峰茶屋心中 作家の想像力 摩耶山をめぐって

泉鏡花が友人から贈られた摩耶山の絵はがきを目にしたとき、その風景は、幼くして失った母への思いと、摩耶山山頂の天上寺に祀られる釈迦の生母・摩耶夫人(まやぶにん)のイメージと重ね合わさって、いかにも鏡花らしい幻想の世界を生み出していった。それが、『峰茶屋心中』(『新小説』大正6年4月号)の冒頭に描かれた摩耶山にほかならない。

ここでの目的は、作家の想像力の働きを辿ることにある。そこで、まずは大正期の古い文体ではなく、現代語訳によってその世界に触れ、その後、『峰茶屋心中』に関しては、時代の息遣いを感じさせる鏡花の文章を読んでみることにしよう。

『一景話題』(明治44年)に収められた「夫人堂」の冒頭には、摩耶山の絵はがきを受け取ったときの思い出が綴られている。

神戸にいる親しい友人の西本氏が、先日、摂津国の摩耶山の絵葉書を送ってくれた。その便りには、次のように書き記されていた。

「亡くなった母が恋しくてたまらなくなり、二里(約8キロ)の山道を一気に駆け登りました。たなびくかすみの向こうに、慈愛に満ちた光を放つ(摩耶夫人の)尊いお姿を拝むことができました。」

これを行間から読み取るだけで、言葉にできないほどの懐かしさが胸に込み上げてくる。実は、私もまったく同じ思いを抱えている身なのだ。はるか遠くから摩耶山のあたりに思いを馳せるだけでも、あの端正で美しい(お母様の、そして仏様の)お姿が、ちょうど芽吹いたばかりの若葉の梢に包まれて、まるで紫色の薄い衣をまとっていらっしゃるかのように目に浮かんでくる。

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小説家の想像力 浦島太郎と小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)

言われるまでは気づかない。だが、言われてみると、思わず「そうだ」と膝を打つことがある。こうした気づきが小説家の言葉によってもたらされるとき、小説家の想像力の働きとはまさにこういうものなのだと、深く納得させられる。

小泉八雲が浦島太郎伝説について思いを巡らせた「ある夏の日の夢(The Dream of a Summer Day)」の一節を読んだとき、私はまさにそんな思いにとらわれた。八雲は、竜宮城から故郷へ帰っていった太郎を思い、夫の帰りを待ちわびる海中の妻の姿に言及している。

それまで私は、浦島太郎がなぜ楽園である竜宮城を去り、地上へ戻ろうとしたのかという理由について考えたことはあった。しかし、太郎が消え去った後の乙姫について考えたことは、一度もなかった。

取り残された妻について、八雲は次のように語る。なお、英語版で、乙姫は竜王の娘とされている。

私はもう一度、浦島のことを思った。竜王の娘が、彼を迎えるために美しく整えられた宮殿の中で、むなしく待ち続けている姿を見た。そして、あの無情な雲の帰還、何が起こったのかを告げ知らせるその帰還を思い浮かべた。さらに、晴れ着のような盛装に身を包んだ、いかにも素朴で愛情深い海の生きものたちが、彼女を慰めようとしている光景も。しかし、実際の物語には、そうしたものは何ひとつ語られていない。そして、人々の憐れみは、すべて浦島に向けられているように思われた。(「ある夏の日の夢」The Dream of a Summer Day, p.18)

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坂口安吾 文学のふるさと — 「救いがないこと自体が救い」という逆説

坂口安吾の作品を読んでいると、残酷な場面の後にも救いが示されず、ハッピーエンドにも至らないため、読者である私たちはしばしば途方に暮れてしまう。読み終えた後にもカタルシスがない。それでもなお、彼の作品をつい読んでしまうのはなぜだろうか。

その問いに対して、坂口安吾自身が答えてくれているかのようなエッセーがある。それが、1941年に発表された文学論「文学のふるさと」だ。

このエッセーの冒頭で、安吾はフランスの作家シャルル・ペローの「赤ずきん」を取り上げる。そこでは、少女が狼に食べられたところで物語が終わり、狩人による救出劇は存在しない。人間が狼にむしゃむしゃと食べられる場面で物語は閉じられ、そこには救いがない。

安吾は、「救いのなさこそが救いである」という逆説的な議論を展開し、そこに「文学のふるさと」を見出す。その展開の中で、『伊勢物語』第六段「芥川」を取り上げている。

ここでは、愛する女が鬼に食べられて終わるという、救いのない「芥川」の物語を辿りながら、坂口安吾の文学観について考えてみたい。

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高村光太郎  「火星が出てゐる」 自(おの)ずから然(しか)るの思想

高村光太郎の詩といえば、「僕の前に道はない/僕の後ろに道は出來る」(「道程」)や、「智恵子は東京に空が無いといふ、/ほんとの空が見たいといふ。」(「あどけない話」)といった詩句をまず思い出す。「火星が出てゐる」は、それらに比べるとあまり知られていないかもしれない。

しかし、彫刻を学ぶために米英仏へ留学し、西欧的な芸術観を身につけた一人の人間が、ふとした折に立ち止まり、何かを決断しようとするとき、日本的な思考が強くしみ出してくる。その様子が描かれているという点で、この詩はとても興味深い。

そのキーワードは、「自(おの)ずから然(しか)る」である。この言葉は、現代を生きる私たちにとっても大切な響きを持っており、「生の指針」ともなり得る。

火星が出てゐる。

要するにどうすればいいか、といふ問いは、
折角たどった思索の道を初にかへす。
要するにどうでもいいのか。
否、否、無限大に否。
待つがいい、さうして第一の力を以て、
そんな問に急ぐお前の弱さを滅ぼすがいい。
予約された結果を思ふのは卑しい。
正しい原因に生きる事、
それのみが浄い。
お前の心を更にゆすぶり返す為には、
もう一度頭を高くあげて、
この寝静まった暗い駒込台の真上に光る
あの大きな、まっかな星を見るがいい。

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その3 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction -3

七人の女房は今迄に見かけたこともない女の美しさに打たれましたが、女は七人の女房の汚さに驚きました。七人の女房の中には昔はかなり綺麗な女もいたのですが今は見る影もありません。女は薄気味悪がって男の背へしりぞいて、
「この山女は何なのよ」
「これは俺の昔の女房なんだよ」
と男は困って「昔の」という文句を考えついて加えたのはとっさの返事にしては良く出来ていましたが、女は容赦がありません。
「まア、これがお前の女房かえ」
「それは、お前、俺はお前のような可愛いい女がいようとは知らなかったのだからね」
「あの女を斬り殺しておくれ」
 女はいちばん顔形のととのった一人を指して叫びました。

Les sept épouses furent frappées par la beauté de la femme, une beauté qu’elles n’avaient jamais vue jusque-là, tandis que la femme fut surprise de la laideur des sept épouses.

Parmi elles, il y en avait qui, autrefois, avaient été assez jolies, mais à présent, elles n’étaient plus que l’ombre d’elles-mêmes. 

Saisie d’un malaise, la femme se recula derrière le dos de l’homme et dit :

« Qu’est-ce que c’est que ces femmes de la montagne ? »

« Ce sont mes anciennes épouses », répondit l’homme, embarrassé. Avoir ajouté ce mot “anciennes” n’était pas mal pour une réponse improvisée, mais la femme ne le ménagea pas.

« Ah bon, ce sont donc tes épouses ? »

« C’est que, vois-tu, je n’avais pas su qu’il puisse exister une femme aussi charmante que toi. »

« Tue-moi celle-là d’un coup de sabre », cria la femme en désignant du doigt celle dont les traits étaient les plus réguliers.

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その2 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 2

山賊は女の亭主を殺す時から、どうも変だと思っていました。いつもと勝手が違うのです。どこということは分らぬけれども、変てこで、けれども彼の心は物にこだわることに慣れませんので、そのときも格別深く心にとめませんでした。

Le brigand, dès le moment où il tua le mari de la femme, eut le sentiment que quelque chose clochait.

Tout se passait différemment de d’habitude.

Il ne savait pas précisément quoi, mais c’était étrange ; pourtant, comme il n’était pas habitué à s’attarder aux choses, il ne le prit pas particulièrement à cœur, même sur le moment.

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坂口安吾 「桜の森の満開の下」フランス語訳の試み その 1 Ango SAKAGUCHI , « Sous la pleine floraison de la forêt de cerisiers», essai de traduction – 1

坂口安吾の「桜の森の満開の下」は、峠に住む残忍な山賊と美しい女性との屈折した関係を中心に展開する怪奇小説であり、残酷な場面も多く見られる。しかし、複雑な人間のあり方を通して、読者一人ひとりが自らの生きる道を考えるきっかけとなる作品でもある。そして、そこでは、桜の開花が特別な役割を担っている。

Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison, de Sakaguchi Ango, est une nouvelle fantastique qui se déploie autour de la relation tourmentée entre un brigand cruel vivant dans un col de montagne et une femme d’une grande beauté ; on y rencontre de nombreuses scènes d’une violence saisissante. Néanmoins, l’œuvre constitue aussi, à travers la complexité des figures humaines qu’elle met en jeu, une invitation adressée à chaque lecteur à réfléchir sur sa propre manière de vivre. Et là, la floraison des cerisiers y assume un rôle tout particulier.

ここでは、坂口安吾の独特な文体をできるかぎりフランス語に移植することを目指し、フランス語を母語とする読者にも『桜の森の満開の下』の魅力が伝わるような翻訳を試みたい。

Ici, nous tenterons de transposer en français, autant que possible, le style singulier de SAKAGUCHI Ango, afin de faire percevoir aux lecteurs francophones tout le charme et la puissance de Sous les fleurs de la forêt de cerisiers en pleine floraison.

桜の森の満開の下

桜の花が咲くと人々は酒をぶらさげたり団子をたべて花の下を歩いて絶景だの春ランマンだのと浮かれて陽気になりますが、これは嘘です。なぜ嘘かと申しますと、桜の花の下へ人がより集って酔っ払ってゲロを吐いて喧嘩して、これは江戸時代からの話で、大昔は桜の花の下は怖しいと思っても、絶景だなどとは誰も思いませんでした。近頃は桜の花の下といえば人間がより集って酒をのんで喧嘩していますから陽気でにぎやかだと思いこんでいますが、桜の花の下から人間を取り去ると怖ろしい景色になりますので、能にも、さる母親が愛児を人さらいにさらわれて子供を探して発狂して桜の花の満開の林の下へ来かかり見渡す花びらの陰に子供の幻を描いて狂い死して花びらに埋まってしまう(このところ小生の蛇足)という話もあり、桜の林の花の下に人の姿がなければ怖しいばかりです。

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日本の自然観 源氏物語絵巻 東屋(一)(二)を通して

『源氏物語絵巻』東屋(一)を見ると、平安貴族たちがいかに自然と親しみ、自然の中で生きていたかが見えてくる。

私たちは一般に、この絵画を『源氏物語』第50帖「東屋」の一場面であることを前提に鑑賞する。そのため、つい女性たちに目が向き、左端で本を見ている女性が浮舟(うきふね)であり、その前で長い髪を梳いてもらっているのが中君(なかのきみ)である、といった具合に、物語の内容に即して解釈しがちである。

しかし、あらためて場面そのものに目を向けると、中央を占めているのは几帳に描かれた風景であり、その背後の襖にも自然の光景が大きく描かれていることに気づく。そのうえで物語を思い起こせば、浮舟が見ているのは、女房が読む「詞書(ことばがき)」に対応する「物語絵」であることがわかる。つまり、この室内には三つの風景が取り込まれていることになる。

「東屋」の物語が旧暦の八月から九月にかけて、すなわち秋に設定されていることを頭に入れた上で、当時の色彩に復元された画像を見てみよう。

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