日本人にはなぜ英語やフランス語の習得が難しいのか? 構文について考える

日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい。その理由は何か?

答えは単純明快。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。

この事実は当たり前のことだが、しかし、日本語との違いをあまり意識して考えることがないために、どこがわかっていないのかがはっきりと分からないことも多い。
例えば、英語の仮定法と日本語の条件設定との本質的な違いを理解しないまま、if を「もし」と結び付けるだけのことがあり、そうした場合には、大学でフランス語の条件法を学ぶ時も、英語のifで始まる文と同様にsiで始まる文が条件法の文だと思ってしまったりする。

これは一つの例だが、ここでは問題を語順に絞り、日本語とフランス語の違いがどこにあり、日本語を母語にする人間にとって、どこにフランス語習得の難しさがあるのか考えてみよう。

ちなみに、これから検討していく日本語観は、丸山真男が「歴史意識の中の”古層”」の中で説いた、「つぎつぎに/なりゆく/いきおい」という表現によって代表される時間意識に基づいている。丸山によれば、日本人の意識の根底に流れるのは、常に生成し続ける「今」に対する注視であり、それらの全体像を把握する意識は希薄である。
そうした意識が、日本語という言語にも反映しているのではないかと考えられる。

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学ぶこと 考えること 井筒俊彦「語学開眼」

井筒俊彦の「語学開眼」という子供時代の思い出を語るエセーは、実際の教育現場では「学ぶ」ことから「考える」ことにつなげるのいかに難しいことかを、分かりやすい言葉で教えてくれる。

それは、井筒が中学校二年生の時のエピソード。

今でもよく憶(おも)い出す。中学2年生、私は劣等生だった。世の中に勉強ほど嫌いなものはない。学問だとか学者だとか、考えただけでもぞっとする。特に英語が嫌いだった。(井筒俊彦「語学開眼」『読むと書く』所収)

教室の中では英文法の授業の最中で、大学出たての若い先生が熱心に何やら喋(しゃべ)ていたけれど、その言葉は私の耳には入ってはいなかった。ふと、我にかえった。「イヅツ」「イヅツッ!」と先生の声が呼んでいた。「どこを見ている。さ、訳してごらん。」
見上げると黒板に、 There is an apple on the table.と書いてある。なぁんだ、これくらいなら僕にだって。
「テーブルの上にリンゴがあります。」
「うん、それじゃ、これは」と言って先生は、There are apples on the table.と書いた。
「テーブルの上にリンゴがあります。」

正解? 不正解?

an appleに続けてapplesと書いた先生の意図は、生徒に単数と複数の区別を教えることにある。
井筒少年の訳では、その区別ができていない。試験であればバツがつく。

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国語の授業と読むこと

小学校から高校までの「国語」の授業で、読むことの訓練が12年間にわたり行われ、誰でも読むことはできるようになっている。実際、日本の識字率は高い。
他方で、「国語」教育の問題点も指摘されている。例えば、長文読解ができない、論理的な文章が書けない、発信力が弱い、本(文学)を好きにならない、国語嫌いが多い、等。

そうした現状に関して考えて行くヒントとして、生徒の印象に残った作品名を上げてみると、中学と高校で次のような結果らしい。
中学:竹取物語、走れメロス、奥の細道、等。
高校:羅生門、こころ、山月記、舞姫、檸檬、源氏物語、等。

こうした作品が心に残っているとしたら、生徒にとって大きな意味があるに違いない。

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『竹取物語』は、日本人的な心の在り方を私たちに教えてくれる。
一般的に、かぐや姫が月に戻っていくところで話は終わるように思われているが、実はその続きがある。
月に戻る前、姫は育ての親に対する愛情を強く示し(人情)、愛する帝には不老不死の薬を残していく。その薬を、帝は富士(不死)の山に投げ入れる。
そうしたエピソードは、月よりも地上を、不死=永遠よりも現実=時間を好む、日本的な心性を表現している。

太宰治の『走れメロス』と芥川龍之介の『羅生門』は、対極的な倫理観を提示する。一方は、真実の友情の物語。他方は、下人が生き延びるために老婆を犠牲にするエゴイスムの物語。
『羅生門』と同じように、他者の犠牲の上で生き延びる「私」という枠組みは、夏目漱石の『こころ』や森鴎外の『舞姫』にも見られる問題であり、多くの犠牲を出した第二次世界大戦の後の、日本人の心の在り方を考えるきっかけになる。

エゴイスムに孤独感が加わると、中島敦の「山月記」になる。
そして、生きることの孤独感は、「えたいの知れない不吉な塊」が心を常に押さえつけることをテーマにした梶井基次郎の『檸檬』や、「月夜の晩に、拾つたボタンは/どうしてそれが、捨てられようか?」と歌う中原中也の詩「月夜の浜辺」によっても取り上げられる。

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こうした作品を通して、国語教育を受ける一人一人の子供たちは、濃淡の差はあれ、自分の中に抱える切実な問題を感じ取っているだろう。
そして、それぞれの作品を通して、自分自身について考え、人とのつながりについて考え、話し合うことで、「自分の考えを根拠に基づいて的確に表現すること」の訓練ができるに違いない。

しかし、現実には、「長時間かけても文章を理解できるようにならない」子供たちが多数発生し、読むことも、言葉で論理的に表現することも十分にできない、という統計結果が出ている。

せっかく素晴らしい文学作品に接しながら、なぜ本嫌いが増え、読書離れが加速しているのかを考えるために、国語教育の中で、文学作品について行われるテストの問題を覗いてみよう。

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日本語の文字表記(漢字、ひらがなの併用)と日本的精神

日本語の最も大きな特徴は何かと言えば、漢字、ひらがな、カタカナ、アルファベットなどを併用することだといえる。その歴史的な過程を辿ると、それが日本的な精神と関係していることがわかってくる。

古代の日本は無文字社会であり、活字は中国大陸から移入したものだった。「漢」字という名称がその由来を現在でも残している。英語で漢字はChinese characters、フランス語ではcaractères chinois。現在の日本で使われている漢字は中国語の漢字とはかなり違っているが、起源が同じであることに変わりはない。

しかし、私たちは漢字が外来のものだと意識することなく使っている。そのことが、日本的な精神の一つの表現かもしれないのだ。

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日本語と英語・フランス語の根本的な違い 概念と状況

英語やフランス語を勉強してもよくわからないことがある。その理由は簡単で、日本語に同じ概念がないこと。

例えば、中学や高校で過去形と現在完了形を教わったのだが、私には違いが明確にわからなかった。大学のフランス語の授業で接続法を教わったが、ただ活用を覚えただけだった。
それ以外にも色々とあるのだが、なぜそうしたことが起こるかといえば、日本語表現がベースとするものと、英語やフランス語のベースとするものが違っているからだ。

そうした違いを、実際の生活の中でも感じたことがある。
フランスで話をしていて、神戸に住んでいると言うと、東京から何キロ?と聞かれることがあった。そんな時、私は何キロか知らないので、新幹線で3時間ちょっとと答えたりしていた。
また、初めてフランスに来たのはいつかと質問されると、20数年前とか、もう随分前のこと、とか答えていた。しかし、フランス人の知り合いは、1998年といった年号で言うことが多いことに気づいた。

ここからわかるのは、日本語を母語にする者にとって、物事を表現するときの基準が「私」にあり、空間的にも、時間的にも、「私」からの距離を表現する傾向にあるということ。
逆に言うと、「私」とは直接関係しない客観的な基準に基づいて表現することが少ないことになる。
実際、「コロナでマスクをしないといけなくなったのはいつから?」と聞かれて、「もうけっこうになる」とか「2・3年前から」と答え、年号で答えることは少ないだろう。

こうした違いがあるにもかかわらず、日本語と英語、フランス語などの根本的な違いがあまり語られないのには理由がある。
現在の国語(日本語)文法が整えられたのは明治時代初期のことであり、西洋の文典に基づき日本語の文法が編纂された。つまり、国文法は西洋語の文法の応用として作られた。
そのために、日本語と欧米の言語の根本的な違いが見過ごされる傾向にあると考えられる。

ここでは、その違いについて簡単に考えてみたい。

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日本語の音楽を聴く

音のない言葉を考えることはできない。
声に出して話したり読んだりする時だけではなく、頭の中で何かを考える時にも音があり、それらの音の繋がるリズムを感じている。

日本語を母語とする者にとっては、5/7を基本とするリズムがごく自然に心地よく感じられる。

ひさかたの 光のどけき 春の日に 静心(しづごころ)なく 花の散るらむ(紀友則)

私の上に 降る雪は/真綿(まわた)のやうで ありました(中原中也)

これらの言葉の魅力は、意味だけではなく、口調の良さによってももたらされている。
言葉たちが音楽を奏で、私たちはその音楽に耳を傾けて、うっとりするといってもいいだろう。

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日本語の特色と普段の話題

日本語には面白い特色があるが、その中のあるものは、人間関係に影響を及ぼし、会話の中身そのものに直接かかわっている。

様々な場所で、人の噂話をしたり、芸能人ネタや恋バナで盛り上がり、時間を忘れるほどになる。
仲の良い友だちの間なら、人の悪口もいいネタになったりする。

もちろん、こうした話題はどんな言語でも話されるに違いない。
しかし、日本語には、こうした話題をすることで、ある目的を達しやすくする特色があるらしい。
『私家版 日本語文法』の著者、井上ひさしは、そうした特色を「自分定めと縄張りづくり」「ナカマとヨソモノ」と表現している。

結論を言ってしまえば、私たちがよくする会話は、ナカマ意識の確認と、もう一つ付け加えれば、自己愛の保証、その二つを暗黙の目的としているのではないかと考えられる。

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外国語学習 過去と完了

英語を勉強し始めた頃、現在完了が出てきて、過去とどう違うのわからなかったという経験はないだろうか。
私たちの自然な感覚からすると、完了したことは過去のことなのだから、現在完了も過去のことに違いないと思う。その結果、二つの違いがよくわからない。
その上、現在完了に関しては、経験・継続・完了の3用法があると説明されるが、過去の概念に関しては何の説明も、用法の解説もない。なぜだろう?

さらに、過去完了(had+pp.)はある程度理解できるが、未来完了(will have+pp.)はわからないという人もいる。
過去未来完了(would have+pp.)になると、最初から理解を諦めてしまう人も多い。

なぜ日本語母語者は、英語やヨーロッパの言語の時制体系をすっと理解できないのだろうか?
(ここでは、説明を簡潔にするため、英語を例に取ることにする。)

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外国語学習 日本語とは違う世界観を知る

フランスでフランス人と話してるとき、すぐに答えられない質問をされることがある。
例えば、「神戸に住んでいる。」と言うと、「東京から何キロ離れているのか?」と質問されたりする。
もう一つよく質問されるのは、「最初にフランスに来たのはいつ?」
その際には、10年くらい前とか、曖昧な答えしかいえない。

フランス人に同じ質問をすれば、「神戸と東京間は約430キロ」とか、「最初は2012年。」とか、きっちりした答えが戻ってくる方が普通。

こうした違いは何を意味し、そのことから、どんなことがわかるのだろうか。

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日本語の主観性

日本語はウチの言葉であり、お互いが同じ共同体にいることを前提としている。
https://bohemegalante.com/2019/04/17/japonais-langue-interieure/

そのことから二つの特色が派生してくる。
1)モノローグ的言語
2)臨場感

池上嘉彦の『日本語と日本語論』の助けを借りて、この二つの点について考えてみることにする。

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