アルフレッド・ド・ミュッセ 「悲しみ」 Alfred de Musset  « Tristesse »

アルフレッド・ド・ミュッセ(Alfred de Musset : 1810-1857)の「悲しみ(Tristesse)」は、現在の言葉で言えば、自分の価値を疑い、自己肯定感を持てない自分の存在を嘆いた詩と言ってもいいだろう。「今の私に残された慰めは、時どき涙を流せたことだけ」といった最後の言葉は、どうしようもないやりきれなさを告白しているようでもある。

しかし、そうした幻滅感(désenchantement)を表している詩句は、大変に簡潔でありながら、音楽的で、美しい。また、母音や子音の反復が非常に巧みに配置され、意味を際立たせている。その音楽性を感じることで、悲しみがいつしか慰めに変わっていくことになるだろう。

いくつかの単語の意味を確認した上で、まず«Tristesse»の朗読に耳を傾けてみよう。
fierté――誇り、プライド
génie――才能
Vérité――真実
dégoûté――うんざりする
éternel――永遠の
se passer de――……なしで済ませる

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ヴェルレーヌ 「白い月」 Verlaine « La lune blanche »

ヴェルレーヌは、一言で言えば「職人的な詩人」といえる。
ヴィクトル・ユゴーのようにあらゆるジャンルで最高の業績を残したわけではなく、ボードレールのように理論に基づいて詩作を展開したのでもない。また、ランボーのように一瞬の煌めきを放って詩の世界を駆け抜けるのでもなかった。

ヴェルレーヌは、ただ己の感性の赴くままに詩句を書き綴る。すると、そこから静かな悲しみを感じさせる音楽が流れ出し、私たちの心を日本的な「あはれ」を思わせる情緒で満たしていく。彼の詩が、不思議なほど日本人の感性に響くのはそのためだろう。

«La lune blanche»は、1行が4音節、1詩節が6行、それが3詩節だけの小さなの詩。
第6行(各詩節の最後の行)は手前の5行から一拍置くように配置され、読者への語りかけの役割を果たしている。
脚韻の型は、 ABABCC。 第3詩節は、AAAABB。

ちなみに、日本では月は黄色だが、フランスでは白色が普通。だから、題名の「白い月」は、私たちにとっての「黄色い月」と同じだといえる。

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ランボーの詩を楽しむ ー 意味ではなく、音楽を聴く

もうかなり前のことになるが、パリにある「Amis de Rimbaud(ランボー友の会)」から依頼されて講演を行い、フランスの文学愛好家たちに向けて、日本におけるアルチュール・ランボーの受容を紹介したことがある。

その講演の「つかみ」として、日本の大学生たちにランボーの詩の魅力をどう伝えているか、具体的なアプローチを紹介したのだが、その内容は、フランス語で詩を読む喜びを持ち続けている日本の読者にも役立つかもしれないと思い、ここで改めて紹介することにした。


Les étudiants japonais face à Rimbaud

Arthur Rimbaud n’est pas un poète facile d’accès pour les étudiants japonais. La raison en est simple : ses poèmes ne présentent guère de récits continus et ne peignent pas le monde réel de manière réaliste. 

« Ma Bohème » peut, à la rigueur, sembler accessible au premier abord aux étudiants, qui se représentent assez aisément cette figure de jeune garçon flânant à travers les prés sous les étoiles.

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マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール 「サアディのバラ」 Marceline Desbordes-Valmore « Les roses de Saadi »  

19世紀のフランスにおいて、女性が詩人として生きることは決して容易なことではなかった。
そうした時代にあって、批評家サント・ブーヴをはじめ、ボードレールやヴェルレーヌたちがこぞって賞賛した女性詩人がいる。それが、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore: 1786 – 1859)だ。

日本でも、中原中也が昭和12年(1937年)、彼女の魅力を次のような言葉で紹介している。

ヴァルモオル夫人の詩は、身を切るような鋭い感受性から生まれた叫びや呻(うめ)きである。彼女には、詩の技術というものがほとんどなく、教養も十分ではなかった。しかし、音楽やリズムに対しては優れた感覚を持っており、読む人の心をつかむ表現力も備えていた。

この中也の言葉は、それまでフランスで語られてきた彼女への批評を集大成したようなものだが、要するに「豊かな音楽性と素直な表現で、聴く者の心をダイレクトに打つ」ということだろう。

その真骨頂とも言える実例として、今回は彼女の代表作 « Les roses de Saadi »(サアディのバラ)を取り上げたい。フランス語の詩句が持つえもいわれぬ音楽性を味わいながら、マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールが紡ぎ出した詩の世界を、少しのぞいてみることにしよう。

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ネルヴァルと日本的感性 Nerval et la sensibilité japonaise

ジェラール・ド・ネルヴァルに関する無理解や誤読は、1855年の真冬、パリの場末で首を吊って死んだという事件から21世紀の現在まで続いている。

何度かの精神病院への入院や、狂気に関する記述、さらには彼の最期の姿を描いた版画やセンセーショナルな報道記事が決定打となり、ネルヴァルには「夢と狂気の作家」というレッテルが貼られ続けてきた。

いったんそうしたイメージが定着してしまうと、人々はどうしても彼の残した言葉を、夢、狂気、神秘主義といったキーワードを軸に解釈しようとする。そうした読み方の固定化は、一般の読者だけでなく、文学批評や専門研究の世界でも変わることがない。

今も続くこうした状況の中で、私は別の角度からネルヴァルを読み続けてきた。最近、日本の文化、文学、歴史、美術、精神性などをフランスに紹介するための準備をしていたところ、これまでも愛読してきたある言葉が、より深く心に響いた。それは、彼が死の間際まで書き続けていた『オーレリア』の終盤の一節で、何度読み返しても美しい。

(…) tout dans la nature prenait des aspects nouveaux, et des voix secrètes sortaient de la plante, de l’arbre, des animaux, des plus humbles insectes, pour m’avertir et m’encourager. (…) les objets sans forme et sans vie se prêtaient eux-mêmes aux calculs de mon esprit ; — des combinaisons de cailloux, des figures d’angles, de fentes ou d’ouvertures, des découpures de feuilles, des couleurs, des odeurs et des sons, je voyais ressortir des harmonies jusqu’alors inconnues.   (Gérard de Nerval, Aurélia, II, 6)

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能ある鷹は爪を隠す — 文化の違いを楽しむ

「能ある鷹は爪を隠す」という諺をフランス語に訳すとどうなるか考えていて、日本とフランスの文化、あるいは日本的精神とフランス的精神の違いに思いを巡らせることがあった。

日本語をフランス語に直訳すれば、« Le faucon talentueux cache ses serres. »

では、このフランス語の単文がフランスの文化の中で、日本語の諺が意味する「本当に力のある人間はそれを見せびらかすことなく謙虚に振る舞う」といったニュアンスを伝えるだろうか?
問題は、「隠す」という言葉がどのように受け取られるかにかかっている。

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 4/4

孤独と死への思いを具体的なイメージとして夢想したことを終点として、自分の内面を見つめる場面は終わりを迎え、意識は外に向く。夜が来たことに気づき、そして、部屋から下に降り、通りに溢れる群衆の中へと入って行く。

— Ainsi va ma pensée, et la nuit est venue ;
Je descends, et bientôt dans la foule inconnue
J’ai noyé mon chagrin :
Plus d’un bras me coudoie ; on entre à la guinguette,
On sort du cabaret ; l’invalide en goguette
Chevrote un gai refrain.

(朗読は5分18秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 3/4

愛しい伯母の死が語られた後、思いは母へとつながっていく。母はまだ生きており、「ぼく」を愛してくれている。しかしすぐに、彼女もまた、いつかは死んでいく存在であるという未来へと、連想は進んでいく。

Elle m’aimait pourtant… ; et ma mère aussi m’aime,
Et ma mère à son tour mourra ; bientôt moi-même
Dans le jaune linceul
Je l’ensevelirai ; je clouerai sous la lame
Ce corps flétri, mais cher, ce reste de mon âme ;
Alors je serai seul ;

(朗読は3分9秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 2/4

子ども時代の教会の思い出は、まず祈りの場面から始まり、そこから伯母の死へと連想がつながっていく。

Oh ! qui dans une église, à genoux sur la pierre,
N’a bien souvent, le soir, déposé sa prière,
Comme un grain pur de sel ?
Qui n’a du crucifix baisé le jaune ivoire ?
Qui n’a de l’Homme-Dieu lu la sublime histoire
Dans un jaune missel ?

(朗読は25秒から)

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Sainte-Beuve Les Rayons jaunes サント・ブーヴ 韻文詩「黄色い光線」 1/4

日本は言うまでもなく、フランス本国においてさえ、フランス・ロマン主義文学に親しむ人は今ではごく少数になっている。サント・ブーヴ(Sainte-Beuve)の詩を読む人となると、なおさら少ないだろう。
そうした中で、彼の代表的な韻文詩の一つとはいえ、なぜ「黄色い光線(Les Rayons jaunes)」を取り上げるのかと、少し意外に思われるかもしれない。

今回この詩を取り上げるのは、その主題である「黄色(jaune)」という色が、現代人の心の動きとどこかで重なって見えるからだ。
ネット社会の中で、私たちは日々、多くの情報に囲まれて過ごしている。その流れに身を任せながら、ときどき理由もよく分からないまま、ふと気持ちが沈むことがある。何かを信じたいと思いながら、どこかで信じきれない気持ちが残る。楽しい時間を過ごしているはずなのに、それをあらかじめ「思い出作り」と言葉にしてしまう。そうした感覚に、心当たりのある人も少なくないのではないだろうか。

「黄色い光線」は一八二九年に発表された詩で、今からおよそ二百年前の作品である。それでも、この詩には、時代を超えて今の日本人の感覚にそっと触れてくる何かがあるように思われる。

そのことは、詩の冒頭に置かれたエピグラフからも感じ取れる。そこには、古代ローマの詩人ルクレティウスの『物の本質について』から、「さらに、あらゆるものは陰鬱で不気味な様相を帯びてくる」という一節が引かれている。
この言葉は、サント・ブーヴの詩の世界に静かな陰影を与えると同時に、読む側の心にもゆっくりと染み込んでくるように思われる。

また、せっかくフランス語で詩を読むのだから、その形式にも目を向けておきたい。
一つの詩節は六行からなり、最初の二行は十二音節、三行目は六音節である。続く三行も同様に、十二音節の二行と六音節の一行が反復される。
韻の構成は、最初の二行が平韻(AA)で、次の四行は抱擁韻(BCCB)となっている。
このように形式が非常に整っているので、フランス語詩特有の音とリズムの美しさを感じ取ることができる。

Les Rayons jaunes

Les dimanches d’été, le soir, vers les six heures,
Quand le peuple empressé déserte ses demeures
Et va s’ébattre aux champs,
Ma persienne fermée, assis à ma fenêtre,
Je regarde d’en haut passer et disparaître
Joyeux bourgeois, marchands,

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