ロンサール ガティーヌの森の樵に反対して Pierre de Ronsard Contre les bûcherons de la forêt de Gastine 2/3

「哀歌(Élégie)」第24番の第19 – 26行の詩句では、樵(bûcheron)に向かい、木を切るのは殺人と同じことだと、激しい言葉を投げかける。

それらの詩句を読むにあたり、16世紀と現代でつづり字が違うことがあるので注意しよう。
es+子音 → é  : escoute – écoute ; arreste – arrête ; escorce – écorce ; destresse – détresse ; meschant – méchant
e → é : degoute – dégoute ; Deesse – Déesse ;
oy → ai : vivoyent – vivaient
d – t : meurdrier – meurtrier

 Escoute, Bucheron, arreste un peu le bras.
Ce ne sont pas des bois que tu jettes à bas,
Ne vois-tu pas le sang lequel degoute à force
Des Nymphes qui vivoyent dessous la dure escorce ?
Sacrilège meurdrier, si on pend un voleur
Pour piller un butin de bien peu de valeur,
Combien de feux, de fers, de morts, et de destresses
Merites-tu, meschant, pour tuer nos Deesses ? (v. 19 – 26)

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ロンサール ガティーヌの森の樵に反対して Pierre de Ronsard Contre les bûcherons de la forêt de Gastine 1/3

ピエール・ド・ロンサール(1524-1585)の「エレジー(Élégie)」第24番は、森で木を切る樵に向かい、木から血が流れているのが見えないのかと詰問し、手を止めるように命じる内容の詩であるために、現在ではエコロジー的な視点から解釈されている。
そのために、しばしば詩の前半部分が省略され、樵に手を止めるようにと命じる詩句から始まり、「ガティーヌの森の樵に反対して」という題名で紹介されることが多い。

しかし、ヨーロッパにおいて、18世紀後半になるまで山や森は人間が征服すべき対象であり、16世紀に自然保護という思想は存在していなかった。
ロンサールも決してエコロジー的な考えに基づいていたわけではなく、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)が彼らの故郷にあるガティーヌの森を開墾し、売却することに反発するというのが、「エレジー」第24番に込められた意図だった。

ロンサールが悲しむのは、木を切る行為そのものではなく、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の対立の時代に翻弄され、1572年のサン・バルテルミの虐殺を逃れたアンリ・ド・ナヴァールが、宮廷で生き延びていくための資金を得るために、ガティーヌの森を伐採することだった。
あるいは、旧教側を信奉するフランス国王の宮廷詩人だったロンサールが、新教側のアンリ・ド・ナヴァールを批難する意図を持って書かれたエレジー(哀歌)だとも考えられる。

そうした歴史を知ると、ロンサールが詩に込めた意味と、後の時代の解釈との間にずれが生じていることが明らかになる。
では、そうしたズレた解釈は、後世の誤りだと考えるべきだろうか?

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ロンサール 「もう骨だけで骸骨のようだ」 Pierre de Ronsard « Je n’ai plus que les os » 死の床で

16世紀を代表する詩人ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard : 1524-1585)は、亡くなる直前、死の床で数編の詩を口頭で語り、友人に書き取ってもらった。
「もう骨だけで骸骨のようだ(Je n’ai plus que les os, un squelette je semble)」はその中の一編。

詩人は、自分の体が骸骨のように痩せ衰えてしまった状態をリアルに描き、最後は友人たちにユーモアを持った別れを告げる。
フランスにおけるソネット形式の完成者であるロンサールらしく、ソネット形式に則り、リズムや音色においても完成度が高い。

ソネット形式の基本は3つの項目からなる。
1)2つの四行詩と2つの三行詩 (計14行)
2)韻の繋がり:四行詩は、abba-abba(抱擁韻)、3行詩は、ccd-ede(平韻+交差韻)、あるいはccd-eed(平韻+抱擁韻)
3)女性韻(無音のeで終わる)と男性韻の交代:この規則はロンサールが作ったもの。

「もう骨だけで骸骨のようだ」はこうしたソネット形式の規則にほぼ完全に適合しており、ロンサールが後世に残した遺言として読んでみたい。

Je n’ai plus que les os, un Squelette je semble,
Décharné, dénervé, démusclé, dépulpé,
Que le trait de la mort sans pardon a frappé,
Je n’ose voir mes bras que de peur je ne tremble.

Apollon et son fils, deux grands maîtres ensemble,
Ne me sauraient guérir, leur métier m’a trompé,
Adieu, plaisant soleil, mon œil est étoupé,
Mon corps s’en va descendre où tout se désassemble.

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ラ・フォンテーヌ 死の女神と死につつある男 La Fontaine « La Mort et le mourant » 2/2 心の平安を得るための教え

第1の教訓の最後に置かれているのは、人間には死に対する心の準備ができていないという指摘だった。としたら、続く物語は、心の準備を説くものになることが予想される。

その物語は、ロレンツォ・アステミオの寓話「死を遅らせようと望んだ老人」を語り直したものであることが知られている。
アステミオの寓話では、一人の老人が、死神に向かい、まだ遺言を書いていないし、その他の準備もできていないので、死を遅らせて欲しいと懇願する。それに対して、死神はこう応える。「もうすでに十分予告はしてきた。お前は、様々な人が死ぬ姿をたくさん見てきたはずだし、目や耳が衰え、体全体も弱ったのを感じているはずだ。それなのに予告がなかったと言うのか? さあ、もうこれ以上遅らせる必要はない。」
その物語の後ろに、「常に目の前に死を見ているように生きること」という教訓が付け加えられる。

ラ・フォンテーヌの寓話では、老人の姿がアステミオの老人よりもずっと具体的に描かれる。

Un mourant qui comptait plus de cent ans de vie,
Se plaignait à la Mort que précipitamment
Elle le contraignait de partir tout à l’heure,
           Sans qu’il eût fait son testament,
Sans l’avertir au moins. Est-il juste qu’on meure
Au pied levé ? dit-il : attendez quelque peu.
Ma femme ne veut pas que je parte sans elle ;
Il me reste à pourvoir un arrière-neveu ;
Souffrez qu’à mon logis j’ajoute encore une aile.
Que vous êtes pressante, ô Déesse cruelle ! (v. 20 – 29)

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ラ・フォンテーヌ 死の女神と死につつある男 La Fontaine « La Mort et le mourant » 1/2 死を前にした賢者

「死の女神と死につつある男(la Mort et le mourant)」は、寓話としてとても特殊な形をしている。
寓話は、一般的には、「物語」と「教訓」からなり、物語が語られた後、教訓が付け加えられる。
その構造によって、読者はまず物語を楽しみ、次に教訓によって人生の生き方やものの考え方を学ぶ。

その構造は、ラ・フォンテーヌが寓話を作成した17世紀フランスの芸術観、「楽しみながら学ぶ」という原則と適合している。

それに対して、「死の女神と死につつある男」は、最初と最後に教訓が置かれ、その間に物語が挿入される。しかも、2つの教訓と物語にほぼ同じ行数が費やされている。
こうした例外的な構造は、何を意味しているのだろう?

物語の中心になるのは、死につつある男(un mourant)。彼は百歳を超えているのだが、死に対して、まだ遺書も準備していないし、死ぬのは早すぎると文句を言う。それに対して、死は、もう十分に予告してきたので、すぐに死へと向かうように勧告する。

この展開は、イタリア・ルネサンス期の人文主義者、ロレンツォ・アステミオの寓話「死を遅らせようと望んだ老人」を基にして語られたもの。その物語の最後に、「常に目の前に死を見ているように生きること」という簡潔な教訓が付けられていた。

その教訓に対して、60行の詩句からなる「死の女神と死につつある男」では、第1の教訓は19行、第2の教訓は10行ある。その結果、寓話全体がかなり理屈っぽいと感じられるものになっている。

その理由を探ることで、「死の女神と死につつある男」の独自性を明らかにするだけではなく、ラ・フォンテーヌの死生観をよりよく理解できるに違いない。

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ラ・フォンテーヌ 「死と不幸な人」と「死と木こり」 La Fontaine « La Mort et le malheureux »  « La Mort et le bûcheron » 死とどのように向き合うのか 3/3

ラ・フォンテーヌにとって、イソップの寓話「老人と死神」の物語とほぼ同じ展開を持つ「死と木こり(La Mort et le bûcheron)」は「イソップの寓話(fable d’Esope)」だが、「死と不幸な男(La Mort et le malheureux)」は「私の寓話(ma fable)」だという。
そして、「私の寓話」の価値は、教訓の中で引用されているマエケナスの言葉にあり、それは美しく、主題にふさわしいもの(à propos)だと付け加える。

もし寓話の”肉体”が”物語”部分であり、”教訓”は寓話の”魂”だとすると、マエケナスの引用は、「死と不幸な男」の魂。その魂を包み込む肉体が魂にふさわしいものであれば、物語も主題を的確に表現し、美しいことになる。
実際、10行の詩句で構成される物語部分は、非常に多様な仕掛けが施され、読者を楽しませると同時に、教訓への導きとしての役割をしっかりと果たしている。

    Un malheureux appelait tous les jours
              La Mort à son secours;
« Ô Mort, lui disait-il, que tu me sembles belle !
Viens vite, viens finir ma fortune cruelle. »
La Mort crut en venant, l’obliger en effet.
Elle frappe à sa porte, elle entre, elle se montre.
« Que vois-je ! cria-t-il, ôtez-moi cet objet ;
         Qu’il est hideux ! que sa rencontre
         Me cause d’horreur et d’effroi !
N’approche pas, ô Mort ; ô Mort, retire-toi. »

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ラ・フォンテーヌ 「死と不幸な人」と「死と木こり」 La Fontaine « La Mort et le malheureux »  « La Mort et le bûcheron » 死とどのように向き合うのか 2/3

「死と木こり」(La Mort et le Bûcheron)は、題名も含め、イソップの「老人と死神」を土台としていることがはっきりとわかる語り方をされている。

Un pauvre bûcheron, tout couvert de ramée,
Sous le faix du fagot aussi bien que des ans
Gémissant et courbé, marchait à pas pesants,
Et tâchait de gagner sa chaumine enfumée.
Enfin, n’en pouvant plus d’effort et de douleur,
Il met bas son fagot, il songe à son malheur.
Quel plaisir a-t-il eu depuis qu’il est au monde ?
En est-il un plus pauvre en la machine ronde ?

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ラ・フォンテーヌ 「死と不幸な人」と「死と木こり」 La Fontaine « La Mort et le malheureux »  « La Mort et le bûcheron » 死とどのように向き合うのか 1/3

 フランス語では人間のことをmortel(死すべき者)といい、死なない存在である神をimmortal(不死のもの)という。その言葉が示すように、人間は必ず死ぬ。人間は生まれた時から死に向かって進んでいくのであり、生きることは死への行進だと言ったりすることもある。

それにもかかわらず、あるいはそれだからこそ、私たちは死を恐れ、死を避けようとする。長寿を祝い、現代であれば、科学の力によって老化を防ぎ、極端な場合には、あるアメリカ人のように不死になることを試みようとする。災害で多くの人命が失われれば、悲しみ涙を流す。
死は何としても避けるべきもの。そうした認識はごく普通のことだ。

ただし、安楽死に対しては、意見が分かれるかもしれない。一方には、終末期の苦痛を和らげるためであれば、死を早めることは認められるという意見がある。他方には、生きることに手をつくすべきであり、死を助けることは殺人になると考える人々もいる。
論理的にどちらが正しいということはないのだが、世界で死の幇助が認められている国は現状では10未満であり、死に手を貸すことは違法という認識が大多数を占めているといっていいだろう。

ヨーロッパにおける死に対する思想を歴史的に振り返ると、大きくわけで3つの考えを指摘することができる。16世紀の思想家、ミッシェル・ド・モンテーニュは『エセー』第二巻三十七章「子供が父親に似ることについて」と題された章の中で、その3つを次のような言葉で説明した。

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アポリネール 「ゾーン」 Guillaume Apollinaire « Zone » 新しい精神の詩  6/7 旅の思い出から「もう一つの現実」へ

「ゾーン」の89行目の詩句からは、世界各地への旅が始める。それはアポリネールの現実の体験に基づいていると考えられるが、そこから出発して、「もう一つの現実」が創造されていく過程だと考えてもいいだろう。

Maintenant tu es au bord de la Méditerranée
Sous les citronniers qui sont en fleur toute l’année
Avec tes amis tu te promènes en barque
L’un est Nissard il y a un Mentonasque et deux Turbiasques
Nous regardons avec effroi les poulpes des profondeurs
Et parmi les algues nagent les poissons images du Sauveur (v. 89-94)

(朗読は6分42秒から)
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アポリネール 「ゾーン」 Guillaume Apollinaire « Zone » 新しい精神の詩 5/7 パリの街の中を通り過ぎる美

「ゾーン」の71行目の詩句から始まる詩節になると、詩人の思いは再びパリに戻り、群衆の中を一人で孤独に歩く「お前(tu)」の姿が描き出される。
パリを背景とするその心象風景は88行目まで続くのだが、そこでは失恋の苦しみが画面全体の主な色調となりながら、美の姿へと焦点が向けられていく。

Maintenant tu marches dans Paris tout seul parmi la foule
Des troupeaux d’autobus mugissants près de toi roulent
L’angoisse de l’amour te serre le gosier
Comme si tu ne devais jamais plus être aimé
Si tu vivais dans l’ancien temps tu entrerais dans un monastère
Vous avez honte quand vous vous surprenez à dire une prière
Tu te moques de toi et comme le feu de l’Enfer ton rire pétille
Les étincelles de ton rire dorent le fond de ta vie
C’est un tableau pendu dans un sombre musée
Et quelquefois tu vas le regarder de près ( v. 71-80)

(朗読は5分18秒から)
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