ミスタンゲット Je suis de Paris 1936年 ムーラン・ルージュの舞台

宝塚歌劇団がモデルにしたと言われているミスタンゲット。彼女が”Je suis de Paris”をムーラン・ルージュの舞台で歌った際の映像を見ることができる。

“Oui, je suis d’ Paris”

Quand on m’voit
On trouve que j’ai ce petit je n’sais quoi
Qui fait qu’souvent l’on me fait les yeux doux
Ce qui me flatte beaucoup.

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ムーラン・ルージュ  Le Moulin rouge

モンマルトルの夜を彩るムーラン・ルージュは、1889年のパリ万博のために立てられたエッフェル塔と同じ年、モンマルトルに作られたキャバレー。2024年には創設135年を迎える。

Le Moulin Rouge, 135 ans de danse et d’audace

Le célèbre cabaret du Moulin Rouge de Paris fêtera son 135e anniversaire, en 2024.
Au fil des années, l’établissement a tenté de garder ses valeurs, et parvient toujours à attirer de nombreux spectateurs.
Ses danseuses, spécialistes de French cancan et connues pour leur fort caractère, n’ont pas perdu un brin de souplesse.

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フランス近代絵画の概観 宮川淳『美術史とその言説』

フランス近代絵画の歴史について、宮川淳が非常にコンパクトにまとめて紹介したことがあった。
それは、1978(昭和53)年に出版された『美術史とその言説』の冒頭に置かれた「絵画における近代とはなにか」と題された章。わずか数ページの中で、ボードレールから始まり、マネ、セザンヌ、ゴーギャンを経て、フィヴィスムやキュビスムへと続く流れが、見事にまとめられている。

シャルル・ボードレールの美学

あらゆる美、あらゆる理想は永遠なものと同時にうつろいゆくものを、絶対的なものと同時に個別的なものをもっている。いやむしろ、絶対的な理想、永遠な美というものは実在しないというべきだろう。それはわれわれの情念から生まれる個別的な様相を通じてはじめて捉えられる抽象にすぎない。

エドワール・マネ

マネに見られる明るい色彩、技法の単純化、ヴァルールの否定、フォルムの平面化—それは「自然の模倣」としての絵画伝統に対する最初の大胆な挑戦にほかならない。

エドワール・マネ  「オペラ座の仮装舞踏会」
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日本人にはなぜ英語やフランス語の習得が難しいのか? 構文について考える

日本人にとって、英語やフランス語を習得するのは難しい。その理由は何か?

答えは単純明快。
母語である日本語は、英語やフランス語と全く違うコンセプトに基づく言語。そのことにつきる。

この事実は当たり前のことだが、しかし、日本語との違いをあまり意識して考えることがないために、どこがわかっていないのかがはっきりと分からないことも多い。
例えば、英語の仮定法と日本語の条件設定との本質的な違いを理解しないまま、if を「もし」と結び付けるだけのことがあり、そうした場合には、大学でフランス語の条件法を学ぶ時も、英語のifで始まる文と同様にsiで始まる文が条件法の文だと思ってしまったりする。

これは一つの例だが、ここでは問題を語順に絞り、日本語とフランス語の違いがどこにあり、日本語を母語にする人間にとって、どこにフランス語習得の難しさがあるのか考えてみよう。

ちなみに、これから検討していく日本語観は、丸山真男が「歴史意識の中の”古層”」の中で説いた、「つぎつぎに/なりゆく/いきおい」という表現によって代表される時間意識に基づいている。丸山によれば、日本人の意識の根底に流れるのは、常に生成し続ける「今」に対する注視であり、それらの全体像を把握する意識は希薄である。
そうした意識が、日本語という言語にも反映しているのではないかと考えられる。

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政治と金 悪者追求から問題解決へ

2023年12月に自民党の派閥が不正な会計処理をしていたことで、相変わらず政治と金の問題が何一つ解説していないことが明らかになった。
そして、これまで通り、マスコミやSNSでは悪者探しをして盛り上がり、しばらくすれば、別の話題へと関心が移っていくだろう。

そうした流れは、2019年参議院選挙において広島選挙区の河井夫妻選挙違反事件を思い出すとわかる。大規模な買収を行ったことが大きく取り上げられたが、彼らが断罪されただけで、選挙における金の問題は全く解決されないままで終わった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E4%BA%95%E5%A4%AB%E5%A6%BB%E9%81%B8%E6%8C%99%E9%81%95%E5%8F%8D%E4%BA%8B%E4%BB%B6

今回も、安倍派と二階派の問題に矮小化され、何人かの悪者があぶり出されるという構図で、政治と金の本質的な問題は解決されない、ということが予想される。
その際、マスコミが政治家に都合のよいようにコミットすることもありうる。
ある記事を見ると、政治には金がかかるという前提で、「どうしてもお金がかかる、ということであれば寄付・献金・パーティではなく、政党交付金を増やす、公費で雇える秘書の数を増やすなど、ルールを変えることが有効だ。」という発言が、もっともらしく書かれている。
https://news.yahoo.co.jp/articles/1f12622560b068a52e33cc38282de48f25c2f65e

政党交付金に関しては、2021年には総額で317億7336万円が税金から支払われている。
議員秘書は、議員1名につき3名。秘書給与は総額で、2100万円。
その上、議員には、年間で、文書通信費1200万円と立法事務費780万円が割り当てられており、この二つは支出に関する公開義務がない。
https://bohemegalante.com/2023/03/20/cp-democratie-representative/
年間4080万円の税金が713人の国会議員(衆議院465名、参議院248人)に使われているにもかかわらず、上の記事では、さらに増額する提案がなされている。
その結果、不正を糺すという口実で政治改革なるものが行われ、議員にとって都合のいい方向に制度が改変される恐れさえある。

そうしたことを避けるためにも、感情に訴えるのではなく、事実に基づいた議論が必要になる。

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エドガー・ポー 大鴉(The Raven)をボードレールとマラルメの訳で読む 

ボードレールはエドガー・ポーの影響を強く受け、アメリカの詩人の詩や詩論を積極的に翻訳し、19世紀後半の文学に大きなインパクトを与えた。マラルメはその洗礼を真正面から受けた詩人であり、ポーの詩を英語で読むために、イギリスに留学したと言われることもある。

その二人の詩人が、ポーの代表的な韻文詩「大鴉(The Raven)」を訳している。
もちろん、マラルメはボードレールの翻訳を参照しながら、自分の訳文を構成しただろう。ポーの原詩の横にボードレールの訳を置き、必死に自分なりの訳を考えている姿を想像してみると、急にマラルメに親しみが湧いてきたりする。

ここでは、18の詩節で構成される「大鴉」の第1詩節を取り上げ、ポーの原文とボードレール、マラルメのフランス語訳を比較して読んでいこう。

Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore—
    While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
“Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door—
            Only this and nothing more.”

Une fois, sur le minuit lugubre, pendant que je méditais, faible et fatigué, sur maint précieux et curieux volume d’une doctrine oubliée, pendant que je donnais de la tête, presque assoupi, soudain il se fit un tapotement, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre. « C’est quelque visiteur, — murmurai-je, — qui frappe à la porte de ma chambre ; ce n’est que cela, et rien de plus. » (Baudelaire)

Une fois, par un minuit lugubre, tandis que je m’appesantissais, faible et fatigué, sur maint curieux et bizarre volume de savoir oublié — tandis que je dodelinais la tête, somnolant presque : soudain se fit un heurt, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre — cela seul et rien de plus. (Mallarmé)

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プルースト「見出された時」 Proust Le Temps retrouvé 現実という隠喩

プルーストが私たちの教えてくれるものの中で最も根本的なのは、現実は重層的なものだという認識である。今体験している現実には、過去の記憶が含まれると同時に、未来の出来事の先駆けともなる。
そして、そうした現実のあり方は、言語のあり方とも対応する。言葉も一元的な意味を指し示すだけではなく、隠喩的な働きをする。つまり、直接的な意味とは異なる意味を暗示し、重層的な世界像を作り出す。

『失われた時を求めて(À la recherchue du temps perdu)』はそうした現実認識と言語観に基づいて構成されているのだが、最終巻である『見出された時(Le Temps retrouvé)』に至り、その仕組みが読者にはっきりとわかる形で伝えられていく。
ここではその一端を読み解いていこう。

Une image offerte par la vie nous apporte en réalité, (…) des sensations multiples et différentes. La vue, par exemple, de la couverture d’un livre déjà lu a tissé dans les caractères de son titre les rayons de lune d’une lointaine nuit d’été. Le goût du café au lait matinal nous apporte cette vague espérance d’un beau temps qui jadis si souvent, pendant que nous le buvions dans un bol de porcelaine blanche, crémeuse et plissée, qui semblait du lait durci, se mit à nous sourire dans la claire incertitude du petit jour.

現実の生活の中で目にする物の姿は、実際、数多くの異なった感覚をもたらす。例えば、すでに読んだことのある本の表紙を見ることは、その題名の文字の中に、ずっと以前の夏の夜に見た月の光を織り込むことだった。朝のカフォオレの味は私たちに、いい天気になるだろうという漠然とした期待をもたらす。かつて何度も、朝カフェオレを飲んでいる時、お椀の白い瀬戸物はクリーム状で皺がより、凝固した牛乳のように見えたが、いい天気を期待する思いが、早朝の不確かな光線の中で、私たちに微笑み始めたのだった。

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プルースト 「花咲く乙女たちのかげに」Marchel Proust « À l’ombre des jeunes filles en fleurs »  複数のアルベルティーヌと複数の私

マルセル・プルーストは心理の分析にかけても超一流の作家であり、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は私たち読者に、人間とはどのような存在なのか、様々な側面から教えてくれる。

ここでは、第二篇『花咲く乙女たちのかげに(À l’ombre des jeunes filles en fleurs)』の中に登場するアルベルティーヌ(Albertine)の姿をたどりながら、一人の人間の中に様々な人格が混在し、そのどれもが彼女の姿であるということを見ていこう。

最初の部分では、アルベルティーヌの6つの状態に言及される。そこで注意したいことは、どれもが単なる外見の変化ではなく、心と身体のどちらにも関係する生命現象、つまり生理学(phisiologie)的な表現になっていることである。

(1)悲しみ

Certains jours, mince, le teint gris, l’air maussade, une transparence violette descendant obliquement au fond de ses yeux comme il arrive quelquefois pour la mer, elle semblait éprouver une tristesse d’exilée.

何日かの間、ほっそりとした体つきで、顔がくすみ、無愛想な様子をし、スミレ色の透明な光が、時に海でもそうしたことがあるように、斜めに彼女の目の奥に落ちかかり、彼女(アルベルティーヌ)は、追放された女性の悲しみを感じているようだった。

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クローデル 『百扇帖』 Paul Claudel Cent phrases pour éventails 詩の息吹から沈黙の詩へ

ポール・クローデルが俳句からインスピレーションを受けて創作した短詩を収めた『百扇帖』の中には、扇を仰ぐ時に動く空気の流れと詩(ポエジー)を重ね合わせ、その創作原理が詩という形で表現されているものがある。

Que le souffle de l’éventail disperse les mots et ne laisse passer que ce qui touche

扇の息吹が 言葉を撒き散らし、通っていくのは、(こころに)触れるものだけでありますように

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20世紀の時代精神 「もう一つの現実」のリアリティ

21世紀の前半を生きる私たちにとって、20世紀は自分たちの時代と地続きであり、20世紀全体の時代精神や文学の流れを大きな視野を持って展望することは難しい。文学史に目を通しても、細かな出来事や数多くの作家たちの名前が列挙され、全体像を理解することができないで終わることが多い。

また、20世紀は、美術、音楽、文学といった分野だけではなく、人間の精神に関する学問も一般の人々にとって身近な存在になった時代でもある。マルクスの社会主義思想、フロイトの精神分析、ソシュールの言語学、現象学、実存主義、構造主義、ポスト・モダンと呼ばれる思想など、数多くの思想や学問、思考法が話題になった。しかし、それら全体の基板となる精神のあり方が明確であるとはいえない。

そうした中で、ここではあえて思い切って、20世紀の時代精神の中心と考えられるものに照明を当て、20世紀文学の大きな流れを提示してみたい。

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