ルソー 『新エロイーズ』 記憶の作用と「感情」の高揚

1761年に出版されたジャン・ジャック・ルソーの『ジュリ、あるいは新エロイーズ』は、18世紀最大のベストセラーになり、18世紀後半の読者を熱狂させた。
美しいスイスの自然を背景として、主人公のサン・プルーとジュリという「美しい魂」たちを中心にした書簡のやり取りを通して表現される恋愛の喜びと苦しみは、当時の読者の感受性と共鳴し、人々がおぼろげに求めていた心情に明確な形を与えたのだった。

しかし、21世紀の読者にとって、それがフランスであろうと、日本であろうと、全体で163通からなり、6部に分かれ、時には何ページにも及ぶ手紙が含まれる長大な書簡体小説を、最初から最後まで読み通すことは難しい。

話題は恋愛だけではなく、社会制度、哲学思想、宗教、音楽等に及び、『百科全書』的な知識に対する興味がなければ、ルソーが何を目的に手紙の主たちにそのような話題を語らせているのか理解できないことも多い。

さらに、語り口がスローテンポで、18世紀の簡潔な文体とはかなり違っている。
ルソーは、その点について、表現が単調なことも、大げさすぎることもあり、言葉の間違いもあったりするので、パリの洗練された社交界で読まれるようなものではない。手紙の主たちは田舎に暮らす人々で、「小説じみた想像力の中で、彼らの頭が生み出した誠実ではあるが狂気じみた妄想を哲学だと思い込んでいる」のだと、あえて言い訳めいたことを書いている。

実際には、ルソーのフランス語は血が通い、生命の鼓動が感じられるような温かみを持っている。音楽的で、詩的散文といった印象を与える文も多い。
しかし、21世紀のフランス語ともかなり違っていて、現代フランスの若者にとっても馴染みが薄いもののようだ。

しかし、『新エロイーズ』には、読みにくいという理由で読まないでおくにはもったいない価値がある。
では、どうすればいいのか?

続きを読む

ジャン・ジャック・ルソー 「内面」の時代へ 心の時代の幕開け

ジャン・ジャック・ルソーが後の時代に与えた影響は、18世紀の全ての思想家や作家と比べ、圧倒的に大きなものがある。

1712年生まれのルソーは、18世紀を代表する哲学者・文学者であるヴォルテール(1694-1778)よりも後の世代であり、『百科全書』の編集者ドゥニ・ディドロ(1713-1784)や感覚論の中心人物コンディヤック(1714-1780)と同世代に属する。

彼が生きたのは、デカルト的な「理性」を人間の中心に据え、観念から出発して真理を追究する観念論の時代から、生まれながらの観念は存在せず、人間は白紙状態(タブラ・ラサ)で生まれ、全ては「感覚」を通して得られる「経験」に由来すると考える経験論や感覚論が主流となる時代へと移行する時代だった。

ルソーはその流れを踏まえながら、新しい一歩を踏み出した。そして、その一歩が、19世紀のロマン主義の本質となっただけではなく、現代の私たちにまで影響を及ぼしている。

日本でも、サン・テグジュペリの『星の王子さま』の有名な言葉はよく知られている。
「心で見なくては、ものごとはよく見えない。大切なものは、目には見えない。」

目で見て、手で触れることができる物質世界こそが現実であり、科学的な実験によって確認される物理的な事実が正しいと見なす世界観が一方にはある。
しかし、それ以上に大切なものが、人間にはある。それは心の世界。人間にとって物よりも心の方が大切だと見なす方が人間的と見なす考え方もある。

「感覚」から「感情」へと進み、人間の価値を「内面」に置く世界観。その道筋を付けたのが、ジャン・ジャック・ルソーなのだ。

続きを読む

It never entered my mind 

‘It never entered my mind’は、1940年のミュージカル『ハイアー・アンド・ハイアー(Higher And Higher)』の挿入曲。曲はリチャード・ロジャース、詞はロレンツ・ハート。

ジャズとしてはフランク・シナトラが歌ったことで知られるようになり、その後、1956年にマイルス・デイヴィスがアルバム「’WORKIN」で素晴らしい演奏を披露したことで、スタンダード・ナンバーになった。

シナトラを聴く前に、マイルスのミュートが心に染み入る演奏を聴いてみよう。素晴らしいバラード!

続きを読む

ディドロ 百科全書的視線を通して見る18世紀フランスの絵画 シャルダンとグルーズ

ドゥニ・ディドロは、「百科全書」を「知識の連鎖」と定義し、「地球上にばらまかれた知識を集積し、それらの全体的な体系を開示することが目的」であるとしている。
そうした百科全書の精神は、絵画を見る彼の目を通しても読み取ることができる。

1765年のサロン評の続編として執筆された「絵画に関するエセー」(公にされたのは1795年)は、素描、色彩、明暗法、表現、構成等について総合的に論じたものだが、物質主義的、経験論的な視点に基づき、現実に体験する「自然」を観念的な理想の美の上位に位置づける絵画論を展開している。

自然は何も不正確なものを創造しない。あらゆる形態は、美しかろうが醜かろうが、その原因を持っている。存在する全てのものには、一つとして、そうあらなければならないようでないものはない。(「絵画に関するエセー」)

伝統的な絵画の技法では、「様式」が重視され、それを学ぶことが重要とされた。現実を観察するのではなく、傑作とされる作品を見、師匠から学ぶ流儀に従って描くことが、画家に求められるものだった。あるがままではなく、あるべき姿を描くことが、普遍的な理想の美を生み出す道とされた。

それに対して、ディドロは、「自然」を厳密に模倣することが必要だとする。たとえ描かれた姿がどんなに理想の美と思われる姿と違っていてもいい。必要なのは、微妙なタッチだ。

そのタッチは、実際に起こっている現象を継続的に観察することから得られるのであり、そのタッチがあれば、私たちは、何らかの秘密の繋がり、不格好に描かれたものの間にある必然的な連鎖を感じることになる。(「絵画に関するエセー」)

ディドロはここで、自然は事物の連鎖の全体であり、絵画はその連鎖を感じさせることが必要だと述べている。
その意味で、絵画を見るディドロの目と、『百科全書』の編集者であるディドロの頭は、同じ思想を宿しているということができる。

続きを読む

ミシェル・ウエルベックの現代フランス観

ミシェル・ウエルベックの小説は日本でもかなり翻訳されていて、それなりの数の読者もいる。他方、彼の政治的な発言が話題になることはあまりないようだ。

ウエルベックと類似した思想を持つ言論人の一部は、マスコミで盛んに、フランスの衰退、市民戦争、フランス人に代わりイスラム教徒(彼らもフランス人なのだが・・・)が国の多数を占めるなどといったことを話題にしている。ウエルベックは、もう少しニュアンスに富んだレトリックで、同じ問題をイギリスのインタヴューに応えたというニュース。

続きを読む

ディドロ 『運命論者ジャックとその主人』 百科全書的世界観を小説として展開する

ドゥニ・ディドロ(1713-1784)の百科全書的世界観に従えば、存在するものは一つの全体のみであり、全体の要素となる個々の事物(鉱物、植物、動物、人間など)は連続的に繋がっている。

その連鎖の中で、一つの要素は前の要素とある部分を共有し、ある部分は共有しない。それに続く要素も同様。従って、どれ一つを取り上げても決定的な断絶はなく、逆に言えば、どれを取り上げてもそれほどの違いはない。
どれか一つを取り上げたとしても、それはたまたまそうなっただけで、決定的なことにはならない。

そのことは、開始にしても終了にしても偶然でしかなく、決定的な何かがあるわけではないという思考につながる。

ディドロの『運命論者ジャックと彼の主人』は、決定論的に定められた一貫した物語の流れがあるわけではない。小説全体が、召使いのジャックと彼の主人が旅をしながら交わす脱線続きの会話を中心にして構成されている。

ディドロは、この小説の骨格を、イギリスの小説家ローレンス・スターン(1713-1768)の小説『紳士トリストラム・シャンディの生涯と意見』(1759-1767)で語られる、一人の傷ついた兵士が自分の負傷と恋について語る短い挿話から借用したと考えられている。
しかしそれ以上に、余談と脱線の連鎖によって小説全体を構成するスターンの構成法に多くを負っている。

では、なぜディドロは、物語を最初から最後まで一貫したあらすじに基づいて語るのではなく、連想の赴くままにエピソードをつなぎ合わせていく語り方を選択したのだろう?

続きを読む

盲人の視力を回復する

視力のない人間が視力を回復することは不可能だと考えられてきた。しかし、新しい治療法によって、物の形や色を識別できるようになるかもしれない。
パリのある病院で行われているその治療の様子が、TF1, 20h (2021年6月12日)で紹介されている。

大変に興味深いことに、1749年、プロイセンの医師が生まれつきの白内障の少女に手術をし、視力を回復させるという出来事があった。それをきっかけにして、『百科全書』を編集したドゥニ・ディドロが、『目の見える人々に役立つ盲人に関する書簡』と題する哲学の本を書いている。
https://bohemegalante.com/2020/09/25/diderot-lettres-sur-les-aveugles-materialisme/

続きを読む

ディドロ 百科全書の精神 全ては連鎖し、全体を形作る

von Loo, Denis Diderot

ドゥニ・ディドロは、18世紀の啓蒙思想を代表する『百科全書』の編集者として知られているが、哲学的な著作だけではなく、小説、演劇、美術評論等、多方面にわたる著作活動を行った。

活動の幅が広く、時代によって考え方も異なっているように見えるために、全ての著作の根底に流れるディドロの本質的な思考を見極めるのは難しいと言われている。
しかし、18世紀の時代精神の流れの中に彼の著作を置いてみると、一貫した基盤がおぼろげながら見てくる。

ディドロは徹底した物質主義の提唱者であり、無神論者だった。
「人間は物質である。」
この言葉を出発点として、次の問いに進む。
「物質である人間は、思索する。」

18世紀の啓蒙主義の中心にいた哲学者たちの中でも、神の存在を信じない者はそれほど数が多くなかった。
実証主義精神に基づき、実験科学によって神の存在を証明することはできない。しかし、ヴォルテールのように、ニュートン力学に由来する科学精神で現実の観察から思索を始めた哲学者でも、神の存在を否定することはなかった。

他方、ディドロは、ドルバック男爵(1723-1789)と並び、自然にある物質を超越した次元(=神)の存在を認めなかった。哲学も、生理学、博物学、医学と同様、恣意的な精神性の介入しない科学である必要があると考え、実証可能な対象は物質のみに限られるからである。
従って、人間も肉体という物質を観察、実験の対象にする。しかし、その物質は感情を持ち、比較し、経験し、記憶し、思考する。
としたら、物質から思考へのつながりをどのように考えたらいいのだろう?

続きを読む