
『地獄の季節』は、1854年10月生まれのアルチュール・ランボーが、1873年、19-20歳の頃に書き上げた散文詩集。
1871年9月、17歳直前のランボーはポール・ヴェルレーヌと出会い、その翌年からはベルギーやロンドンで共同生活を送った。
その生活は、1873年7月10日、ブリュッセルにおいてヴェルレーヌがランボーに発砲するという事件によって終結する。
『地獄の季節』の最後に「1873年、4月-8月」と記されているが、その日付は、詩集がヴェルレーヌとの波乱に富んだ関係の中で構想されたことを教えてくれる。
ちなみに、ヴェルレーヌの有名な詩「巷に雨が降るごとく/わが心にも涙降る」のエピグラフには、ランボーの「街に静かに雨が降る」という詩句が掲げられ、二人の詩人が相互に影響を与え合っていたことを示している。
彼らの最も大きな点は、音楽性の重視。
ランボーとヴェルレーヌの詩句においては、言葉の持つ音楽性が際立ち、大変に美しいフランス語の響きを聞かせてくれる。
他方、大きな違いもある。
ヴェルレーヌはあくまでも韻文詩の枠内に留まったが、ランボーは素晴らしい韻文詩を書きながらも、そこに留まることなく、「散文」による詩へと表現の幅を広げていった。

「散文詩」の試みは、19世紀後半には非常に革新的なものだった。
フランスでは、詩は「韻文」であることが不可欠な条件であり、「散文詩」というジャンルは、1850年代の半ば、シャルル・ボードレールによって展開されたものだった。
その際に前提として知っておくべきことは、詩的散文、つまり詩を思わせる散文はあくまで散文であり、詩ではないということ。
(まれな例だが、現在でも、詩は韻文でなければならず、散文詩は存在しないと主張する研究者が存在する。)

では、散文で書かれた作品を、どのようにして「散文詩」という一つの文学ジャンル」として認めさせるのか?
韻文でなければ詩として認められなかった時代、それが大きな問題だった。
『地獄の季節』の散文は、その問題に対する一つの解答に他ならない。
ただし、いかにもランボーらしく、自費出版の約束でブリュッセルの出版社に原稿を渡しながら、1873年10月に印刷製本が終わった時、費用の残額を支払わなかった。そのために彼は数冊を受け取っただけで、残りの500部近くはポート社の倉庫に残されたままになった。
その『地獄の季節』が、20世紀になると広く読まれるようになり、現在では世界中で最もよく知られた詩集であり続けている。文学における奇跡の一つと言っていいだろう。
(1)『地獄の季節』の構成
『地獄の季節』の最初に「序」が置かれ、これから開示されるものが、「地獄落ちした男の手帳」から切り取られたノートであると明記される。
その後、最初の断片「悪い血」から次々と手帳の内容が語られ、6番目の断片「朝」に至り、「今日、ぼくは地獄の報告書を書き終わったと思う。」と記され、ノートの終わりが告げられる。
その後、「別れ」と題された7つ目の章が置かれ、全体のまとめと今後の展望が示される。
時間的な展開に目を移すと、「序」の中に、「春がぼくのところに白痴のおぞましい笑いをもたらした。」とあり、「別れ」において、「もう秋だ!」とされることから、地獄の期間が春から始まり秋で終わるワンシーズンであることが明らかになる。
ただし、その時間設定に大きな意味があるわけではなく、手帳に書かれた内容から浮かび上がってくるのは、一人の詩人が言葉によって描き出す精神的な「自画像」だといえる。
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「悪い血」で扱われるのは、「ぼく」の血統。
「ぼく」は、先住民ともいえるガリア人、劣等な種族、異教徒、黒人など、ランボーの時代のフランスにおいてマイナーな存在の系統に自らを位置づけ、その上で、メジャーな側から見た悪徳や犯罪を侵す姿を描く。
その中で、徹底的に抑圧される存在である「ぼく」の幼年時代や放浪生活を振り帰り、『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャンや、火刑台で処刑されたジャンヌ・ダルクたちと自分を重ねたりもする。
「地獄の夜」になると、毒薬を飲み干した後、地獄の映像を目の当たりにする。サタンとの会話が思い描かれ、キリスト教の信仰の下、自分が断罪された存在であることを強く意識する。
これら最初の二つの断片においては、「ぼく」は社会の規範から外れ抑圧された存在であり、自由への希求が社会に対する反抗と見なされる姿が、様々な視点から描かれている。
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3番目に置かれた「錯乱」の断片は、二つの部分に分かれる。

最初の「錯乱 I 愚かな乙女」は、地獄の夫に苦しめられる妻の「告白」という形を取る断片で、夫=ランボーの横暴に耐える妻=ヴェルレーヌのやり取りが語られる。
ここで興味深いのは、告白の中での主体は妻にあり、ヴェルレーヌの視点を通してランボーが自らを描くという構造。
「あれは悪魔なんです。」という夫に向けられた妻の言葉は、ランボーが自分を第三者の視点から見て、自分を悪魔と捉えていることになる。
「錯乱 II」には「言葉の錬金術」という副題が付けられ、ランボーは、自作の7つの韻文詩を引用しながら、詩人としての自画像を描いていく。
そして、最後に至り、「ぼくは今日、美に挨拶することができる。」と記し、詩の目的が美に至ることだという認識を明確に示す。
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4番目の断片である「不可能」では、「悪い血」と「地獄の夜」において前提となっていた価値判断の基準に疑問が呈される。
西洋、理性、科学、キリスト教の神などが、無条件で善であり正義であるのか? 東洋には叡智があり直感がある。
5番目には「閃光」が置かれる。
科学的な思考は遅い。それに対して、祈りは早足で進み、光がとどろく。もし後者に従えば、永遠は誰にとっても失われていない。そして、地獄の季節は創造の時になる。
このように、「不可能」と「閃光」で、真実と美に到達する道が暗示された後、6番目の「朝」になると、「ぼく」はもう一度最初の視点に立ち戻りる。
永遠を見、一切の道徳から解放された「ぼく」が、再びごつごつとした現実を抱きしめ、地獄の報告書が終わったのだと告げる。
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最後に置かれた7番目の断片「別れ」の中で、「ぼく」は季節がすでに秋になっていることに気づく。
その時間の推移は、地獄の季節が「永遠」の時であり、春から夏へ、夏から秋へと変化する「時間」と対立することを悟らせる。
「すでに秋!— だが、なぜ永遠の太陽を惜しむというのか。ぼくたちは神聖な光の発見へと乗り出しているんだ、— 四季の流れに沿って死にゆく奴らから遠く離れて。」という冒頭の文は、詩人が永遠と時間の対比をはっきりと自覚したことを示している。
そして、前半の断片では、時間の流れる世界、つまり既存の秩序の世界に戻り、永遠の中で発明した新しい花や新しい言語を葬ることを余儀なくされる現実と直面する。
後半になると、今はまだ「前夜」であると思い直し、いつか「真実を一つの肉体と一つの魂のうちに所有する」展望が告げられ、終わりを迎える。
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このように、『地獄の季節』の構成を紹介してきたが、実際にはそれぞれの断片の内部にさえ、それほどはっきりとした論理的整合性があるわけではない。
それにともない、断片と断片のつながりや論理性に関しても、自由に解釈する余地が残されている。
その理由は、ランボーが韻文ではなく、散文によって詩を表現することと関係している。以下、ランボーの「散文詩」について考えていこう。
(2)散文による詩
繰り返しになるが、フランス文学の伝統では、詩は韻文で書かれることが必要最低条件だった。美しい散文で書かれた文章は、詩的散文とは見なされても、決して詩というジャンルに分類されることはなかった。
ランボーはそうした伝統から自由になり、ボードレールが確立しようとした散文詩の世界に飛び込み、詩のための新しい言語を作り出そうとした。
では、どのようにして、行分けをせず、一行の音節数も整えず、韻を踏むことなしに、詩を書くことできるのか?
『地獄の季節』の文章を読み始めると、ランボーの発明した新しい詩的言語がどのようなものかすぐに理解できる。というのも、一読して、何が書かれているかわからないような言葉が次々に吐き出されていると感じられるからだ。
意味がわからないと思われる理由は、大きく分けると二つある。
a. 現実に対するレフェランスの不在。
b. 文と文の関係における、さらには、一つの文の中の言葉と言葉の関係における、論理性、整合性の不在。

この二つの不在は相互に関係を持ち、不可解さを高めているのだが、ランボーの言葉たちは、そうした不透明性を超えて「美」に達する。
「序」で、「ぼく」は、「美」を膝の上に座らせ、毒づいたことがあったと語る。
他の詩人たちとは違い、ランボーは「美」を手荒に扱う。しかし、「美」は彼に従い、微笑む。
ランボーの詩的言語は、論理的に理解することが難しいのだが、しかし、美しい。
a. 現実に対するレフェランスの不在
日常の言語活動においては、言葉は、現実の事物や事象を指示することが基本となっている。
本と言えば現実の本を指し、本を読んでいると言えば、目の前にある本を指す。
同じ部屋にいる人に向かって「窓を開けて。」と言えば、どの窓のことかお互いに理解していることが原則。
他方、詩の言葉は、現実を示しているように見える時でも、詩の世界の内部で自足している。
例えば、「言葉の錬金術」の中で引用される「永遠」の最初の詩節。

また見つかった!
何が? 永遠が。
それは、海。溶け合うのは、
太陽。 (「永遠」)
この詩の中の「海」は、現実のどこかに存在する海を指しているわけでない。同じことは「太陽」についても言える。
さらに、「永遠」がどのようにして見つかったかなどといった現実的な方法も考えない。
このように、詩の言葉は、現実の事物や事象を参照するのではなく、詩自体の中で自立している。
ランボーは、散文においても、言葉から現実参照機能を取り去り、言葉だけで自立させる。
そうした行為に意識的であることは、「地獄の夜」の次の文からも知ることができる。
ぼくは自分が地獄にいると思う。ゆえに、ぼくは地獄にいる。 (「地獄の夜」)
あえて「ゆえに」という訳語を使ったのは、この文がデカルトの有名な言葉を下敷きにしていることを示すため。

我思う。ゆえに我在り。 (『方法序説』)
「思う」という訳語をよりフランス語の原文に近い言葉にすると「考える」。
「考える」という行為の中心にあるのは「理性」であり、人間に普遍的に備わる理性を働かせることが、人間という存在の本質であるとデカルトは主張した。
デカルト的合理主義、つまり理性に基づいて考えれば、「ぼくは地獄にいる」という発言自体が非現実的である。
その言葉の真実性は、「ぼく」という人間が実際に地獄にいるという「事実」に基づいていなければならないが、そうした事実を確認することは決してできない。
そのデカルト的思考を皮肉るかのように、ランボーは、自分が地獄にいると「思う」ことが、「地獄にいること」を論理的に導くのだと言う。
そのランボー的思考に従えば、空想すれば、現実になる。言葉に出せば、その内容が実現する。
そうした時、言葉はすでに存在する現実を参照するのではなく、新たな現実を生み出す力を持つことになる。
さらに、現実を参照しないのであれば、言葉同士が矛盾することはなくなる。
ここには誰もいない、そして、誰か一人いる。(中略)
ぼくは隠されている、そして、隠されていない。 (「地獄の夜」)
こうした言葉は、「ある事物について、同時に肯定しかつ否定することはできない」という論理学の法則を完全に無視したものであり、日常の言語活動で同じことを行えば「狂気」に分類されかねない。
「錯乱 II 言葉の錬金術」を開始するにあたり、ランボーは、「今度はぼくの番。ぼくの狂気の一つについての話だ。」と予告する。
そして、具体的な例の一つとして、母音の色の発明を挙げる。

ぼくは母音の色を発明した! — Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑。— ぼくはそれぞれの子音の形を動きを規定した。そして、直感的なリズムで、詩の言葉を発明したことが自慢だった。その言葉は、いつか、全ての感覚に開かれたものになるはず。別の言葉に置き換える作業は保留しておいた。
(「錯乱 II 言葉の錬金術」)
ここで語られる「詩の言葉」は言葉自体の内部で自足したもので、現実に対する参照はまったく問題にされない。
ランボーにとって、Aという文字が生み出す色彩が問題であり、さらに言えば、色彩が別の感覚と連動し、最終的には、全ての感覚に開かれた共感覚の世界を生成することが詩のテーマになる。
そうした共感覚の世界は狂気あるいは魔術的と見なされ、「別の言葉」、日常的な言語では表現することができない。現実参照機能が不在なことで、詩の言語は現実とは異なる世界を産み出すのだと考えられる。
b. 言葉と言葉の間の論理性の不在
現実に対するレフェランスの不在は、言葉を論理性の束縛から解放し、一つの言葉を自由に他の言葉と連続的に結びつけることを可能にする。
論理的整合性の欠如は、『地獄の季節』の全体に及んでいる。一つの例として、「別れ」の冒頭を取り上げてみよう。

もう秋だ! — だが、なぜ永遠の太陽を惜しむというのか。ぼくたちは神聖な光の発見へと乗り出しているんだ、 — 季節の流れに沿って死にゆく奴らから遠く離れて。
秋。ぼくたちの小船は、不動の霞の中に引き上げられ、旋回していく。悲惨の港、炎と泥で汚れた空に浮かぶ巨大な街に向かって。ああ! 腐った服のぼろ切れ、雨に濡れたパン、酩酊、ぼくを磔にした幾千もの愛欲ども! 死体を貪る魔女は、決して止めることはないだろう。そいつは、死後に裁き待つ魂と肉体を支配する女王だ! ぼくの目にはまた自分の姿が見えてくる。皮膚は泥とペストに冒され、髪と腋はウジ虫だらけ。心の中にはもっと大きなウジ虫だ。心が横たわるのは、年齢も感情もない、見知らぬ奴らの間・・・。ぼくはあそこで死んでいたかもしれない・・・。ぞっとする思い出だ! ぼくは悲惨が大嫌いなんだ。
(「別れ」)
永遠と季節という時間の流れの対比の中で、「ぼくたち」は永遠を求め、その反対の側には、時間の流れに従って死んでいく人々がいる。
それを語る言葉自体は大変に美しいのだが、具体的に何を指しているのかはっきりとはわからない。例えば、「ぼくたち」とは誰を指しているのか?
続く一節は、記述がより具体的になっているのだが、小舟、港、街という言葉から、ランボーがどこを思い描いているのかを知る手掛かりがまったくない。

服のぼろ切れ、パン、酒などに続けて、死体を貪る魔女が出てくるが、それらの言葉はただ並置されているだけで、論理的な説明は与えられないまま。
死んでいるような「ぼく」の姿が描かれるのだが、なぜそうなったのか理由はわからない。
このように、言葉が次々に現れるだけで、読者は首をかしげながらついていくしかない。
ところが、ランボーが言葉を吐き出し、投げつける勢いのよさに慣れてくると、いつのまにか言葉たちを辿ることに夢中になってしまう。
時には、リズムに乗った言葉の連なりに美を感じ、意味がはっきりとわからなくても、散文の言葉たちに魅了されることがあったりもする。
日本の読者にとっての問題は、キリスト教や古代の神話、フランスの歴史などが、何の説明もなしに次々に連ねられることがあること。
前提となる知識を持たない場合、どうしても、わからない!という気持ちになる。

ぼくはガリア人の祖先から、白い青目、限られた脳味噌、戦いの時の不器用さを受け継いだ。自分の服は彼らの服と同じほど野蛮だと思う。でもぼくは髪にバターは塗らない。(中略)
ローマ教会の長女であるフランスの歴史を思い出すことがある。農民として、聖地へ旅をしたかもしれない。頭の中にあるのは、シュバーベンの平原を通る街道や、ビザンチンの眺め、ソリムの城壁。マリアへの信仰、十字架に架けられた男に向けられた感動が、数々の世俗的なお伽話に混じって、ぼくの中に目覚めて来る。(中略)
異教徒の血が戻ってくる! 聖霊が近くにいる。なぜキリストは、ぼくの魂に高貴さと自由を与えて、ぼくを助けてくれないのか。ああ! 「福音」は通り過ぎた! 「福音」だ! 「福音」。
(「悪い血」)
ここでは、フランスの歴史、キリスト教に関係する地名や出来事に関する記述が列挙されているだけで、それぞれに関する説明もないし、なぜその順番なのかの理由もない。
一つ一つの事実を確認しなければ理解できないし、そうしなければ先に読み進むことができないと考える読者にとっては、負担がかかる。
しかし、そこで立ち止まってしまうと、言葉と言葉の連なりの生み出すリズムが失われてしまう。
大切なことは、知らないことがあったとしても、まずは読み進め、言葉の勢いを真正面から受け止めること。
知識を持つ読者にとっても、ランボーの散文詩は論理的な整合性が不明な言葉や文の連なりであることが多いのだ。
その結果、ランボーの詩の解釈には驚くほどの多様性が生まれる。ある人は『地獄の季節』は異教的な反抗の詩集であると言い、別の人はキリスト教に基づく書だと主張する。
言葉が言葉だけの世界に留まり現実を指向しない上に、言葉や文の間に飛躍があり、論理的に解釈できないことがしばしば起こる。その結果、解釈は読者の自由に任される部分が大きくなり、意味の読み取りにばらつきが生まれる。
ランボーが社会的に制約からも、詩法の規則からも自由であったように、読者もランボーの詩句を自由に解釈できる余地がある、と言ってもいいだろう。
その一方で、読者は、ランボーの世界に引き込まれるにつれて、自分なりの仕方でランボーの言葉を理解し、解釈するための努力を要求される。
日常の言語活動であれば、言葉はできるかぎりスムーズに理解されることを目指す。
しかし、ランボーの言葉はそうした言語に鋭く対立し、読者を立ち止まらせ、考えさせる。読者に通常ではない言葉の働きを感じ取らせる。そして、勢いよく紡ぎ出される不思議な散文が「詩」であると認識させる。
(3)「美」の錬金術

『地獄の季節』は、「地獄落ちした男の手帳」から破り取られたページによって構成されている。従って、描き出されるのは地獄の光景であり、一般的な美の基準からしたら醜悪なものと見なされるはずである。
そうした一般的な美の基準から完全に自由な精神を持つランボーは、「美」を膝の上に座らせ、侮辱する。自らの宝を託すのは、「魔女たち、悲惨、憎しみ」(「序」)。
では、そうした地獄の体験が、どのようにして「美」へと変わるのだろうか?
一つの視点は、『地獄の季節』の構造によっておぼろげながら示されている。
劣等な種族に属し、同伴者からは悪魔の見なされる「ぼく」は、「言葉の錬金術」を通して、美に挨拶できるようになる。その後、既成概念の問い直し、一瞬の煌めきにより永遠に達する可能性を垣間見たり、逆に、再び現実世界も引き戻されることもある。そして最終的には、今は前夜であり、いつか真実を所有することができるという展望を持つ。
劣等から真実へのこうした展開が、非金属を黄金に変質させる秘術に基づいていると考えることができる。

同じ逆転の構図をより具体的に辿ることもできる。
地獄落ちした「ぼく」は、社会的に抑圧された側の人々と自分を重ね合わせる。
例えば、『レ・ミゼラブル』のジャン・ヴァルジャン、火刑に処せられたジャンヌ・ダルク、絞首刑にかけられ、地獄に下ったこともあるイエス・キリスト。
家族も友もなく孤独だが、ある時期一緒に暮らた「愚かな乙女」からは「地獄の夫」と見なされ、自らの悪魔性を自覚する。
決して「幸福」に到達することはない。すべては不可能であり、逃げ去ることしかできない。
そうした状態が「ぼくの地獄」なのだ。

その地獄を言葉によって錬金する。
言葉が理性の統制を外れ、秩序の定まった価値観を混沌とさせ、全てを狂気の坩堝に投げ入れる。時間が流れず、過去も現在も未来も全てが今ここににある「永遠」を作り出す。
ぼくの生はすり減っている。さあ、振りをしよう。何もしないで無為に過ごそう。ああ、哀れんでくれ! これから生きていくとしたら、遊んだり、怪物みたいな恋愛や幻想的な宇宙を夢見たり、文句を言ったり、この世の色々な見かけと喧嘩しながらさ。大道芸人、乞食、芸術家、追い剥ぎ、— 坊さんだ! (「閃光」)
要するに、現実世界に働きかけることは何もしない。生きることをごっこ遊びしてしまう。遊ぶことも、夢見ることも、結局は、無為であり、現実とは直に関係しない。
そうした生のあり方は、現実を参照しない言葉の働きと対応する。
「ぼくは自分が地獄にいると思う。ゆえに、ぼくは地獄にいる」世界。
別の視点から見れば、言葉が現実に先行する世界。
さらに進めば、言葉さえ存在しないと思えるほど、言葉が意味を失う。
ぼくは自然をまだ知っているのだろうか? 自分を知っているのだろうか? — もう言葉もない。ぼくは腹の中に死者たちを埋葬する。叫び、太鼓、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス! 白人たちが上陸し、ぼくは虚無の中に落ち込んでしまうかもしれない。その時さえわからない。
餓え、渇き、叫び、ダンス、ダンス、ダンス、ダンス! (「悪い血」)

言葉はないと言いながら、言葉が疾走する。とりわけ、ダンス、ダンスと同じ単語が何度も繰り返され、高揚した精神の踊りが繰り広げられる。
そして、その言葉たちの饗宴が、沸き立つエネルギーによって「美」を発散する。
読者はランボーの吐き出す言葉の勢いに圧倒され、言葉の海に呑み込まれ、我を忘れて恍惚となる。「美」が生成するするのは、その瞬間だ。
『地獄の季節』は、ランボーの散文が「詩」となり、地獄を「美」の時空へと変質させる錬金術の坩堝だといっていいだろう。