
『おくのほそ道』は、太平洋側を歩む行き旅と、日本海側に沿った帰りの旅という二つの行程によって、大きな構造が形作られている。
その分岐点となるのが、平泉と尿前。
平泉では、「夏草や兵(つはもの)どもが夢の跡」の句によって捉えられた「無常な時の流れ」(流行)と、「五月雨の降(ふり)のこしてや光堂」の句が感知させる「不変・永遠」(不易)とが、古代の英雄や中尊寺の金色堂を通して詠われた。
それに対して、後半の旅の開始となる尿前の関で、芭蕉は悪天候のために門番の家に3日間も泊まることになり、「蚤(のみ)虱(しらみ)馬の尿(しと)する枕もと」といった、卑近な題材を俳句として表現する。
この明確な対比を境にして、芭蕉の旅は後半に入る。

尿前の関から日本海側に抜けるためには、尾花沢の近くにある大石田で船に乗り、最上川を下っていくという行程が考えられる。
芭蕉もその旅程を取るのだが、しかし、二か所で寄り道をする。
まず、尾花沢からすぐに船に乗らず、立石寺を訪れる。
大石田で船に乗った後、出羽三山(白黒山、湯殿、月山)を訪れるために、いったん船を下りる。
太平洋側の旅では、時間の経過によって失われたもの(流行)と、永遠に残っているもの(不易)が別々に捉えられてきた。
ところが、蚤、虱、馬の尿から始まる後半の旅の始まりにおいて、山中を横切りながら、芭蕉は流行と不易が一つであることを悟っていく。
弟子の去来(きょらい)が伝える言葉で言えば、「不易と流行は元は一つ」(「去来抄」)。
それが日本海側の旅の中で、どのように表現されているのか見ていこう。
(1)最上川下り
芭蕉と曽良は、尿前の関を超え、尾花沢からいったん立石寺に寄り道した後、大石田で最上川を下る船に乗る。船の行き先は、日本海側に位置する酒田。
最上川は、みちのくより出(いで)て、山形を水上(みなかみ)とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所(なんじょ)有(あり)。板敷山(いたじきやま)の北を流れて、果は酒田の海に入(いる)。
このように芭蕉は最上川の出発点と終着点を示した上で、川を下る危険も予告する。
そして、実際に船に乗り激流を下る実感を語る。

左右山覆(おほ)ひ、茂みの中に船を下す。(中略)白糸の滝は青葉の隙々(ひまひま)に落(おち)て、仙人堂、岸に臨(のぞみ)て立(たつ)。水みなぎつて舟あやうし 。
五月雨(さみだれ)をあつめて早し最上川
川の両側には山がそびえ、船は茂みの中を下って行く。有名な白糸の滝や、源義経の家臣を祀った仙人堂の前を通るのだが、恐ろしく流れが速い。
「五月雨を」の句は、最初、「あつめて涼し」だったが、『おくのほそ道』に収録するにあたり、「あつめて早し」に変更された。
その変更は、流れの速さを強調すると同時に、時間の経過とともに全てが消え去ってしまう無常観を強調することにもなる。
義経と関係する仙人堂は、平泉の夏草が思い出させる兵(つわもの)たちの夢の跡を連想させる。
この句はまさに「流行の俳句」なのだ。

ところが、出羽三山を訪れた後、酒田に到着した際の句は全く違っている。
羽黒を立て、(中略)。川舟に乗て、酒田の湊に下る。(中略)
暑き日を海にいれたり最上川
命の危険を感じさせるほどの激流だった最上川が、海へと注ぎ込む。その勢いは、日中暑かった太陽を海に沈めるほど。
「いれたり」という完了形は、すでに暑い日は終わったことを示している。その時には動きは終わり、川と海と太陽が一体化し、静止しているように感じられる。
この情景は、目の前に広がっている現実の風景でありながら、同時に、時間を超えて存在する宇宙的な光景とも感じられる。
山々の間を勢いよく流れた時間が、酒田の海で永遠になる。
逆に言えば、暑き日を呑み込んだ海は、五月雨を集めた最上川のもう一つの姿でもある。
不易かつ流行の現れがこの句によって表現されるといってもいい。
。。。。。
過ぎ去る現在が永遠でもある感覚は、酒田から北陸道を下る中、もう一度捉えられる。

酒田の余波(なごり)日を重て、北陸道の雲に望(のぞむ)。(中略)鼠の関をこゆれば、越後の地に歩行を改て、越中の国一ぶりの関に到る。(中略)
荒海や佐渡によこたふ天河
名残惜しい酒田から旅立ち、越後から越中へと下っていく。
その際、雲に思いを馳せるのは、江戸を出発する前に、「片雲の風に誘われて、漂白の思いやまず」と旅に誘われた時と同じ気持ちだったことだろう。

芭蕉はまず、「鼠の関」に言及することで、奥羽から越後へと進んだことを示し、次に、「市振(いちぶり)の関」をあえて「越中の国」とすることで、越後から越中へと入ることが告げられる。
その道程で、佐渡島が目に入ることがしばしばあったに違いない。
実際の旅において、芭蕉が酒田を発ったのは6月25日(旧暦)。7月2日に新潟に着き、7月6日は直江津(なおえつ)。到着後雨が強くなり、翌7日も雨に降り込められ、8日になってから高田に出発する。
従って、7月7日の七夕の日、海が荒れる様子は目に入ったかもしれないが、天の川は見えなかったはずである。
そうした中で、芭蕉は不易流行のモデルともいうべき句を詠む。
「荒海や/佐渡によこたふ天河」
切れ字の「や」が、目の前に広がる海の姿(現実)と、芭蕉の心の中に浮かんだ天の川 (心の世界 )が、二つの次元 の事象であることを示している。
その一方で、佐渡島は実際に見えながらも、実在しない天空の川とも繋がり、同時に二つの次元に属し、それらを繋げている。
そして、その二重性が、「不易と流行は元は一つ」を実現する。
市振の関を超えた芭蕉は、山中温泉で、金沢から同行している北枝(ほくし)に、不易流行の説を次のように説くことになる。
天地を右にし、万物、山川・草木・人倫の本情を忘れず、落花散葉の姿に遊ぶべし。その姿に遊ぶ時は、道古今に通じ、不易の理を失はずして、流行の変にわたる。 (立花北枝『中山問答』)
「荒波」は山川草木という移りゆく自然の姿、「天河」は天地。
「荒海や」の句をそのまま受け取れば、芭蕉が実際に目にした光景を詠んだ句とも思われるし、あるいは芭蕉が雨の佐渡島を目にしながら思い描いた理想の風景とも考えられる。
そのどちらもが正しい。移り変わる自然は、永遠とも感じられる。
(2)立石寺と月山
不易と流行が一つであることをベースにした俳句論は中山温泉で芭蕉にはっきりと自覚されたのかもしれないが、その直感を得たのは、尿前の関を超え酒田に向かう行程の中の二つの寄り道の地 — 立石寺と月山 — においてだった。

a. 立石寺
最上川を下る船に乗るために尾花沢から大石田に向かう途中、「一見すべきよし、人々のすすむるに依(より)て、尾花沢よりとって返し」、立石寺を訪れる。
日いまだ暮れず。
ふもとの坊に宿借りおきて、山上の堂に登る。
岩に巌(いわほ)を重ねて山とし、松柏(しょうはく)年旧(としふり)、土石(どせき)老いて苔滑らかに、岩上の院々扉を閉ぢて物の音聞こえず。
岸を巡り、岩をはひて、仏閣を拝し、佳景(かけい)寂寞(じゃくばく)として心澄みゆくのみ覚ゆ。
閑かさや岩にしみ入る蝉の声

岩が重なって山をなし、苔むした木々が立ち並ぶ山寺の光景は、現実の風景の写生というよりも、時間を超越した「造化の真」の表現であるように感じられる。
だからこそ、蝉の鳴き声が辺りに響き渡っているとしても、芭蕉にとっては、「物の音は聞こえず」、美しい光景がもの寂しくひっそりしている。
「心澄みゆくのみ覚ゆ」という散文の言葉は、この情景が芭蕉の心の風景であることをひっそりと明かしている。
そして、「閑かさや」へとつながる。
「蝉の声」は現実の世界で聞こえ、もしかすると、耳を打つほどうるさい音かもしれない。
しかし、芭蕉の心には、その声が「しみ入る」、つまり、奥深くにしみ込み、心を震わせる。
そのようにして、流行する蝉の声が、不易の閑かさの中にしみ入り、一つの情景となる。
立石寺は、芭蕉が不易と流行が一つであることを直感した地であり、最初の寄り道がその地に彼を導いてくれたのだった。
b. 月山

大石田で船に乗った芭蕉は、最上川の激流を体験し、早さ、つまり流行を強く感じる。そのまま船に乗っていれば酒田まですぐに着くのだが、しかし、わざわざいったん下船し、出羽三山へと向かう
その寄り道の中でも、月山は特別な体験となる。
八日、月山にのぼる。木綿(ゆう)しめ身に引(ひき)かけ、宝冠(ほうかん)に頭(かしら)を包み、強力(ごうりき)と云ものに道びかれて、雲霧山気(うんむさんき)の中に、氷雪を踏てのぼる事八里、更に日月行道(じつげつぎょうどう)の雲関(うんかん)に入(いる)かとあやしまれ、息絶(たえ)身こごえて頂上に臻(いた)れば、日没(ぼっし)て月顕(あらは)る。笹を鋪(しき)、篠(しの)を枕として、臥て明るを待(まつ)。日出て雲消れば、湯殿に下る。(中略)
雲の峰幾つ崩て月の山

芭蕉は、山に登る自らの装束や案内の者について言及し、雲や霧がたちこめる山の中、氷や雪を踏みながら八里(28キロ)という長い道のりを登っていく。
そのために、頂上にやっと着いた時には、体は凍え、息も絶え絶えだった。
その時にはもう日が沈み、月が出ている。
芭蕉は、山に生えている笹や篠といった植物を蒲団のようにして寝転び、夜が明けるのを待つ。
現実的で事実に即しているかのように思われるこうした記述の中に、宇宙的な広がりを芭蕉が感じたことを思わせる一節が含まれることに注意しなければならない。
「日月行道の雲関に入かとあやしまれ」。
ただ雲の中に入って行くというのではない。
雲は太陽や月の軌道にあり、その雲が関となっている。雲関とは、芭蕉が上る山道と宇宙を隔てる関なのだ。
「雲の峰」は、目の前に見える現実の雲を指すと考えていいだろう。その峰が崩れる動きは時間の推移を感じさせる。
そして、いつしか、月が見えてくる。
月山は現実でありながら、「月の山」となると日月行道の中に位置する永遠の存在になる。
別の言い方をすれば、月山を流行の中で捉えるのか、不易の相で感知するのかは、その山に接する人の心持ちによることになる。
「雲の峰幾つ崩て/月の山」
時の経過とともに形を変える雲が、あたかも不動の月山になったかのような印象を与える。
この句の中には、動きと不動、流行と不易がともにある。
鴨長明の言葉を借りれば、「ゆく川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。」
川の流れを変化するものと捉えることもできるが、絶えることのない永遠の相の下で捉えることもできる。
あらゆる物は一瞬毎に流行し、かつ不易でもある。
芭蕉は、立石寺で「佳景寂寞」が蝉の鳴き声を通して心にしみ入るのを感じ、月山の「日月行道の雲関)」を超え、「崩れ」が月の山を築くことを知った。
この実感が、最上川や佐渡の句の下敷きになったと考えると、おくのほそ道の旅の行程が、芭蕉の俳句論の中核をなす「不易流行」の形成にいかに重要な意味を持っていたのかを理解することができる。