1492年 コロンブス以降の「世界史」

自分たちがどのような時代を生きているなのかを知るのは難しい。今起こっていることが当たり前すぎて、その状況を相対化する視点から物事を見ることが難しいからだ。
そして、過去を探る場合にも、現在の視点から考察することが多く、過去が現在の世界観、価値観によって書き直されることが多い。

ジャック・アタリの『1492 西欧文明の世界支配』(ちくま学芸文庫)は、1492年のコロンブスによる「新大陸の発見」という出来事の意味を問い直し、その後の世界全体が一つの世界観の下にあり続ける、その起源を描き出す。
あまりにも詳細な記述が行われるために、読みやすいとはいえないのだが、とりわけ非西欧の読者が今の世界を知るために、これほど説得力のある歴史書はないのではないかと思われる。

その要旨を一言で言えば、「新大陸の発見」という表現自体が、すでに欧米中心の世界支配を表しているということ。
その大陸は「発見」される以前にすでに人々が住み、生活していたのだ。コロンブスのサン・サルバドル島到達は、西欧世界が描いた世界史の中での、象徴的な出来事に他ならない。

その事件の後、スペイン、ポルトガル、さらにはオランダ、フランス、イギリスといった国々が、アメリカ大陸だけではなく、アフリカやアジアに「進出」していくことになるのだが、支配の仕方はそれぞれの大陸によって異なっていた。
ジャック・アタリは、その違いを次のように説明する。

ヨーロッパは3つの大陸に到達した後、それらを占有する。(中略)しかしそのやり方はそれぞれ異なる。
新世界(アメリカ大陸)では、ヨーロッパの君主たちが土地や鉱山、人間や富を〈分配〉する。
アフリカでは、ヨーロッパの商人たちが金(きん)を〈運び去り〉、人間を(奴隷として)連れ去るだけにとどめ、そこには沿岸の商館以外のものは建設しない。
この二つの場合は、民族全体、諸国家、諸帝国、諸文明が消滅する。
アジアには、まず聖職者たちが〈改宗される〉ために来て、入れ替わって〈取引する〉だけの商人たちが続く。
(ジャック・アタリ(斉藤広信訳)『1492 西欧文明の世界支配』p. 308. 読みやすくするため、引用に多少手を加えた。)

アメリカ大陸では、最初から植民地化が行われ、ヨーロッパ人が定住し、それまでの文明は滅ぼされることになった。
マチュ・ピチュ遺跡で知られるインカ帝国や、現在のメキシコに位置したアステカ帝国などがその代表的な例だ。

ジャック・アタリによれば、アメリカ大陸では、16世紀に、7500万人のアメリカン・インディアンたちが殺戮やヨーロッパからもたらされた伝染病で死亡し、24万人のスペイン人が住み着き、300万人のアフリカ人が奴隷として送り込まれたという。

コロンブスが到達した大陸が、その後、なぜアメリカと呼ばれるようになったのか?
その名前は、コロンブスの後で大陸に上陸したアメリゴ・ヴェスプッチに由来する。

アメリゴ・ヴェスプッチは四回の航海を重ね、その様子を旅行記に描いた。
その中で、自分が新しい大陸を発見したのであり、コロンブスは単に島々を発見したにすぎないと主張した。
また、先住民たちを捕虜や妻や子どもたちをむさぼり食う〈食人種(カニバル)〉(p 339)としたり、文明人のヨーロッパ人から見た野蛮人たちの風習について誇張した記述も行った。

その紀行文を読んだある宗教団体が世界地図を作成した際、アメリゴ・ヴェスプッチがその大陸を発見したのだから、そこを「アメリガ」あるいは「アメリカ」と命名したいという提案をした。そして、その名前がじょじょに浸透し、例えば、1514年にはレオナルド・ダ・ビンチも「アメリカ」という名前を使っているという。

アフリカとアジアは、アメリカとは異なる扱いを受ける。

アフリカは金を始めとする鉱物や、胡椒、サトウキビなどを供給するが、それだけではなく、アメリカに大量に送られる奴隷の供給源となる。

ヨーロッパはアメリカにおよそ1000万人のアフリカ人を送り込むが、彼らは初めからヨーロッパのためだけに考えられたこの大陸(アメリカ大陸)に、その最も美しい現実を与えるだろう。混血である。彼らはそこに来て、ヨーロッパがそこに持ち込むものを生産し育てる。馬や牛や小麦やサトウキビである。(p. 361.)

こうした扱いの中で、アフリカ大陸が植民地化されるのは、19世紀の後半。
1884年のベルリン会議において西欧諸国によるアフリカを植民地として分割する協定が結ばれ、リベリアとエチオピアを除く全ての地域が、ドイツ、イタリア、ベルギーなどを含むヨーロッパ諸国の支配下に入った。

アジアは、宣教師によるキリスト教の布教、そして、東インド会社に見られるように市場としての扱いを受ける期間が長く続いた。
その点では、「東洋諸国は大事にして」(p. 308)もらえたのかもしれない。

実際、貿易という名前の搾取が行われたとしても、植民地化が行われたのは、19世紀になってからだった。
インドがイギリスの植民地となり、東南アジアはイギリスやフランスなどが支配した。
中国では、清が1840年のアヘン戦争でイギリスに敗れ、香港の割譲、五つの港の開港、貿易の完全自由化などが化された。

宣教師から始まり、市場化し、有利な条約を結ぶという支配過程は、日本の歴史の中では、1549年のフランシスコ・ザビエルの来日、1853年のペリーの黒船来航という二つの出来事を思い出すと、分かりやすいかもしれない。

また、ペリーの来航は、アメリカが18世紀末の独立戦争を経て、海外に「進出」だけの国力を蓄えたことを示す出来事でもある。


日本のWikipediaの「アメリカ大陸発見」という項目でも、2つの視点が並記されている。

 1492年10月12日、クリストファー・コロンブスがヨーロッパから大西洋を横断し、アメリカ大陸周辺の島であるサン・サルバドル島に到達した。 コロンブスを契機として、多くの航海者がヨーロッパからアメリカ大陸へと渡り、ヨーロッパ諸国によるアメリカ大陸の植民地化が進んだ。 ヨーロッパ世界にとっては、コロンブスのアメリカ大陸周辺諸島への到達は新世界の発見にほかならず、その後のアメリカ大陸の帰趨を決定付ける象徴的な出来事であったことから、長らく「アメリカ大陸の発見」という言葉で語られてきた。
 一方で、コロンブス以前からアメリカ州の先住民族が定住していたことは動かぬ事実であるから、全人類の中で始めてこの大陸を発見した人物がコロンブスでないことは言うまでもない。 先住民族らからは、「アメリカ大陸の発見」はヨーロッパ中心主義に基づいた不適切な言葉であるとたびたび批判されてきた。 さらに、先住民族以外にもさまざまな文化圏の人々がコロンブス以前にアメリカ大陸に到達していた可能性が指摘されるようになっている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%A4%A7%E9%99%B8%E3%81%AE%E7%99%BA%E8%A6%8B

ここに二つの視点が記されているのだが、その後の記述を辿っても、ヨーロッパ中心主義がどのようなものなのか、そして、それが現代に至る過程でどのように作用したのかもわからない。

他方、ジャック・アタリの『1492 西欧文明の世界支配』は、1492年からの世界全体の状況をざっと見渡すための大きな視野を提供している。
それは決して、アンチ欧米の世界観を示すためではなく、欧米の精神に従って書かれた「世界史」とは異なる視点から歴史的な事実を検討し直すための第一歩となる。

日本では明治維新以降、欧米的な世界観を素早く受容・吸収し、第一次世界大戦後の1920年に発足した国際連盟において、常任理事国の一つとなった。その間、わずか50年。

また、21世紀の現在でも、G7に参加するアジア唯一の国といった表現で、自由、人権、進歩、科学、民主主義、国際化、開かれた貿易システムといった価値観を共有すると多くの人々が考えている。
それは、日本人が1492年以降の「世界の歴史」を受け入れ、コロンブスの「アメリカ大陸発見」という表現に、ほとんど疑問を持たないことにも現れている。

そうした世界観を唯一のものとして思考停止するのではなく、また現代の視点から見て非人道的で許しがたいものとして事後的に非難するのでもなく、異なった視点から客観的な事実を確認することを通して、今後の世界のあり方を考えてみることも、時には必要なことではないだろうか。

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