井筒俊彦 温故知新

井筒俊彦のエッセイ集を読んでいて、「温故知新」という最近ではすっかり忘れられた言葉に出会った。

「温故知新」。
使い古された表現だが、「温故」と「知新」とを直結させることで、この『論語』の言葉は「古典」なるものに関わる真理を言い当てている。
「古典」とは、まさしく”古さ’を窮めて、しかも絶え間なく”新しくなる”テクスト群なのだ。
“新しくする”もの、それは常に、「読み」の操作である。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

井筒が強調するのは、古いものは、「読むこと」によって、新しいものに「なる」ということ。
「読む」行為が、古いものを新しいものに「する」。

幾世紀もの文化的生の集積をこめた意味構造のコスモスが、様々に、大胆に、「読み」解かれ、組み替えられていく。現代の知的要請に応える新しい文化価値創出の可能性を、「温故」と「知新」との結合のうちに、人々は探ろうとしている。
    (井筒俊彦『読むと書く』、p. 500.)

「意味構造のコスモス」といった井筒俊彦独特の表現が使われているために、難しいと感じられるかもしれない。
しかし、ここに記されていることは、「温故知新」という言葉が、「古いものをたずね求めて新しい事柄を知る」という、わかったようなわからないような解説ではなく、「古典」として評価が定着してきた価値ある伝統を、現代に生きる私たちが読み直すことで、新しい価値を産み出すという、能動的な行為を意味しているということである。


井筒俊彦(いづつ としひこ、1914–1993)は、日本で最も優れた思想家の一人である。
その天才ぶりを示すエピソードとして、三十か国以上の言語を流暢に使いこなしたという話がある。
英語、フランス語、ドイツ語などは簡単すぎるとしてロシア語の勉強を始め、それでも容易だったためアラビア語を学び、イスラーム、仏教、老子や荘子のみならず、ソクラテス以前の哲学者たちもすべて原典で読んだと伝えられている。

死の直前には、ユダヤ哲学、インド哲学、日本の古典、仏教、イスラム、プラトン、老荘などを総合的に捉える著作を構想していたという。
その究極にあるのは、存在とは何か? 人間の文化とは何か? 意識とは? 言語とは? などの問いだった。

その最中に訪れた突然の死。
井筒夫人がその時の様子を綴った文がある。

今年(1993年)春3月に完成させるはずのその第一回目の論文を、彼は彼の死ぬその日、1月7日の午後から書き始めようとしていた。ノートとテクストを積み上げ、万年筆も二本、机上に選んであった。朝の7時に寝に就き、就寝中、9時過ぎに意識を失い、彼の現意識(うつつ)はそのまま回復することがなかった。
    (井筒俊彦『意識の形而上学』あとがき、p.195.)

このエピソードは、存在とは何かを広大な分野で探究し続けた井筒俊彦を、見事に描き出している。


井筒の著作は決して読みやすいものではないが、しかし、過去の伝統を忘れがちな今こそ、「温故知新」についての彼の言葉を読み直し、新たな意味を見出してみたい。

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