「現実の他に何があるのか?」という問いは何か変な感じがするが、ヨーロッパ的な考え方を知るためには、こんな問いから始めるのがいいかもしれない。
(1)プラトンにおけるイデアと現実

古代ギリシアの哲学者プラトンは、現実の事物は時間が経てば消滅する儚い存在だと考え、そうした存在を超えて永遠に存在する確かなものはないかと問いかけた。
そして発見したのが、イデアだった。英語のideal(理想)の語源となる言葉。
プラトンにとっては、イデア界こそが真に実在するものであり、現実世界はイデア界のコピーあるいは影にすぎない。
もちろん、現代の私たちはプラトンの言うイデア界があるとは信じられない。アダムとイブの楽園や浦島太郎の竜宮城のように、空想の産物だと思うだろう。
というのも、私たちの世界観の基礎には科学的な思考があり、実験によって物理的に確認できないものが実在するとは認められないからだ。
目に見え、手で触れ、香りを嗅ぎといったように、五感で感じ取ることのできるものが、現実世界を構成する。
しかし、少し考え直してみると、感覚に騙されることがあったりもする。
同じ物を触ったとして、より熱い物の後だとそれほど熱く感じないし、冷たいものを触った後ではひどく熱く感じたりする。同じ長さのものでも形によって違う長さに見える。そうした心理学的な錯覚実験があるのもそのためだ。
そのように考えると、「現実とは何か?」という問題も、実際のところそれほど簡単ではないことがわかってくる。

その問いに答える困難さを最も端的に、しかもユーモアを持って表現したのは、中国の思想家、荘子だろう。
「胡蝶の夢」のエピソードは現代でもよく知られている。
かつて、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。
はっと目が覚めると、自分は荘周だ!
では、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、実は自分は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。
荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。これが物化(ぶっか)というものである。
(『荘子』斉物論)
私たちは、意識を持って生きるこの世界を現実だと思い、夢を現実だと思うことはない。
荘子は、その確信を揺るがすことを目指し、蝶として楽しげに舞う夢が本来の姿かもしれず、人間として活動する世界は蝶の夢ではないかと自問する。
誰が、蝶に対して、お前は夢であり、人間の姿が現実だと説得できるだろうか?
それは、あなたが、今この文章を読んでいるのは実は夢なのだと、あなた自身を説得できないのと同じことだ。
プラトンが、荘子のように考えて、現実世界の不確かさを悟ったのかどうかはわからない。しかし、とにかく、彼は現実を超えたところに、不確かではない世界、絶対的な真実や美、永遠を求め、それらをイデアとし、彼の思考の原点に置いたのだった。
そのイデア界は人間の目に見えるものではなく、手の届くところにあるわけでもない。物質的な存在ではなく、観念的な存在。決して手が届かない理想の世界と考えると、わかりやすいかもしれない。
普通に考えると、それは単なる空想の産物だとか、頭で考えただけで実際に存在するものではないということになる。
それに対して、プラトンは、イデア界こそが本当に存在する世界、確かな実在であるとし、彼の哲学の根本的な原理としたのだった。
一般的な考え方を逆転したそうした考えにすぐに納得することは難しいかもしれないが、この段階では、プラトンの思考法が、現実とイデア界という2つの次元に基づいていることを確認しておきたい。
イデア界は現実の外部にあり、かつ現実を超越したところに位置する。
(2)キリスト教における神と人間
その二元論は、キリスト教の思想とも一致する。
そこでは、人間を超えた神の存在が前提となり、イデアに対応する神の世界、現実を生きる人間の世界という、二元論がベースにある。
科学的な思考からすれば、物質的に証明できない神は存在しない。しかし、宗教においては、神の存在を信じることが第一歩となる。
そして、人間と神は同一の次元に存在するのではなく、神は現実を超越した存在に他ならない。
さらに言えば、神こそが真実であり、人間は神の「似姿」として作られ、プラトン的に表現すれば、コピーだと言うこともできる。
キリスト教において、神と人間の上下関係が不透明になるのは、イエス・キリストが、神でありながら人間でもあるという二重性をまとい、神によって人間界に遣わされた存在だと見なされるから。
イエスの中で、人間界と神界、時間と永遠が交差し、二つの次元が融合する。
しかし、キリスト教の基本的な思想では、神と人間の上下関係は保たれ続ける。そして、神の次元は人間の次元の外部にあり、超越している。
その視点から見ると、プラトン哲学とキリスト教は対応している。
(3)アリストテレスにおける形相と質量

アリストテレスはプラトンの弟子だが、現実を超越したイデア界を否定し、徹底的に現実にこだわり、現実そのものを哲学の対象とすることを主張した。
現実を超えた次元を認めない姿勢は、一見すると二元論を否定し、現実のみの存在を認める一元論に思われるかもしれない。
ラファエロによって描かれた「アテネの学堂」の中で、プラトンは天上を指指し、アリストテレスは並行方向に指を向けている。
その姿勢の違いが、二人の哲学の本質を表現していると言われることもある。
しかし、実際には、アリストテレスの思想はイデア論を展開したものであり、二元論的思考という意味では、プラトンの弟子であり続けた。
そのことは、プラトンがイデアを意味するために用いた「エイドス」という言葉が、アリストテレス哲学の根本にあることからも推測できる。
ただし、「形相」と訳されてきたために、その繋がりがわかりにくいものになっている。
イデアは、現実を超越した次元にあるとされた。それに対して、「形相」は、現実にある物質、アリストレスの用語では「質量」と同一次元にあるものと考えられる。
比喩的に言えば、「形相」は「質量」の内部にある。(もちろん、「形相」は物質的に存在するわけではないので、「質量」の内部にあるという言い方は正確ではない。)
別の比喩を使うと、「形相」と「質量」の関係は、型紙と服、設計図と建造物の関係ともいえる。
現実にある物質(質量)は、その物質を形成する原理(形相)を内在していて、その原理に従って構成されるとアリストテレスは考えたのだった。
近代の科学的な思考法に基づいて現実を認識する私たちにとって、物質がその構成原理(形相)を含むという考え方は、イデアと同様に、納得しにくいかもしれない。
そこで、私たちが言語を習得する過程を取り上げ、現実世界の認識には二つの次元があることを見ていこう。
すでに母語を習得している私たちは、犬を見れば犬と思うし、それが猫でないことは当たり前のこととして認識している、と思っている。
しかし、まだ言葉を習得していない幼児はどうだろう?
チワワとブルドックとシェバートは、形も大きさもかなり違っている。どうして、それらがすべて「犬」だとわかるのだろう?
また、チワワと大きさの近い猫は猫であり、犬ではないと、どうしてわかるのだろう?




その理由は、犬と出会う度、親は幼児に向かい、「ワンワン、ワンワン」と言い、幼児もある時期から「ワンワン」と繰り返すようになるという、学習がなされるからである。
猫を見た時には、「ニャンニャン」。
もし幼児が犬を見て「ニャンニャン」と言えば、親は「違う違う、ワンワン」と訂正する。
そのようにしているうちに、どんなに姿形の違う犬でも幼児は「ワンワン」と言うようになり、猫とは区別する。
そして、いったん犬と猫の区別がつくようになると、間違えることはほぼなくなる。
しかも、そうなった後からは、その区別が現実の犬や猫の認識ではなく、「ワンワン、ニャンニャン」という言葉によって限定された「概念」による区分であることを忘れてしまう。
私たち大人が、ごく自然に区別していると思っているのは、実は、「犬」や「猫」という概念を言語によって習得したからなのだ。しかし、いったん習得されると、それ以前の状態に戻ることはなく、区別できなかったことを思い出すことはない。
現実認識が、言語という概念の編み目を通して整理されるということは、異なる言語によって違う認識が示されることからも証明される。
例えば、魚は動物だろうか?
日本語を母語としている人間は、鯨は海を泳ぐけれど、哺乳類だから、動物。しかし、他の魚は動物ではない、といったことを考えるだろう。
しかし、フランス語で poisson (魚)の定義を見れば、animal aquatique vertébré (水性脊椎動物)とあり、animalであるとされている。
生命のある有機体であれば、植物を除き、動物に分類される。日本語で書くと、魚は動物ということになる。



この3枚の写真のうち、日本語の分類では、最初は魚、2番目と3番目は動物。それに対して、フランス語ではすべてanimal。
このように、二つの言語で、動物とanimalの概念が異なっている。
こうした考察を通して、私たちの現実認識は言語によって概念化されたものであり、概念化されない「生の現実」、こう言ってよければ言語習得以前の幼児が体験する世界を認識することは、ほぼないということがわかってくる。
実際、ほぼないのだが、ほとんど見たことがないものを見る時など、「何かわからない」ということが起こり、概念化以前の状態に置かれることもある。
例えば、写真の三番目の動物は何だろう?
少なくとも、私にはわからない。鹿?山羊?牛?
答えは、カモシカ。
しかも、カモシカは鹿科ではなく、牛科に属するという。
この「何かわからない」という混沌とした状態が、実は私たちの現実認識のベースに横たわっている。
ただし、その上に、イヌ、ネコ、サカナ、カモシカなどなどといった言語による概念が被せられ、私たちは概念の網を通してそれぞれの物を認識しているため、イヌとネコ、ドウブツとサカナの区別を最初から備わったものとして受け入れているのだといえる。
アリストテレス哲学に戻れば、「生の現実」と「概念」の区分が、「質量」と「形相」の区分と対応する。
アリストテレスは、プラトン的なイデアの超越性を否定し、現実のみを対象とし、そこに物質的な「質量」と、それを形成する原理となる「形相」という、二つの次元を導入した。
哲学の用語を用いるとわかりにくいが、要するに「生の現実」と「概念」を分けたということになる。
その上で、概念(質量)を実在するものとし、「生の現実」はそれが物質的に実現したもの(=質量)と考えた。
その意味では、イデアが実在であり、現実はイデアのコピーだとするプラトンと変わらない。そのために、「生の現実」こそが現実だと見なす現代の私たちの考えとは相容れず、わかりにくいと思われるかもしれない。
しかし、実際のところ、私たちはある生き物を見て、犬だと思ったり、猫だと思ったりする。何かわからない動物と思うことはほぼない。
ということは、最初から概念を通して物体を認識しているのであり、言語習得以前の幼児のような認識はしていない。
その意味では、「形相」が「質量」に先立つ認識をしているということになる。
それはまさにアリストテレス的な世界観だといえる。
最初の問い、「現実の他に何があるのか?」に対する答えとして、プラトンであればイデアと答え、アリストテレスであれば「形相」と答えるだろう。
そして二人とも、現実の事物ではなく、イデアや「形相」こそが実在すると考えた。
その意味で、どちらの哲学も二元論的なものだということができる。
そのことは、ヨーロッパ的な世界観を知る上で非常に重要だといえる。というのも、主体と客体の関係も時間意識にも、二元論がベースとしてあるからだ。
それに対して、日本的な心性はむしろ一元論的だといえる。
従って、二元論を知ることは、ヨーロッパ的な思考法を知ると同時に、それとは相容れない原理で動く日本的な思考法を知ることにもつながる。
そうした大きな展望に立ち、身近な例から考えてみると、考える楽しさ、知る楽しさを実感できるのではないだろうか。