「歴史」を知る難しさ イザナギ・イザナミ夫妻は円満?

8月15日は、日本にとっては第二次世界大戦の「終戦記念日」。
しかし、この日が終戦ではないという人もいるし、ポツダム宣言を受け入れたとしても「全面降伏」ではなかったという人もいる。原爆の投下についても様々な説が混在し、ソ連参戦の意味についても意見が分かれる。

学校教育の中で、明治維新以降の歴史にあまり触れないのは、日本人の一人一人が意識的・無意識的に持つイデオロギーと密接に関係しているからだろう。客観的に事実を辿るつもりでも、なかなかそのようにはできない。

そうしたことは現代史だけかと私は思っていたのだが、古代史についても起こるらしい。
最近、『古事記』や『日本書紀』で語られる日本の始まりについていろいろと考える中で、自分の無知を思い知ると同時に、それが私だけのことでないらしいこともわかってきた。

日本の国土の生成が伊弉諾(イザナギ)と伊邪那美(イザナミ)の「国生み」によることは、「記紀」で共通している。
しかし、その後の展開は全くと言っていいほど異なっている。

『古事記』では、イザナミは火の神カグツチを産んだあと、火に焼かれて死に、黄泉の国に行く。
イザナギは妻を追ってその国に行き、ウジ虫にたかられている妻の姿を見てしまい、妻に恥をかかせる。そのためイザナミは醜女(しこめ)や兵士たちに夫を追跡させ、最後は自分でも追いかける。そして二人は黄泉比良坂(よもつひらさか)で言い争いをし、イザナギは生者の国に戻り、イザナミは死者の国に留まる。

それに対して、『日本書紀』では、イザナミが命を落とすこともなく、従って黄泉の国の挿話もない。二人は国生みの後、神々を生み、さらには自然の事物を生む。

このように、「記紀」と一括して呼ばれることはあっても、二つ書物の中で二人の関係は全く違っている。

そんなことを知った後で、伊弉諾神社のある淡路島の観光ガイドのホームページを見ていたら、面白いことに気づいた。

『古事記』・『日本書紀』の冒頭「国生み神話」に登場する、国生みの大業を果たされた伊弉諾尊(イザナギ)と伊弉冉尊(イザナミ)の二柱をお祀りする神社です。(中略)
『古事記』・『日本書紀』には、国生みに始まるすべての神功を果たされたイザナギ尊が、御子神である天照大御神に国家統治の大業を委譲され、最初にお生みになられた淡路島の多賀の地に、「幽宮」を構えて余生を過ごされたと記されています。その御住居跡に御神陵が営まれ、そこに最古の神社として創始されたのが、伊弉諾神宮の起源です。(中略)

「夫婦楠」
境内には、イザナギ・イザナミの二神が宿る御神木として、夫婦円満、安産子授、縁結びなどの御利益があると信仰されている樹齢約900年の夫婦大楠があります。
https://www.awajishima-kanko.jp/manual/detail.html?bid=448

確かに、『古事記』でも『日本書紀』でも、二人の神が最初に生み出した島は淡路島であり、その点で問題はない。
しかし、イザナギが隠れたのは、『日本書記』では淡路島。他方、『古事記』では「近江の多賀」。「記紀」の記述は異なっている。
それにもかかわらず、二つの書物の区別をしないのは、結局のところ、国生みという大きな枠組みで全てを括ってしまっているからだろう。

「近江の多賀」に関しては、滋賀県にイザナギ、イザナミを祀る多賀神社がある。
神社のホームページを見ると、次のように書かれている。

古くから「お多賀さん」の名で親しまれる滋賀県第一の大社です。
日本最古の書物「古事記」によると、この二柱の大神(イザナギ、イザナミ)は神代の昔に、初めて夫婦の道を始められ、日本の国土、続いて天照大神をはじめとする八百万(やおよろず)の神々をお産みになられました。
 生命の親神様であることから、古く「延命長寿・縁結び・厄除け」の神様として信仰を集め、鎌倉時代から江戸時代にかけては、武家や民衆にも信仰が広まり、多賀大社の分祀社は全国239社を数えます。
http://www.tagataisya.or.jp/about/

『日本書記』への言及はなく、『古事記』のみ。
それにもかかわらず、夫婦円満や延命長寿とは正反対の黄泉のエピソードに言及がないだけではなく、イザナギの最後の地という記述もない。そこで、なぜ近江にイザナギ、イザナミを祀る神社があるのかはわからない。

さらに面白いことに、淡路島の伊弉諾神社と同様、縁結びとか夫婦円満が御利益としてあげられている。
『古事記』の物語では、生者の国と死者の国の境を確定するほどの争いをした二人を、どうやったら夫婦円満の象徴にできるのだろう?

その疑問を晴らそうと思い、淡路島の伊弉諾神社のホームページを見ると、境内に「せきれいの里」が作られ、次のような説明がなされていた。

伊弉諾神宮は古事記や日本書紀にもその創祀の起源が記され、日本で最初の夫婦神「イザナギノミコト・イザナミノミコト」の二神を祀る最古の神社です。そして古くより「鶺鴒(せきれい)」は男女和合へといざなう御神鳥として崇められ、その由来から  伊弉諾神宮境内に「せきれいの里」が誕生しました。
https://kuniuminoshima.jp/

セキレイが男女の和合を誘う鳥という話は、『日本書記』の一つの挿話に由来する。
それは本文にあたる「本書」ではなく、異文にあたる「一書」の一つの中で語られるもの。イザナギとイザナミは国生みの際、交わろうとするのだがその術を知らなかった。

時に鶺鴒(せきれい)ありて、飛び来たりてその首尾(かしら)を揺(うごか)す。二柱の神、見(みそなわ)して学(なら)ひて、すなわり交(とつぎ)の道を得つ。(『日本書記』)

要するに、セキレイの交尾の様子を見て、二柱の神は交わる術を学んだと記されている。
従って、イザナギとイザナミを「出産」の守り神と見なすのであれば、それなりに理解できる。
しかし、夫婦円満とは別の話だ。

そこで、『日本書記』をもう少し探してみると、イザナギ、イザナミが自然の事物や、天照大御神、スサノウを生んでいく場面を語る「本書」に付された「一書」(第10の1書)に、黄泉の国の挿話があり、しかもイザナミとイザナミが和解することをほのめかす部分がある。

妻イザナミに追われ坂まで逃げてきたイザナギは、「私が始めに親族(夫婦)であるお前のために悲しみ、お前を慕ったのは、私が弱かったからだ。」と告白する。と、その時、突然、二人の神が姿を現す。

泉守道者(よもつちもりびと)が言った。「伊弉冉尊(イザナミノミコト)からのお言葉があります。『私はあなたとすでに国を生みました。この上どうして、さらに生むことをお求めになるのでしょうか。私はこの国に留まります。ご一緒にここを去ることはできません。』とおっしゃっております。」
 その時、菊理媛神(くくりひめのかみ)が、何か言った。伊奘諾尊はその言葉を聞き、賞賛した。そして、その場を去った。(『日本書記』現代語訳)

泉守道者(よもつちもりびと)は、泉平坂(よもつひらさか)の守り神のような存在。
その神は、妻の言葉を夫に伝える。

菊理媛神(くくりひめのかみ)は、「締めくくり」を暗に示す神。
何を言ったのか記されていないのだが、しかしイザナギは彼女の言葉に納得し、坂を去り、生者の世界に戻る。

その展開から、二人の伝達者を通して伝えられたイザナミの言葉にイザナギが納得し、その場を去っていくことがわかり、その意味で、二人が和解したのだと見なされる。
菊理媛神がイザナギとイザナミを和解させたという説は、その部分に由来する。

従って、これらの神々が和合や縁結びの神などとして祀られるのは、『日本書記』のこのわずかな記述によっていることになる。

。。。。。

こんなふうにして、私は、学校教育の中で『古事記』と『日本書記』の関係や本質的な違いを教えられることもなく、それらを真面目に読んだこともなかったために、せっかく神社仏閣や歴史的な建造物を訪れても、そこに掲げられた案内の内容をあまり理解することもなく過ごしてきたことに、遅まきながら気づいたのだった。


そんな反省も含めて、なぜ日本では学校教育の中で、明治維新以降の歴史を教育システムの中にしっかりと組み込んでいないのか、8月15日の今日、考えてみたい。

1951年に出版された『明治維新』の冒頭、著者の遠山茂樹は、日本の近代史の研究が遅れている理由の一つについて、次のような点を指摘している。

基礎資料が十分に公開されなかったこと。公開された少数のものも、多くは、学界の公正な史料批判を受けることなく、史料所有者の側から一方的に編纂して与えられ、そこに作為、ないし任意の選択が加えられた疑いがあっても、それを学問的に検討する便宜をもたなかったこと。(遠山茂樹『明治維新』)

こうした点は現在ではかなり改善されているのかもしれないが、しかし、イデオロギーを離れ、歴史を歴史として検討し論じる困難はほとんど変わっていないのではないかと思われる。

例えば、1910(明治43)年の出来事をどの名称で呼ぶのかだけでも、問題を引き起こすことになる。
日本の歴史では、一般的にその事件は「韓国併合」と呼ばれる。そして、その「併合」が韓国の近代化を進めたと評価する声がある。
他方、実質的に言えば、それは日本による韓国の「植民地化」でもある。

それ以前、1895(明治28)年には、台湾が清朝から日本に「割譲」された。それ以降台湾は日本に統治されることになるが、「併合」や「植民地化」という用語は用いられない。

このように書いただけで、いわゆる右翼的および左翼的な思想を持つ人々からは、相反する批判的な声が寄せられる可能性がある。
その中心にあるのは天皇制の問題であり、明治維新以降の日本政府が、新しい政治体制として、武家政治の基礎であった封建制から、近代的な国家運営のための議会制度と同時に、天皇を中心に据えた「国体」の思想を国民の間に浸透させることに成功したからだと考えられる。

そこで、戦争に関して論じることは、天皇の戦争責任をどのように考えるかという問題に直結し、イデオロギーが、ほぼ無意識的に、議論のベースとなってしまう。

具体的に言えば、「併合」か「植民地化」かという用語の選択だけで、すでに戦争責任の問題に直結し、それが天皇に遡り、多くの日本人の琴線に触れることになりかねない。

その結果、現代の日本では、司馬遼太郎に代表されるような作家による、ある人物たちをヒーローにした心地よい歴史物語は好まれるが、事実としての歴史を事実として理解しようとする試みは、結局のところイデオロギーに基づく批判に晒される状態になってしまう。

一つだけ具体的な例を挙げてみる。
私の無知ゆえにこれまで全く知らなかったことがある。
大正天皇の母親は、側室の柳原愛子。正妻である昭憲皇太后(しょうけんこうたいごう)ではなかった。
現在の天皇の後継をどのようにするかという議論の際、大正天皇の例を持ち出したりすれば、大顰蹙を買うに違いない。それは、歴史的な事実がそれとして語られることがひどく難しく、強い心理的な反応を引き起こすことを示す恰好の例となるだろう。

こうした問題が、現代史だけではなく、古代史に対する立場にまで影響を及ぼしているらしい。そのために、意識的、無意識的な自分の姿勢に適合する説を受け入れ、それ以上には先に進めない慣習が成立しているのではないのだろうか。

映画「オッペンハイマー」をめぐる一連の動きに関しても、日本側の敗戦受諾とどのような関係であったのか、イデオロギーに左右されない事実が明らかになればと思ったりもする。

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