川端康成「美しい日本の私」 大江健三郎「あいまいな日本の私」 日本と世界をつなぐ回路

1968(昭和43)年、日本人作家として初めて川端康成がノーベル文学賞を受賞し、12月12日、ストックホルムのスウェーデン・アカデミーで、「美しい日本の私 ー その序説」と題する授賞記念講演を行った。

その際、川端は日本語で講演を行い、エドワード・サイデンステッカーが同時通訳した。その内容は、平安時代から鎌倉時代を中心とし、禅の精神性に裏付けられた日本的な美を紹介するものだった。

1994(平成6)年、大江健三郎がノーベル文学賞受を受賞し、二人目の日本人作家として、12月7日、「あいまいな日本の私」と題した受賞記念講演を行った。

講演の題名からも推測できるように、大江は「美しい日本の私」を念頭に置き、川端は「独自の神秘主義を語った」のだと見なし、日本人以外の人々だけではなく、現代の日本人との回路さえ閉じたものだとの考えに立ち、大江的な視点で、回路の開いた講演を目指したものだった。
そのためなのか、大江は英語で聴衆に語り掛けた。

この違いは、まず第1に、ノーベル賞の受賞理由に由来するものであり、二人の作家はその期待に応えようとしたといえるだろう。
川端の受賞理由は、「日本人の心の精髄を優れた感受性で表現する、その物語の巧みさ」。
大江の受賞理由は、「詩的な言語を使って、現実と神話の入り交じる世界を創造し、窮地にある現代人の姿を、見るものを当惑させるような絵図に描いた」というもの。
川端に期待されていたのは、「日本人の心の精髄」、大江に期待されていたのは、日本人という限定された範囲ではなく、「窮地にある現代人の姿」だったことがわかる。

大江はこの前提に立った上で、川端の描いた「美しい日本」では「世界」に通底しないとあえて言う姿勢を見せることで、「個人的な体験」から始めながら「普遍」へと至る道を示そうとしたのだった。

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ここでは、現在の時点で私たちが「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」を読み直すことで、どのようなことを見出しうるのか考えていくことにしよう。

(1)二つの文学観

二人の日本人作家のノーベル賞受賞記念公演の最大の違いはどこにあるのか?

川端が日本の美について語る際、そこには、作品の背景となる社会に対する意識が欠けているといっていい。その意識とは、平安時代や鎌倉時代の社会に対するものだけではなく、川端康成が執筆活動をし、講演を行う戦後の日本に対するものでもある。
彼が言及する墨絵、華道、茶道、枯山水、陶芸、王朝の物語や随筆、それらを貫く美意識として名指されるわびやさび、妖艶、幽玄、余情などが語られる中、美はそれ自体で存在するかのような印象を受ける。

また、その中心にある精神性として、禅に言及し、次のように説明する。

 禅宗には偶像崇拝はありません。禅寺にも仏像はありますけれども、修行の場、坐禅して思索する堂には仏像、仏画はなく、経文の備えもなく、瞑目して、長い時間、無言、不動で坐っているのです。そして、無念無想の境に入るのです。「我」をなくして「無」になるのです。この「無」は西洋風の虚無ではなく、むしろその逆で、万有が自在に通う空(くう)、無涯無辺、無尽蔵の心の宇宙なのです。(川端康成「美しい日本の私」)

川端の講演で聴衆に最も印象を与えたという、「一輪の花は百輪の花よりも華やかさを思わせるのです。(the single flower contains more brightness than a hundred flowers.)」という言葉も、禅の精神によって理論付けされている。

大江健三郎は、こうした禅の精神に基づく美意識を「独自の神秘主義」と呼び、それらは不立文字、つまり言葉で語りえないものであり、それだからこそ閉じた言葉であり、理解されることも、共感されることも難しいと断じた。

しかし、大江が「あいまいな」という形容詞を使う時、彼が批判の対象としているのは、実はこうした神秘主義である以上に、川端の文学観、芸術観、美意識が、第二次世界大戦後の日本のあり方をまったく反映していないことにある。

戦後の日本の状況について、大江は次のように認識を示す。

 もしできることなら、私はイェーツの役割にならいたいと思います。現在、文学や哲学によってではなく、電子光学や自動車生産のテクノロジーゆえに、その力を世界に知られているわが国の文明のために。また近い過去において、その破壊への狂信が、国内と周辺諸国の人間の正気を踏みにじった歴史を持つ国の人間として。
 このような現在を生き、このような過去にきざまれた辛い記憶を持つ人間として、私は川端と声をあわせて、「美しい日本」ということはできません。(中略)
 国家と人間をともに引き裂くほど強く、鋭いこのあいまいさ(アムビギュイテイー)は、日本と日本人の上に、多様な形で表面化しています。日本の近代化は、ひたすら西欧にならうという方向づけのものでした。しかし、日本はアジアに位置しており、日本人は伝統的な文化を確乎として守り続けもしました。そのあいまいな(アムビギュイテイー)進み行きは、アジアにおける侵略者の役割にかれ自身を追い込みました。また、西欧に向けて全面的に開かれていたはずの近代(モダーン)の日本文化は、それでいて、西欧側にはいつまでも理解不能の、またはすくなくとも理解を渋滞させる、暗部を残し続けました。さらにアジアにおいて、日本は政治的にのみならず、社会的、文化的にも孤立することになったのでした。(大江健三郎「あいまいな日本の私」)

大江がここで口にする「あいまいさ(アムビギュイテイー)」という言葉は、伝統と近代化、文明の西欧化とアジアに位置するという地理的な条件、西欧に開かれているはずの近代日本の文化と西欧にとって不可解であり続ける日本文化、こうした相反する二つの側面を合わせ持つ戦後日本の文化的状況を指し示している。

川端の「美しい日本」は、近代化を経た日本を意識せず、禅に代表される伝統的な美を語るというだけではなく、アジア諸国に痛みを与えた近代日本の「狂信」も考慮に入れていない。
大江の非難はまさにこの点にかかわっている。

大江は、1993年にニューヨークで行った「回路を閉じた日本人としてではなく」と題された講演の中で、その点をより明確に語っている。

さて川端さんから30年以上も後輩の作家である私には、「美しい日本」という言葉をはっきりと発することはできません。日本の古典の世界の歌人や禅僧の美意識に自己同一化することができない、という点で、まず、そうです。さらに、私が生きてきた同時代の日本は、やはり美しい日本と呼ぶことはできない、と感じるからです。(大江健三郎「回路を閉じた日本人としてではなく」)

大江は決して「無」を中心とした日本の美意識自体を否定しているわけではない。彼の生きる時代、つまり戦後に日本では、戦争という現実の体験も考慮し、罪の意識を背負うことが必要だと考えているのだ。
そして、その点が、「美しい日本の私」からは、すっぽりと抜け落ちている。

こうした相違によって、二つの芸術観が明らかになってくる。
川端康成は、日本的な美を、それが生成した時代や、観賞する時代に関連付けることなく、自立的なものとして語った。
大江健三郎にとっては、芸術、少なくとも小説は、同時代との関係の中で生み出され、同時代の人間に直接的な働きかけをするものである必要がある。
大江の用いた「癒す」という言葉が、小説と人間の関係を端的に示している。

その二つのどちらが優れているとか、こうあるべきだと考える必要はないし、異なる芸術観は決して排他的ではない。


(2)「美しい日本の私」の回路は閉じているのか?

「美しい日本の私」の最後、川端は西行の和歌や歌物語に触れた後、日本的な「無」と西欧の「虚無」の違いに触れて、次のように言う。

日本、あるいは東洋の「虚空」、無はここにも言いあてられています。私の作品を虚無と言う評家がありますが、西洋流のニリヒズムという言葉はあてはまりません。心の根本がちがうと思っています。(川端康成「美しい日本の私」)

Here we have the emptiness, the nothingness, on the Orient. My own works have been described as works of emptiness, but it is not to be taken for the nihilism of the West. The spiritual foundation would seem to be quite different. (translation by E. G. Seidensticker)

大江は、この一節を取り上げながら、「あいまいな日本の私」においては、直接の批判を避けている。
しかし、その後にニューヨークで行った講演「回路を閉じた日本人としてではなく」では、「川端さんは西欧の聴衆を前にして語りながら、じつは西欧、アメリカに向けて語りかけている意識はなかったのではないか?」という問いを発し、「川端さんは現実の世界、現実の人間をシャットアウトしている」ことの証とした。

川端は、日本を含めた東洋の「虚空」、「無」は、西洋の「虚無」、「ニヒリズム」=虚無主義とは根本が違うと明言する。
大江はその言葉を捉え、根本的に違うのだから、西洋と東洋・日本をつなぐ回路がないし、川端の講演ではそれらをつなぐ回路が出来上がらないと主張したのだった。

しかし、西欧の「虚無」と日本の「無」が違う価値を持つことは、当たり前のことにすぎない。

虚無の英訳として使われているemptinessやnothingnessは、「空(から)であること」あるいは「何もないこと」を意味し、その対極にある「存在」と対比的に理解される。そしてそこでは、「存在」に絶対的な価値が置かれ、「非存在」(=欠如、無、空、虚無)は否定的に捉えられる。

川端が、自分の作品は「虚無」ではないと言う時、彼の頭にあったのは西欧的な意味での「虚無」であり、「西洋流のニヒリズム(=虚無主義)」という表現へとつながっていく。

それだからこそ、あえて「空」や「無」に対して、「日本、あるいは東洋の」という限定を付けているのだ。もし西欧の聴衆を意識していないのあれば、単に「無」と言えばいいはずである。
日本の聴衆であれば、「無」といっただけで、それが決して何もない否定的なものというだけではなく、最高度に肯定的な価値を持つことがあることを知っているからだ。

従って、川端は明らかに西欧の聴衆を意識していたのであり、「回路が閉じている」という大江の批判はあたらない。

では、「心の根本」の違う日本的あるいは東洋的な「無」が、西欧の人々には理解不可能なのだろうか?

決してそうではないことの例として、19世紀後半のフランスの詩人ステファン・マラルメの例を挙げてみよう。

マラルメは、1866年4月、友人に宛てた手紙の中で次のように、詩作の苦悩を伝えた。

不幸なことに、詩句をこれほどまでに掘り下げたために、ぼくは二つの深淵と出会い、絶望しています。一つの深淵は「虚無(le Néant)」です。ぼくは仏教を知ることなく、そこに到達したのです。(マラルメ、アンリ・カザリス宛ての手紙、1866年4月28日)

ここで虚無と訳した言葉は、le Néant. この手紙を書いた時点でのマラルメにとって、le Néantは彼を深く絶望させるものだった。
その意味で、「虚無」は「存在」の対極に位置し、空虚な深淵でしかなかった。

しかし、同じ友人に宛てた7月の手紙では、「虚無」に対して正反対の価値付けが行われる。

ぼくは1ヶ月前から、「美学」の最も純粋な氷河の中にいます。そして、「虚無(le Néant)」を発見した後で、「美(le Beau)」を見出しました。ぼくがどれほど明晰な高みに至ったのか、君は想像することができないでしょう。(マラルメ、アンリ・カザリス宛ての手紙、1866年7月13日)

ここで、「虚無」は、マラルメが目指す「美」を見出す場であり、しかもそれは「最も明晰な高み」だという認識がなされる。
そして、前の手紙の「深淵」からこの手紙の「高み」への転換は、「虚無」に対する価値付けの逆転をはっきりと示している。
井筒俊彦の言葉を借りれば、「虚無体験には、思いもかけず、新しい存在肯定へ向っての窓が開いていた」ということになる。(『意識と本質』)

このマラルメの例を見るだけで、西欧においても、「虚無」に肯定的な価値を見出す思考が可能であることがわかる。
従って、川端康成の講演が決してストックホルムの聴衆たちに理解不可能だったということはなく、世界中の人々に日本的な美を伝える回路が閉じていたわけではないことも理解できる。

実は川端も、『新古今和歌集』を、西洋の象徴主義の詩と関連付けている。

(前略)鎌倉初期の勅撰和歌集『新古今集』(1205)は、平安の『古今集』の技巧的な歌法をさらに進めて、言葉遊びの弊もありますが、妖艶・幽玄・余情を重んじ、感覚の幻想を加え、近代的な象徴主義詩に通うのであります。(川端康成「美しい日本の私」)

In the eight of the imperial anthologies, the Shinkokinshu of the early thirteenth century, the technical dexterity of the Kokinshu was pushed yet a step further, and sometimes fell into mere verbal dalliance ; but there are added elements of the mysterious, the suggestive, the evocative ant infererential, elements of sensuous fantasy that have something in common with modern symbolism poetry. (translation by E. G. Seidensticker)

大江健三郎は、『存在と虚無(le néant)』の著者ジャン・ポール・サルトルに傾倒していたことからもわかるように、20世紀における「虚無」に関する哲学の展開を知らないわけがないし、マラルメに代表される象徴詩に関する芸術論にも通じていたはずである。そのことに疑う余地はない。

そうした中で、あえて川端の意識の回路が閉じていたと主張するとしたら、その理由はどこにあったのか?

推測するに、川端を否定することではなく、先行する川端の講演と対比させることで、大江自らの方法論をより明確に浮き上がらせようとした、ということではないだろうか。

大江はあくまでも個人的な経験から出発する。
少年時代の読書体験、障害を持つ息子である光の言語の発見と音楽、世界中の作家たちとの親近性、恩師である渡辺一夫と彼の研究対象であるフランソワ・ラブレーのユマニスムなど、すべてを自らの体験を通して語る。
そして、それらを、すでに見てきた近代日本の歴史と関連付けることによって、「周縁の日本の、さらに周縁の土地に生まれ育った私」が、「そこに根ざしながら普遍性にいたる、表現の道」を描き出そうとした。
だからこそ、大江は、次のような祈願を表明して、講演を終えたのだった。

そして私は、なおよく検証できてはいないものであれ、この信条にのっとって、20世紀がテクノロジーと交通の怪物的な発展のうちに積み重ねた被害を、できるものなら、ひ弱い私がみずからの身を以て、鈍痛で受けとめ、とくに世界の周縁にあるものとして、そこから展望しうる、人類全体の癒しと和解に、どのようにディーセントかつユマニスト的な貢献がなしうるものかを、探りたいとねがっているのです。(大江健三郎「あいまいな日本の私」)

大江は、言葉による芸術=小説を通して、社会とつながり、社会に働きかけ、日本だけではなく、人類全体に語りかけ、なんらかの貢献をしたいと考えていた。
この講演がその意図を宣言するものであったとすれば、川端が日本の美を世界に伝えようとした姿勢とは明らかに異なっているようにみえる。

そして、大江のそのような意図を理解すれば、川端についての次の言及にも納得がいく。

自分が根本的に東洋の古典世界の禅の思想・審美感の流れのうちにあることを認めながら、しかしそれがニヒリズムではないと、とにく念を押すことで、川端は、アルフレッド・ノーベルが信頼と希望を託した未来の人類に向けて、おなじく心底からの呼びかけを行っていたのです。(大江健三郎「あいまいな日本の私」)

ここで大江は、川端の回路を自らの手で開き、日本あるいは東洋の思想や美意識を、人類全体へと繋げる。
その意味では、川端が『新古今』の和歌と象徴主義の詩とを連結した細い回路を、大きく拡げてみせたと言っていいだろう。


繰り返すことになるが、ここまでで読み取ろうとしたのは、「美しい日本の私」と「あいまいな日本の私」の優劣ではない。
川端康成と大江健三郎という二人の作家の二つの文学観を読み取ることで、異なる視点を理解することができるし、それらの融合点を見出す可能性もある。

私たちは、二つのノーベル文学賞受賞記念公演を通して、川端による日本文学の美の講義を受け、大江による世界文学の一つの意義に関する講義に立ち会うことになる。
そして、一般論から入っても、個人的経験から入っても、どこかで通底するという視点に立つことで、どちらか一方だけを肯定し、他方を排除するのではなく、両者からより多くの富を取り出すことができるに違いない。


参考:

川端康成『美しい日本の私 その序説』(サイデンステッカー英訳)、講談社現代文庫。

英語であれば、次のサイトでも読むことができる。
https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1968/kawabata/facts/

川端康成のノーベル賞受賞に関する研究について。
大木ひさよ「川端康成とノーベル文学賞 スウェーデンアカデミー所蔵の選考資料をめぐって」
https://archives.bukkyo-u.ac.jp/rp-contents/KG/0021/KG00210L042.pdf

大江健三郎『あいまいな日本の私』岩波新書。
(「回路を閉じた日本人ではなく」を含む)

英語版
https://www.nobelprize.org/prizes/literature/1994/oe/lecture/

講演の内容全てを聞くこともできる。
https://www.youtube.com/watch?v=c1ICKI48bBs&t=2s

大江健三郎が行ったストックホルムのスウェーデン・アカデミーでの講演の模様の一部を、以下のyoutubeビデオで見ることができる。

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