ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 2/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の2番目のソネット(4/4/3/3)は、主イエスの独白によって構成される。従って、「私(je)」が主語であり、一人称の語りが続く。
言い換えると、三人称の物語ではなく、個人的な体験談ということになる。

第1のソネットで明かされた神の死の「知らせ(la nouvelle)」を受け、「私」は確認のため、神の眼差しを求め、宇宙を飛び回る。
その飛翔の様子は、すでに見てきたジャン・パウルの「夢(le songe)」 の記述をベースにしている。しかし、ここでも前回と同じように、最初は読者がそうした知識を持たないことを前提し、詩句を解読していこう。

II

Il reprit : « Tout est mort ! J’ai parcouru les mondes ;
Et j’ai perdu mon vol dans leurs chemins lactés,
Aussi loin que la vie en ses veines fécondes,
Répand des sables d’or et des flots argentés :

II

主は言葉を続けた。「全ては死んだ! 私はあらゆる世界を駆け巡った。
銀河の道を飛翔し、彷徨った、
はるか彼方まで。生命が、豊かな血管を通して
金の砂と銀の波を拡げていくほど彼方まで。

(朗読は1分から)

(1)知識を前提にしない読解

「全ては死んだ(Tout est mort)」。
この最初の言葉が、以下に続く「私はあらゆる世界を駆け巡った(J’ai parcouru les mondes)」という行為によって確認されることになる。

「私」が飛翔(le vol)するのは、chemins lactés(乳の道)の中。
lactée(乳の)という言葉はしばしば voie lactéeという表現として使われ、「天の川」を意味する。英語の the Milky Way。
従ってchemins lactésは、天の川を含む銀河系の宇宙を連想させる。

それがどんな様子のものかは、はるか彼方( loin)に広がる同様のものと比較することで、具体的になる。
ここで興味深いことは、彼方にあるものが、「死」とは反対の詩句で綴られていること。
「生命(la vie)」に言及され、「血管(les veines)」は「肥沃で(fécondes)」、そこを流れるのは、「金の砂(des sables d’or)」と「銀の波(des flots argentés)」。
しかも、生命が動きを示す動詞 répand(拡げる)は直説法現在形に置かれ、普遍的な現在、つまり常に変わらない状況を指し示している。

他方、「私」の飛翔に関しては、失われた(j’ai perdu)と意味も否定的であるし、時制も複合過去で語られる。

この対比がどのような意味を持つのかを考えることは、詩の理解の上で大切な鍵となる。

(2)ジャン・パウルの「夢」に基づく読解

スタール夫人の翻案でも、1830年に「パリ評論」に掲載された翻訳でも、キリストが死者たちに語る宇宙巡りは、« J’ai parcouru les mondes. »という言葉で始まる。
他方、”天の川”に関する言及は「パリ評論」の翻訳にしかない。

« J’ai parcouru les mondes, j’ai gravi jusqu’au soleil, et j’ai traversé toutes les plaines du ciel par les voies lactées ; mais il n’est pas de Dieu. »
( « La Dernière Heure. Vision », Revue de Paris, tome 16, 1830.)

「私はあらゆる世界を駆け巡った。太陽まで駆け上がった。天の川を通り、天空のあらゆる平原を横切った。しかし、神はいない。」
(「最後の時間。幻影」『パリ評論』1830年、第16巻)

ネルヴァルはこの翻訳に従い、天の川を連想させるchemins lactésを使ったのだと考えられる。

それと同時に、「横切った(j’ai traversé)」という表現に対して、「私は失った(j’ai perdu)」という言葉を使い、銀河系の宇宙の中を飛び回りながら迷子になったイメージがネルヴァルの創作であることも確認することができる。

その上で、神の死にともなう世界の荒廃とは正反対である「生命」の流れを感じさせるイメージが、「オリーブ山のキリスト」には付け加えられている。

そのことは、「死」と「生」の対比にこそネルヴァルの意図が秘められているという推測を、さらに強めることになる。


第2四行詩でも、荒廃した世界が描き出される。

« Partout le sol désert côtoyé par les ondes,
Des tourbillons confus d’océans agités…
Un souffle vague émeut les sphères vagabondes,
Mais nul esprit n’existe en ces immensités.

至るところで地面は荒れ果て、潮の流れに洗われ、
荒れ狂う大海原の混沌とした暴風雨に晒されていた・・・。
一つのぼんやりとした息吹が、あちらこちらに彷徨う天体を動かしている。
しかし、いかなる生命も、それらの巨大な空間に存在してはいない。

ジャン・パウルの翻案・翻訳では「永遠の嵐(l’éternelle tempête)」という言葉は出てくるが、それについての細かい記述はない。
従って、この詩節の詩句は、ネルヴァルの想像力が描き出したイメージだと考えられる。

「死」に属するのは、「荒れた(désert)」、「潮の流れ(les ondes)」、「混沌とした暴風雨(Des tourbillons confus)」、「荒れ狂う大海原(océans agités)」、「彷徨う天体( les sphères vagabondes)」。
そこに、「いかなる生命も存在していない(nul esprit n’existe)」という認識が付け加えられる。その言葉は、「全ては死んだ(tout est mort)」を言い換えたもの。

そうした中で、生命の動きを示す言葉がそっと挿入される。
「一つのぼんやりとした息吹が動かす(Une souffle vague émeut …)」。

ネルヴァルはその対比を際立たせるために、次の行で、espritという言葉を使ったのではないかと思われる。
一般的にespritは「精神」と対応する言葉だと考えられるが、「 生命の息吹 (souffle vital)、生命原理 (principe de vie)」が元来の意味だった。つまり、souffle。
従って、un souffleとnul espritは、存在と不在という対比を明確に示していることになる。

神が不在で、全ては死んだにもかかわらず、なんらかの息吹があるのだろうか?
ここでも、第1詩節に続き、そんな疑問を抱くことになる。


ソネットの後半でもさらに、神なき世界の情景が描かれる。

« En cherchant l’œil de Dieu, je n’ai vu qu’un orbite
Vaste, noir et sans fond, d’où la nuit qui l’habite
Rayonne sur le monde et s’épaissit toujours ;

« Un arc-en-ciel étrange entoure ce puits sombre,
Seuil de l’ancien chaos dont le néant est l’ombre,
Spirale engloutissant les Mondes et les Jours !

神の眼差しを探し求めたが、私が見たのは、目の窪みだけだった。
巨大で、黒く、底なしの窪み。そこに住まう夜が、
世界の上に広がり、絶えず闇を濃くしている。

奇妙な虹が、その暗い井戸を囲む。
それは昔の混沌の入り口。虚無は混沌の影。
その螺旋階段が、あらゆる「世界」とあらゆる「日々」を呑み込んでいる!

(1)知識を前提にしない読解

第1三行詩では、「神の目(l’œil de Dieu)」から「目の窪み(un orbite)」が導き出される。それは、ぽっくりとあいた骸骨の眼球を連想させ、神の死からの連想からいえば当然かもしれない。

そこでは、「夜の闇(la nuit)」が、「絶えず濃くなり続ける(s’épaissit toujours)」。つまり、闇がますます暗さを増す。

第2三行詩に進むと、目の窪みが「この井戸(ce puits)」と呼ばれる。
その井戸の奥には「古い混沌(l’ancien Chaos)」が横たわり、「虚無(le néant)」とはその「影(l’ombre)」だと明かされる。
別の視点からすると、その井戸は奥へと続く「螺旋階段(spirale)」であり、そこに「世界(les Mondes)」と「日々(les Jours)」が吸い込まれていく。
現代の用語を使えば、ブラックホールといえるだろうか。

その闇の中に、なんらかの違和感をもたらす要素が含まれている。それは、井戸の周りを取り囲む「奇妙な虹(Un arc-en-ciel étrange)」。
それがどのような意味を持ち、どのような役割を担っているのか、この部分からだけでは理解できない。

(2)ジャン・パウルの「夢」に基づく読解

宇宙の彼方に飛翔して出会うのは、ブラックホールのような闇。そうしたイメージは、ジャン・パウルの「夢」に描かれたもの。

a. 目の窪み(un orbite)
目の窪みに関して、スタール夫人の翻案を読んでみよう。

Relevant ensuite mes regards vers la voûte des cieux, je n’y ai trouvé qu’un orbite vide, noir et sans fond. L’éternité reposait sur le chaos et le rongeait et se dévorait lentement elle-même ;
(Madame de Staël, De l’Allemagne, )

次に、天空の丸天井の方に目を上げ、私がそこで見たものは、空洞で、黒く、底なしの窪みだけだった。永遠が混沌の上に横たわり、浸食し、自らをゆっくりと呑み込んでいた。
(スタール夫人『ドイツについて』

この引用から、スタール夫人の« qu’un orbite vide, noir et sans fond »という表現を、ネルヴァルがほぼそのまま踏襲したことを確認できる。

vide(空っぽの)をvaste(巨大な)に変更したのは、前の詩節の最後に置かれた「巨大な空間(immensités)」からも連想できるように、宇宙の広大さを印象付けるために違いない。

時間的に言えば、それは「永遠(l’éternité)」。それが「混沌(le chaos)」の上に横たわり、自らを呑み込んでいくイメージは、ネルヴァルの詩句では、「混沌」と「虚無(le néant)」の結び付き(l’ancien chaos dont le néant est l’ombre)によって表現されている。

b. 虹(arc-en-ciel)

スタール夫人の翻案では虹に触れられないが、1830年の「パリ評論」に掲載された翻訳には出てくる。

Mais je n’ai entendu que la tempête éternelle, que personne ne gouverne, et l’arc-en-ciel brillant s’élevait à l’ouest, sans soleil qui le créât, et il tombait goute à goute dans l’abime. Et lorsque je portai mes regards vers l’œil divin, je vis que ce n’était qu’une cavité sans fond qui me regardait, et l’éternité étendue sur le chaos le déchirait et le rongeait.
(« La Dernière Heure. Vision », Revue de Paris, tome 16, 1830.)

私に聞こえるのは、誰も制御できない永遠の嵐だけだった。光輝く虹が西の空にかかっていた。しかし、それを生み出した太陽はなかった。そして、虹は少しづつ深淵の中に落ちていった。私が神の目の方に眼差しを向けたとき、見えたのは底なしの穴だけだった。その穴が私を見つめていた。そして、混沌の上に横たわる永遠が、それを引き裂き、浸食していた。
(「最後の時間。幻影」『パリ評論』1830年、第16巻)

「虹(l’arc-en-ciel)」は最初「光輝いて」見える。しかし、「太陽がなく(sans soleil)」、じょじょに「深淵(l’abime)」の中に落ち込んでいく。その姿は、虚無の世界を強く印象付ける。
つまり、虹は決して希望の印ではなく、神の不在を際立たせるために言及されたのだと考えられる。

その後の展開はほぼスタール夫人の翻案と同様であり、「底なしの穴(une cavité sans fond)」、「混沌」に言及される。

このように見てくると、ジャン・パウルの「夢」では、神の不在は世界の混沌につながり、その混沌が永遠に続く。そこに希望につながるものはない。

その確認から、次のことがわかる。
ネルヴァルはジャン・パウルの描く銀河系の飛翔に基づきながら、「神なき世界の悲惨」とは違う世界観をこっそりと忍ばせようとしたに違いない。

その理由は何か? そして、どのようにして?

(3)ネルヴァルの人生と作品からの読解
  — ゲーテ『ファウスト』とパンテイスム(汎神論) —

キリスト教の世界観において、神を否定することはありえないし、そうすることは背信であり、信仰を捨てることになる。

時代的な背景を考えると、1789年のフランス革命は王権を打ち倒しただけではなく、王権と密接に結びついていたキリスト教の権威も否定することになった。

しかし、1804年のナポレオンの戴冠式がローマ・カトリックの教皇によって執り行われたことに象徴されるように、キリスト教の信仰が再び息を吹き返してくる。
シャトーブリアンの小説の一場面を描いた画家ジロデの「アタラの埋葬」(1808)は、その美しさによってキリスト教への信仰を誘う作品だといえる。

Girodet, Atala au tombeau

その一方で、キリスト教とは異なる世界観も提示された。
例えば、一人の人格化した神を認めず、全ての存在に神を感知するパンテイスム(汎神論)は、古代ギリシアの神々への信仰と結びつくこともあり、大きな影響力を持つようになった。

その代表的な例は、ドイツの作家ゲーテの『ファウスト』。
その第二部で、ファウストは地下の「母たちの国」と呼ばれる古代ギリシアの神話世界に入り込む。1840年、ネルヴァルは、自らの『ファウスト』の翻訳に付けた「序文」の中で、ゲーテの思想は「現代のパンテイスム(panthéisme moderne)」であり、「神は全ての中にいる(Dieu est dasn tout)」と主張した。

しかも、その具体的なイメージを描く際に、上で見てきたジャン・パウルの「夢」における銀河系の飛翔を用いたのだった。
そのことは、無神論のイメージをパンテイスムのイメージへと変換することにつながる。

Comme Faust lui-même descendant vers les Mères, la muse du poète ne sait où poser le pied, et ne peut même tendre son vol, dans une atmosphère où l’air manque, plus incertain que la vague et plus vide encore que l’éther. (…) ; au delà des régions splendides de son paradis catholique, embrassant toutes les sphères célestes, il y a encore plus loin et plus loin le vide, dont l’œil de Dieu même ne peut apercevoir la fin. Il semble que la Création aille toujours s’épanouissant dans cet espace inépuisable, et que l’immortalité de l’intelligence suprême s’emploie à conquérir toujours cet empire du néant et de la nuit.
(Nerval, « Introduction », Fauste de Goethe, 1840)

「母たちの国」へと下ったファウストと同じように、詩人のミューズは、どこに足を置いていいのかわからず、空気が欠乏する大気の中に飛んでいくこともできない。その飛翔は波よりも不確かで、エーテルよりもさらに空虚だ。(中略) カトリックの楽園の光輝く地域のはるか彼方、あらゆる天空を抱きかかえて進むと、さらに遠い遠い所に空っぽの空間がある。神の眼差しでさえ、その終りを見通すことはできない。「創造」が汲みつくしがたい空間の中に花開き続け、そして、崇高で不死の知性が、虚無と夜の帝国を征服しようと絶えず努めているようだ。
(ネルヴァル『ゲーテのファウスト』所収「序文」、1840年)

この一節には、闇が満たす虚無の空間を飛翔する姿が描かれ、「オリーブ山のキリスト」の第2詩節の詩句にも現れる「飛翔(vol)」「空虚(vide)」「神の目(œil de Dieu)」「虚無(néant)」「夜(nuit)」などの単語も共通している。
それはまさに「神なき世界」。

しかし、最後になり、「創造(la Création)」に言及され、「崇高な知性の不死( l’immortalité de l’intelligence suprême)」が虚無の宇宙を征服するという思想が展開される。
こう言ってよければ、「永遠」(不死)が、「混沌」の側から「創造」の側へと移行される。
「神は死んだ」から、「神は全ての中にいる」へ。

そして、この思想が、「生命が、豊かな血管を通して/金の砂と銀の波を拡げていく( la vie en ses veines fécondes, / Répand des sables d’or et des flots argentés)」や、「一つのぼんやりとした息吹が、あちことに彷徨う天体を動かしている(Un souffle vague émeut les sphères vagabondes)」という詩句の根底に、こっそりと込められているに違いない。

。。。。。

その希望は、実はネルヴァルの実生活とも関わっている。

La maison du docteur Blanche

『ファウスト』の二部を含む翻訳を出版したのが1840年。
翌1841年2月、彼は狂気の発作に襲われ、精神病院に入院させられる。
その際の苦しみが、オリーブ山の上でのキリストの苦しみを思い出させたのだろうか。
実際、「オリーブ山のキリスト」の一部は、1841年末の手紙の中に書かれていることが確認されている。

狂気が引き起こした幻覚のイメージが、銀河系の飛翔や「母たちの国」の記述と近いものだったとも考えられる。
もしそうであれば、パンテイスム的な信仰は、神の死にともなう闇の世界に一筋の希望をもたらすものだったはずである。

その視点に立つと、主イエスが一人称で語る内容は、ネルヴァルの独白として解釈できることにもなる。
この点については、後に続く部分でさらに考えを進めていこう。

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