ネルヴァル 「オリーブ山のキリスト」 Nerval « Le Christ aux Oliviers » 3/5 神は死んだ? 近代的な個人の苦しみ

「オリーブ山のキリスト」の三番目のソネットでも、主イエスの独白が続く。

その中で、まず最初に、「運命(Destin)」と「必然(Nécessité)」と「偶然(Hasard)」に対する呼びかけが行われる。

III

« Immobile Destin, muette sentinelle,
Froide Nécessité !… Hasard qui, t’avançant
Parmi les mondes morts sous la neige éternelle,
Refroidis, par degrés, l’univers pâlissant,

III

「不動の「運命」よ、お前は無言の見張りだ、
冷たい「必然」よ!・・・ 「偶然」よ、お前は進んでいく、
永遠の雪に覆われた死の世界の中を、
そして、じょじょに宇宙を冷やし、宇宙は色を失っていく。

(朗読は1分37秒から)

(1)知識を前提にしない読解

「運命」「必然」「偶然」、この3つの繋がりをどのように考えたらいいのか? この詩句だけから理解することは難しい。

「不動の運命(Immobile)」とは、別の言い方をすれば、運命は変えることができないということ。
その運命が「無言の見張り(muette sentinelle)」と呼ばれるのは、運命が人生の運行を定め、それに付き添いながら、人間に対して自らを説明することはない=つまり無言だからだろう。

「必然」と「偶然」は対極の概念。
「必然」とは、必ず然(しか)るべくなること。つまり人間の力で自由に変えることはできない。そのため、「冷たい必然(froide Nécessité)」という表現は自然であり、「運命」に近いものと考えていい。

それに対して「偶然」は、偶々(たまたま)然るべくなること。
因果関係を超えて予期しないことが起こるため、人間が意図的に操作することはできないという点では「必然」と同じだが、不動の冷たさではなく、なんらかの動きが感じられる。

そのためなのか、ネルヴァルは、3つの中で「偶然」だけを取り上げ、動きを感じさせる要素 —「前に進む(s’avançant)」や「冷やすrefroidis」— を付与する。

そして、「偶然」が「宇宙(l’univers)」を冷やすために、宇宙も「色を失っていく、あるいは、青白くなっていく(pâlissant)」。

このように最初の四行詩では、「神の死」の結果もたらされる世界・宇宙の状況が再び描きだされているといえる。
それは、「永遠の雪(la neige éternelle)」の下にある、「死んだ世界(les mondes morts)」だ。

(2)ジャン・パウルに基づく読解

「必然」と「偶然」という言葉を含む一節は、スタール夫人の翻案では取り上げられなかったが、1830年の翻訳では訳出されている。

キリストは、混沌とした天空を見上げながら、次のような言葉を発する。

« Néant silencieux et accablant ! éternelle et glaciale nécessité ! hasard insensé ! quand me briserez- vous avec cet univers? – Hasard, sais-tu toi-même ce que tu fais lorsque tu passes avec les tempêtes à travers les plaines célestes, blanches d’étoiles, dont les lueurs éclatantes te saluent dans ta route?
( « La Dernière Heure. Vision », Revue de Paris, tome 16, 1830.)

「静かでありながら抑圧的な虚無よ! 凍りつような永遠の必然よ! 正気を失った偶然よ! お前たちは、この宇宙とともに、私をこなごなにしてしまうのか? — 偶然よ、お前は、星々で白くなった天の草原を嵐と共に横切る時、自分が何をしているのかわかっているのか? あの輝く光たちは、通りすぎるお前に挨拶しているというのに。」
(「最後の時間。幻影」『パリ評論』1830年、第16巻)

ここでは、「必然」「偶然」とともに、「虚無(Néant)」に対する呼びかけが行われており、ネルヴァルが「虚無」を「運命(destin)」に置き換えたことがわかる。
その意図を正確に理解することはできないが、3項対立から、「運命・必然」対「偶然」という2項対立に還元され、より大きなスポットライトが「偶然」に当たる効果が生み出されている。

そして、キリストが「偶然」に対して語り掛ける話しかける言葉を聞くと、ネルヴァルの詩の中では、宇宙が死へと向かっていく様子が生き生き描き出されていることがわかる。
ジャン・パウルの散文(の翻訳)では、光輝く草原をいったいどうしてしまったのだという問いかけが行われるだけ。
それに対して、ネルヴァルの詩句では、永遠の雪の下、宇宙は冷やされ、色を失っていく。
その姿は、世界の死を予感させるものでありながら、美しい。


第2四行詩になると、「原初の力(puissance originelle)」に対する呼びかけが行われる。

« Sais-tu ce que tu fais, puissance originelle,
De tes soleils éteints, l’un l’autre se froissant…
Es-tu sûr de transmettre une haleine immortelle,
Entre un monde qui meurt et l’autre renaissant ?…

お前は自分のしていることがわかっているのか、原初の力よ、
互いに衝突しあい、光の消えたお前の太陽たちを。・・・
お前は確かに不死の息吹を伝えているのか、
死にゆく世界と、再生する世界の間に?・・・

「原初の力」とは何か? ここでは明かされない。
しかし、それが「不死の息吹(une haleine immortelle)」を発するものであることはわかる。

宇宙・世界の様子を見ると、一方では光を発する惑星(soleils : 太陽)が互いにぶつかり合い(l’un l’autre se froissant)、光が消えてしまう(éteints)。
そのようにして「世界は死んでいく(un monde qui meurt)」。ちょうど「宇宙が色を失う(l’univers pâlissant)」のように。

しかしそれだけではなく、この詩節では、「再生(renaissant)」が予感される。
世界の再生は、「原初の力」の働きによって可能になり、その力が死の世界と再生する世界の間に不死の息吹を「伝達する(transmettre)」。

興味深いことに、「お前は自分のしていることがわかっているのか?(Sais-tu ce que tu fais)」という言葉は、ジャン・パウルにおいては、主イエスが「偶然」に対して問いかけたものだった。
しかし、ネルヴァルの詩句では、「原初の力」に向けられ、「再生」の予告となる。

そのことは、ネルヴァルが神の死を取り上げながら、実は「死と再生」に焦点を当てようとしていることを、密かに明かしている。


続く2つの三行詩において、「私(je)」は再度語りかけを行うが、今度の相手は父なる神。

« Ô mon père ! est-ce toi que je sens en moi-même ?
As-tu pouvoir de vivre et de vaincre la mort ?
Aurais-tu succombé sous un dernier effort

« De cet ange des nuits que frappa l’anathème ?…
Car je me sens tout seul à pleurer et souffrir,
Hélas ! et, si je meurs, c’est que tout va mourir ! »

おお、我が父よ! あなたこそを、私は私自身の中に感じているのでしょうか?
あなたは生き、死を打ち倒す力を持っているのですか?
あなたは、敗れてしまったのでしょうか、最後の働きかけ、

破門された夜の天使の働きかけの下で?・・・
というのも、私はたった一人だと感じ、涙を流し、苦しんでいるからです。
ああ! もし私が死ねば、それは全てが死ぬということです!」

「私」は疑いと苦しみの中にある。

a. 疑い

キリスト教の教義では、イエスと神と聖霊は三位一体であり、イエスは人間であるとともに神でもある。

それに対して、ネルヴァルの描く主イエス=「私」は、自分自身の中に感じている(je sens en moi-m^me )ものが、父である神かどうか問いかける。つまり、確信がなく、疑う。

次に疑うのは、「生きる力(pouvoir de vire)」や「死に打ち勝つ力pouvoir de vaincre la mort」を神が持つかどうか。
この問いは、神の不在が語られることからすれば、正当なものだといえる。

3つ目の疑いは、神が「夜の天使(cet ange des nuits)」との戦いに負けたのではないかということ。
神の不在からすれば、当然の問いだ。
「破門( l’anathème)」された天使、例えば、リュシフェールによって、神は打ち負かされたのだろうか?

b. 苦しみ

それらの疑いに襲われた「私」は、孤独の中で一人苦しむ。

「私」がオリーブ山の上で祈りを捧げている間、弟子である友たちは眠りこけている。
祈りの対象である神は、もしかすると存在せず(Dieu n’existe pas)、死んでいる(Dieu est mort)のかもしれない。
としたら、「私」はこの世にたった一人(tout seul)取り残され、涙し(pleurer)、苦しむ(souffrir)しかない。

そして、絶望にかられ、「もし私が死ねば(si je meurs)」と自らの死に思いをはせる。

こうした「私」の姿は、ロマン主義的な、つまり人間の弱さや悲しみを背負ったイエス・キリスト像だといえる。


Émile Signol, Folie de la fiancée de Lammermoor

ネルヴァルが「オリーブ山のキリスト」を構想したのは、1841年に精神病院に入院させられた時、あるいはその直後と推定されている。
とすると、孤独の中で疑いに苛まれ、苦しみ涙する姿は、ネルヴァルの自画像といえるかもしれない。

そして、これまでに読んできた3つのソネットの中で、かすかにではあるが生命の息吹や再生する世界に言及された。
そのことは、キリスト教の神に変わるものとして、「原初の力(puissance originelle)」とでも呼びうるものを、ネルヴァルが希求していたことを示すサインかもしれない。

さらに付け加えると、ここで描かれるキリスト像は、単にネルヴァルの自画像というだけではなく、19世紀を超えて、現在にまでつながる人間の姿を写す鏡であるとも考えられる。
「オリーブ山のキリスト」の冒頭の詩句を思い出すと、そのことに納得がいくかもしれない。

Quand le Seigneur, levant au ciel ses maigres bras
Sous les arbres sacrés, comme font les poètes,

主は、痩せ細った腕を天に向けて上げ、
神聖な木々の下で、ちょうど詩人たちのように、

主と同じように痩せた腕を天に差し出すのは、「詩人たち(les poètes)」。一人の詩人ネルヴァルだけではなく、神の死に代表される不安定な世界を生きる多くの人々なのだ。

Philippe de Champagne, Le Christ au jardin des oliviers

幸いな偶然があり、Revue de Paris ( tome 16, 1830)を入手できたので、Jean Paulの« La Dernière Heure. Vision »の翻訳をPDFにしてアップロードしておきます。

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