
「陽気すぎる女(ひと)へ(A celle qui est trop gaie)」は、1857年に『悪の華(Les Fleurs du mal)』が出版された際、公衆道徳に違反するという理由で裁判に裁判にかけられ、削除を命じされた6編の詩の一つ。
そのため、猥褻と判断された詩句は、19世紀半ばの社会道徳を知る手掛かりになる。
しかし、それ以上に興味を引かれるのは、ボードレールが、ここで歌われている女性に匿名の手紙を出し、この詩を彼女に贈ったこと。
つまり、「陽気すぎる女(ひと)へ」は、現実に存在する女性を対象として書かれ、実際にその女性に送られたのだ。しかも詩人は自分の名前を隠し、匿名で。
その女性とは、アポロニー・サバティエ(Apollonie Sabatier)夫人。
彼女は、彫刻家オーギュスト・クレザンジェが1847年にサロンに出品し、大きなスキャンダルを引き起こした「蛇に噛まれた女(Femme piquée par un serpent)」のモデルとして一躍有名になり、パリの上級階級や芸術家たちの間で、女性大統領(La Présidente)とあだ名される存在だった。
蛇に噛まれて激しく身をよじる女性の肉体は、アポロニーの体から直接石膏で型を取ったものだと言われている。

ボードレールがサバティエ夫人と知り合ったのは1849年頃らしい。
「陽気すぎる女へ」を転写した手紙を送ったのは1852年12月9日。それ以降も6編の詩を贈っているのだが、ずっと匿名のままだった。
しかし、1857年に『悪の華』が裁判にかかり、ボードレールは、有力者たちを多く知るサバティエ夫人の助力を求めるために、とうとう詩の作者が自分であることを明かした。
その後の展開はどのようになるのか?
「陽気すぎる女へ」を読んだ後から、二人のその後を辿ってみよう。
「陽気すぎる女へ」は、一行8音節からなる4行詩(quatrain)が一つの詩節となり、詩節が9つで構成されている。
9つ詩節の中で、第4詩節の最後の詩句 « Je te hais autant que je t’aime ! »(あなたを憎む、愛するのと同じほどに!)が回転軸となり、方向性が大きく変化していく。
前半の4つの詩節は、憧れの対象である女性の肉体を賛美しながら、徐々に精神=心へと焦点が移行していく。
まず第1詩節を読み、その様子を確認していこう。
Ta tête, ton geste, ton air
Sont beaux comme un beau paysage ;
Le rire joue en ton visage
Comme un vent frais dans un ciel clair.
あなたのお顔、体の動きやご様子は
美しい、美しい風景のように。
微笑みがお顔に浮かぶ、
澄み切った空をそよぐ新鮮な風のように。

顔(ta tête)、身振り(ton geste)、様子(ton air)と、[ t ]の音を重ねて、憧れの女性の注意を引く。
そして、その直後に、beau(美しい)という言葉を繰り返し、彼女の美しさを強調する。
« Sont beaux comme un beau paysage »と声に出して読んでみると、同じ言葉« beau »を反復する「同語反復(anaphore)」の効果がはっきりと感じられる。
次に、顔(ton visage)に浮かぶ微笑み(le sourire)が、クリアー(clair)な空気の中を吹きすぎる新鮮な(frais)な風のようだと畳みかける。
そのことで、彼女の美が官能的なものではなく、むしろ清々しいものだと思っていることを伝えようとする。
伝える相手は、ta, tonで反復される[ t ]の音によって喚起される女性。つまり、「あなた」。
第2−4詩節でも、裁判で断罪されるような詩句は出てこない。
Le passant chagrin que tu frôles
Est ébloui par la santé
Qui jaillit comme une clarté
De tes bras et de tes épaules.
Les retentissantes couleurs
Dont tu parsèmes tes toilettes
Jettent dans l’esprit des poètes
L’image d’un ballet de fleurs.
Ces robes folles sont l’emblème
De ton esprit bariolé ;
Folle dont je suis affolé,
Je te hais autant que je t’aime !
悲しげに通りすぎる人が、あなたとすれ違うと、
目が眩む、(あなたの)健康な活力によって。
その生き生きとした力は、一筋の輝きのように、ほとばしり出てくる、
あなたの腕から、そして、あなたの肩から。
華々しい色彩が、
あなたによって服ににちりばめられ、
投げ込んでいく、詩人たちの精神(こころ)の中に、
花々のダンスの姿を。
これらの狂ったドレスが エンブレムとなるのは、
あなたの彩り豊かな精神(こころ)。
狂った女(ひと)に、ぼくは狂ったように夢中。
あなたを憎む、愛するのと同じだけ!

第2詩節では、腕(tes bras)や肩(tes épaules)に視線が送られ、そこから生き生きとし健康な活力(la santé)が、光のように輝き出しているのが見える。
その光に当たれば、悲しげな人(chagrin)でさえ、目が眩む(ébloui)。
通りすぎる人(le passant)や、軽く触れる(tu frôles)という表現は、ほんのわずかな時間でも、彼女の活力に触れれば、一瞬のうちに魅了されることを示している。
第3詩節は、彼女の美しい服に視点が移り、彼女自身が花々のダンスを思わせ、その姿が詩人たちのイマジネーションを刺戟する。
そんな風にして、彼女が詩人たちのミューズであることが暗示される。
第4詩節になると、憧れの女性に対する思い=愛が、狂気に達するほどもものであることが明かされる。
執拗に、folles, folle, affoléという言葉が反復される(anaphore 同語反復)ことで、狂うほどに愛しているというメッセージが伝わる。
その一方で、狂った女(folle)をいう言葉を使い、愛すると同じほど憎む(je te hais)と言う時、最初に言及された「清らかさ」とは異なる何かが予感される。
第5−6詩節では、彼女の肉体への言及が消え、反対に、私の胸(mon sein)や心(mon cœur)に意識が向かう。
Quelquefois dans un beau jardin
Où je traînais mon atonie,
J’ai senti, comme une ironie,
Le soleil déchirer mon sein ;
Et le printemps et la verdure
Ont tant humilié mon cœur,
Que j’ai puni sur une fleur
L’insolence de la Nature.
時に、美しい庭園で
私は活力を失いぶらぶらしながら、
感じたのだった、皮肉のように、
太陽が私の胸を引き裂くのを。
そして、春と緑の木々が
あまりにも私の心を卑しめたために、
私は罰した、一本の花の上で、
「自然」の傲慢さを。

庭園(le jardin)を形容する「美しい(beau)」という言葉は、詩の冒頭で、憧れの女性に対して使われたもの。再びここで反復されることで、「美しい庭園」とは、その女性の肉体あるいは彼女の存在そのものの隠喩となる。
彼女は健康な活力(la santé)に溢れている。それに対して、私(je)には活力がなく(l’atonie)、彼女とは対照的な存在。
そのように考えると、太陽(le soleil)、春(le printmpes)、緑の木々(la verdure)、一本の花(une fleur)、そして、先頭の文字が大文字で書かれた「自然」(la Nature)、それら全ては、憧れの女性の属性であると考えられる。
彼女が圧倒的な優位に立ち、太陽が私の胸(mon sein)を引き裂き、春と緑が私の心(mon cœur)を卑しめる(humilié)。

そうした状況の中で、「私」はこっそりと「一本の花(une fleur)」を手に取る。
そして、彼女の傲慢さ(l’insolence)、言い換えると、「私」に対する圧倒的に優位な姿勢を罰した(j’ai puni)のだと言う。
では、大文字の「自然(la Nature)」とは何を意味しているのだろうか?
「赤裸の心(Mon cœur mis à nu)」の中で、ボードレールは、「女は”自然なもの”であり、だから嫌悪すべきものだ。(La femme est naturelle, c’est-à-dire abominable.)」と書いたことがある。
そのために、ボードレールは女嫌い、そして「自然」が嫌いだと言われたりもする。
その一方で、『人工楽園』で言及される芸術家の一人は、「私は自然の主人だ。(Je suis le maître de la nature.)」と言い、ギリシア神話に登場する竪琴の名手オルフェウスを思わせる存在とされる。
「自然」に関係するこの二つの思考を考え合わせると、「”自然”の傲慢さ(L’insolence de la Nature)」という表現によってボードレールが何を意味しようとしたのかが、おぼろげながらではあるが見てくる。
ボードレールの芸術観によれば、美はインスピレーションに打たれた芸術家が、直感によって作り出すものではない。芸術家は、作品が生み出す効果まで徹底的に考え抜いた構成(composition)に基づき、技術(art)を駆使し、作品を作り上げなければならない。芸術は徹底的に「人工」のものなのだ。

ところが、生身の女性の「美」は、「自然」のままですでに美しい。芸術家がその「美」を作り出す必要がなく、彼は美の「主人」ではないし、そうなることもできない。
その関係においては、憧れの女性はそのままで「美しい風景(un beau paysage)」であり、「美しい庭園(un beau jardin)」。彼女は健康なヴァイタリティ(la santé)に満ちている。
「私」は、その美を前にして「不活発(mon atonie)」であり、彼女の美に「卑しめられている(humilié)」ようにさえ感じられる。
このように考えると、大文字で書かれた「Nature」とは、憧れの女性そのものであり、彼女の傲慢さ(l’insolence )とは、人工ではない、自然のままの美しさを暗示していと考えることができる。
従って、第5−6詩節では、詩人が自分を卑下しながら、そのことによって憧れの女性の美を讃える姿が見えてくる。
第7詩節から最後の第9詩節になると、女性の肉体を通して掻き立てられる官能(volupté)に焦点が移る。
Ainsi je voudrais, une nuit,
Quand l’heure des voluptés sonne,
Vers les trésors de ta personne,
Comme un lâche, ramper sans bruit,
Pour châtier ta chair joyeuse,
Pour meurtrir ton sein pardonné,
Et faire à ton flanc étonné
Une blessure large et creuse,
Et, vertigineuse douceur !
A travers ces lèvres nouvelles,
Plus éclatantes et plus belles,
T’infuser mon venin, ma sœur !
そんな風にしながら、私が望むのは、ある夜、
官能の鐘が鳴るとき、
あなたという人間の宝物の方へ、
弱虫な男のように、音を立てず、這っていくこと。
それは、あなたの楽しげな肉を罰するため、
あなたの赦された胸を傷つけるため。
そして、あなたのびっくりしている脇腹に、
一筋の傷をつけたい、広く深い傷を。
眩暈をもたらす快楽!
この新たな唇、
今までよりも輝かしく、美しい唇を通り、
あなたの中に注ぎ込みたい、私の毒を。愛する人よ!

第7詩節の2行目に記された「官能(voluptés)」という言葉を合図として、肉体に関する言葉が次々に連ねられる。しかも、その肉体の主である「あなたの(ton)」という言葉を付けて。
「あなたという人間の宝物( les trésors de ta personne)」、「肉(ta chair)」、「胸(ton sein)」、「脇腹(ton flanc)」。
その極めつけとして、「あなたの中に私の毒を注ぐ(t’infuser mon venin)」という、猥褻だと批難されてもおかしくない詩句が、詩の最後を締めくくる。
実際、1857年の裁判において、判事たちがこの詩を断罪したのも、これらの詩句によるものだった。
1866年、ボードレールは6編の断罪された詩句を含む詩集『漂着物(Les Épaves)』を出版したが、その際、この最後の詩句に次のような注を付けている。
判事たちは、これら二つの詩節の中に、血なまぐさく猥雑な意味を見つけたつもりになっていた。『悪の華』の真摯さが、そんな「悪い冗談」を排除していたにもかかわらずだ。「毒」という言葉は、スプリーン(spleen)やメランコリー(mélancolie)を意味しているのに、犯罪学者はあまりにも単純に考えたのだった。
彼らの梅毒的な解釈が、彼らの良心にいつまでも留まることを願う。
この注は、ボードレールの意図と、彼の時代の社会道徳に即した解釈のズレをはっきりと示している。
この詩を猥褻だと断罪した判事たちは、官能を刺戟する性的な表現を読み取り、その次元に留まった
他方ボードレールは、そこに美の源泉を生み出そうとした。
「私」は生身の女性の美しい身体に圧倒され、憧れの対象に這って近づいていく。その姿は、「弱虫な男(un lâche)」だ。
しかし、そうした状況の中で、「自然の美」がもたらす感覚的な刺戟(官能)を「眩暈をもたらす快楽(vertigineuse douceur)」に変え、芸術家=詩人として、「自然の主(le maître de la nature)」が構想する「美」を生み出そうとする。
「私(je)」が注ぐ毒(venin)とは、判事たちの考えたであろう物質的なものではなく、美に憧れる人間の中を流れる「憂鬱=スプリーン、メランコリー」なのだ。
そこでは、美しい肉体は素材となり、詩の生み出す美の世界は、サバティエ夫人とボードレールの合作になる。
そのように考えると、ボードレールが「陽気すぎる女(ひと)へ」を夫人に送ったのは、彼女の美しさを讃えながら、彼女を詩の世界へと誘うことにあったのだといえる。
1857年の『悪の華』裁判に勝利するための助けを求めるために、ボードレールは匿名を捨て、サバティエ夫人に自らの愛を告白した。
夫人はその愛を受け入れたらしいのだが、時に、ボードレールはその際、不能(fiasco)に陥ったなどと、誤ったことが真しやかに言われることがある。
それは事実ではないのだが、そう言われるような理由がないこともない。
二人が関係を持った直後、ボードレールは彼女に次のような言葉を書き送った。(1857年8月31日)
Il y a quelques jours, tu étais une divinité. […] Te voilà femme maintenant.
数日前まで、あなたは女神でした。(中略) 今、あなたは女です。

現実の次元で考えると、あまりにも酷い言葉だが、詩人ボードレールにとって、美は常に崇める存在である必要があった。
夫人の方でもそんな詩人のエゴイスムを受け入れたのだろう。二人は最後まで友人として留まった。