
『万葉集』に収められた和歌は、飛鳥時代から奈良時代にかけての日本的感性がどのようなものだったかを教えてくれる。
当時の日本人の心は、次の時代と共通する一つの一つの表現法を持っていた。
それは、『古今和歌集』の「仮名序」で、「心に思ふことを、見るもの聞くものにつけて、言ひ出せるなり」と言われるように、心の中の思いを「見るもの聞くもの」という知覚対象に「つけて」、つまり「託して」、表現するという方法。
他方、そこで表現された心のありさまは、平安時代の『古今和歌集』の和歌によるものとはある違いがある。
時の経過、季節の移り変わりから現実の生の空しさを感じ取ることは共通しているのだが、その事実に対する感じ方が同じというわけではなかった。
法隆寺が創建され、大化の改新が行われ、『古事記』や『日本書紀』で大和朝廷が神話によって自らの正当性を確立しようとしていた時代、人々はどのような心を持ち、何をどのように感じていたのだろうか?
(1)「心もしのに」から「うら悲し」へ
まず最初に、初期の歌人である柿本人麻呂と後期を代表する大伴家持の句を読んでみよう。
近江(あふみ)の海(み) 夕波千鳥(ゆふなみちどり) 汝(な)が鳴けば 心もしのに 古(いにしへ)思ほゆ (柿本人麻呂)
春の野に 霞(かすみ)たなびき うら悲し この夕かげに 鶯(うぐいす)鳴くも (大伴家持)

夕波千鳥とは、夕方に岸辺に打ち寄せる波の上を飛ぶ千鳥という意味。
その鳥の鳴き声を聞くと、心が「しの」になる。つまり、草が風や吹かれて折り曲がってしまうように、心が打ちひしがれる。
なぜなら、夕暮れを背景にした千鳥のもの悲しい声が、今の状況の悲惨さを嘆くかのように聞こえ、それが過去の栄華を思い出させるからだ。「いにしえ」はこんなではなかったと。
「春の野に」の句も、時刻は同じ「夕刻」。
鶯の鳴き声に歌人の心の情感が託されているという点でも共通している。
他方、夕波、いにしえというある意味で具体性を伴った状況と、「霞たなびき」という情景には大きな違いがある。
あたり一面に春霞がかかり、全てがおぼろげで、何一つはっきりとは見えない。そこに「夕かげ」、つまり夕方の光が一筋さしこんでいる。
この情景には、具体的な悲しみを引き起こすものは何一つない。
そうしたしんみりとした心持ちの中で、鳥の鳴き声が耳に届くと、家持は、鶯が鳴いているんだなあと詠歎する。
このように二つの和歌を読み比べてみると、人麻呂の「心もしのに」と家持の「うら悲し」の間には、かなりの隔たりのあることがわかるのではないだろうか。
具体的な事象が引き起こす心の動揺と、明確な原因もなくただ漠然とした中で生じる悲しみ。
日本人の感受性は、『万葉集』に収められた数々の和歌を通して、じょじょに「うら悲し」の方向へと進んでいったのだと考えられる。
そして、その情は、平安時代における美意識の中核をなす「あはれ」へと続いていく。
(2)世の中は空しきもの
私たちが心の底から願うことは、死後に極楽浄土に行くことができ、魂が救われることだろうか? それとも、この世に生きながら、多少苦しいことがあったとしても、それなりに幸福な生活を送ることができることだろうか?

日本人の心性は、6世紀に仏教が移入された後からも、地上における生を優先する傾向にあったと考えられる。
例えば、浦島太郎。
彼の話は、高橋虫麻呂によって『万葉集』の中でも語られ、和歌としても詠われている。
水江(みづのえ)の浦の島子は釣りに夢中になり、海を進むうちに海神(わたつみ)の神の女(おとめ)に出会い、結婚を誓う。そして、常世(とこよ)に至り、海神の神宮の中で、老いることも死ぬこともなく、永遠に生きることになる。
しかし、浦の島子は、父母に事の次第を話すために地上に戻り、その後すぐに戻ってくることを思い立つ。すると、妻は、化粧の道具を入れるこの箱を渡し、常世辺(とこよへ)に戻り、今と同じように私と暮らしたいのなら、その箱を絶対に開いてはならないと命じる。
地上に戻った浦の島子は、自分の家も村も見つけることができず、家を出て3年しか経っていないのに、垣根も家もなくなっているのは不思議だと思う。そして、妻から渡された箱を開けたら、もしかすると元の通りわが家が現れるだろうと考え、箱を開けてしまう。すると、白い雲が立ちのぼり、常世辺へと流れていってしまう。
嘆き悲しんだ浦の島子は気を失い、肌は皺だらけ、黒髪も真っ白になり、死んでしまう。
この長歌の後に反歌が続く。
常世辺(とこよへ)に 住むべきものを 剣刀(つるぎたち) 己(な)が心から 鈍(おそ)やこの君 (高橋虫麻呂)
剣刀(つるぎたち)は、「己(な)」(=お前)にかかる枕詞。「鈍(おそ)」は愚鈍。
この反歌は、「せっかく常世で永遠の生を得ることができたはずなのに、お前の心のせいでそうならなくなってしまった。お前(=浦の島子)はなんと愚かなことか」といった意味になる。
永遠の生を得られる常世は極楽浄土とも考えられ、そこから地上に戻り、苦の娑婆を再び生きることは、愚かなことかもしれない。
しかし、日本人の心にとってそれ以上に大切なことは、「家に帰りて、父母に事も語らひたい」という気持ちなのだ。だからこそ、浦の島子は時間の流れる地上へと戻り、もう一度故郷を目にし、父母に会うことを望む。
このように、日本人はこの世に生き、時間が過ぎ去り全てが失われたとしても、それを受け入れ、それでよしとしてきたのだと考えられる。
そうした心性にとって、「常世」は憧れの地であるかのように見えるかもしれないが、しかし実際には、この世の空しさを際立たせる役目を果たすだけにすぎない。
大伴旅人が大宰府から都に向かう途中、鞆(とも)の浦で、亡くなった妻のことを想って詠んだ歌でも、この世の儚さが常世との対比で鮮明になる構図が用いられている。
我妹子(わぎもこ)が 見し鞆(とも)の浦の むろの木は 常世にあれど 見し人ぞなき
(大伴旅人)

かつて妻と一緒に見たむろの木は今でもある。しかし、妻はもういない。
その対比の中で、「常世」という言葉が使われる。もちろん「むろの木」も永遠に存在するわけではない。しかし、一方に永遠を置くことで、愛する妻がいなくなってしまったことにより力点が置かれる。そのことで、悲しみはより深く、大きなものになる。
同じ大伴旅人が太宰府の長官をしている時、天武天皇の皇女の訃報が届き、その使者に対して詠んだ歌がある。
世の中は 空しきものと 知る時し いよよますます 悲しかりけり
(大伴旅人)
妻の死に続き、さらに悲しい知らせが届き、この世の空しさを思い知らされる。そのために、ますます悲しみは増す。
ここで示されるのは、時間の経過にともない全てが失われることに対する、率直な悲しみの気持ちに過ぎない。
それ以上の感情をそこに読み取ることはないし、無理に何か解釈を加える必要もない。
ただ、浦の島子の和歌を思い出すと、世の空しさを痛感しながら、それでもなおこの世に生きることを好むのが日本的な心持ちだということがわかってくる。
(3)「もの悲し」の美
失われたもの、存在しないものに対して、消失や不在を悲しむだけではなく、なんらかの感慨を抱くこともある。
飛鳥時代の歌人、高市黒人(たけちのくろひと)には、槻(つき)、つまり欅(けやき)が散ってしまったことを惜しむ歌がある。
早来ても 見てましものを 山背(やましろ)の 高(たか)の槻群(つきむら) 散りにけるかも
(高市黒人)

「山城の高」は京都の多賀を指す地名だと考えられる。そこに群生するケヤキの葉がすでに散ってしまっている。
その情景を前にして、あえて、「もっと早く来ていれば、紅葉を見ることができたのになあ」と残念がってみせる。
その際に、「散りにけるかも」と言い、散ってしまったことを「ける」「かも」と詠歎の言葉を重ね、感動を強く表す。
そうした感慨は、単なる事実の確認からは出て来ない。その事実を歌人が受け止め、それによって引き起こされる心の動きが、この歌に命を与えている。
大伴家持は、春が来たことにさえ感慨を抱く。
春まけて もの悲しきに さ夜ふけて 羽振(はぶ)き鳴く鴫(しぎ) 誰(た)が田にか住む
(大伴家持)

「まけて」は「かたまく」とも言い、時を待ち受ける、時になる、という意味。
春が来て、はっきりとした理由がないのに、とにかく悲しい。
その悲しさの根底にあるのは、この世の空しさであるに違いない。
春が来ようと、秋になろうが、季節を移り変わりは、時間の経過を感じさせる。時間が流れれば全てのものが移り変わり、この世に何一つ不変なものはない。
春が来て浮き浮きするのではなく、「もの悲しく」なるのはそのためだろう。

そうした気分の中で、夜になり、シギの羽ばたきや鳴き声が聞こえてくる。
そこでも再び、時間の経過が感じられる。
シギは渡り鳥で、やって来ても、また飛び去ってしまう。その鳥が誰の田んぼにいるのだろうかという自問は、定住しない鳥の不安定さを表している。
また、それと同時に、歌人の心持ちを鳥に託してもいる。私の心も定住しないシギのように不安定なのだ、と。
その不安定さは、この世の定めに他ならない。この世に生きる限り、人間は時の流れに押し流される。人間だけではなく、山川草木、花鳥風月、全てのものが時とともに生き、失われていく。
この世では全てが「もの悲しい」。
「春まけて」の和歌は、大伴家持がその「もの悲しさ」を美的な感覚に変えつつあった現場に立ち会わせてくれるのではないかと思われる。
このように『万葉集』の初期の時期から後期までの和歌を辿ってみると、飛鳥時代から奈良時代を生きた日本人たちが、全てが儚く消え去ってしまうこの世に生き、それを「空しきもの」と感じながら、それでも「常世」ではなく、この世に生きることを好んだことがわかってくる。
そして、この世を生きながらふと感じる「もの悲しさ」を、五感が捉える自然の事象に託して歌うことで、心を慰めたのかもしれないし、そこに美を感じ取ったのかもしれない。
このように見てくると、私たち現代人の感性も、『万葉集』の時代からずっと養われ続けてきた長い歴史の中に位置している。そんな風に考えても、決して間違いではないだろう。