『古今和歌集』 暦の季節と3つの時間意識 

10世紀初頭に編纂された『古今和歌集』は、現代の私たちが当たり前だと思っている四季折々の美しさを感じる感受性を養う上で、決定的な役割を果たした。
そのことは、全20巻で構成される歌集の最初が、春2巻、夏1巻、秋2巻、冬1巻という、季節をテーマに分類された6巻で構成されていることからも推測することができる。

自然の美に対する感受性や、時間の経過とともに全てが失われていくこの世の有様に空しさを感じる感受性は、7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』でもすでに示されていた。

『古今和歌集』が新たに生み出したのは、暦に則った季節の移り変わり。
より具体的に言えば、春の巻から冬の巻を通して、立春から年の暮れまでという、一年を通した季節の変化を明確に意識し、時間の流れに四季という枠組みを付け加えたということになる。

では、それによって何か変わるのか? 

(1)3つの時間意識

流れ去る時間に四季の巡りを重ね合わせることで、時間意識にどのような変化が付け加えられるのだろう?

日本において、時間意識のベースになるのは、「始めも終わりもなく直進する直線」で示される時間(1)。
そこに、暦に従った季節が被せられることで、異なる2つの時間意識が付け加えられる。

視点を「一年に限る場合」、年の始めと終わりがあり、「始点と終点のある直線」として示される時間意識(2)が成立する。
そこでは、暦と同じように、様々な出来事の順番は決まっていて、逆転することはない。
その意味で、この時間意識は、誕生から始まり死で終わる、「人間の人生を象徴する時間意識」と対応する。

他方、「一年に限らなければ」、春は毎年巡ってくるといったように、四季の巡りは、「始めも終わりもなく循環する円」によって表現される時間意識(3)を生み出す。

『古今和歌集』に収められた多くの和歌は、これら3つの時間意識を巧みに織りなしながら、人間の心に去来する感情を、四季折々の風物に託して表現している。

(2)時間と暦

『古今和歌集』の冒頭に置かれた在原元方(ありはら の もとかた)の和歌は、現実の季節と暦の上での出来事のズレをテーマにしている。
そのことは、歌の前に置かれた詞書(ことばがき)に「ふる年に春立ちける日によめる」とあることからも、はっきりと示されている。「ふる年」といいうのは、古い年、つまり旧年。それなのに、新年を告げるはずの立春が来てしまったのだという。

年のうちに 春は来(き)にけり 一年(ひととせ)を 去年(こぞ)とやいはむ 今年(ことし)とやいはむ  (春上 1)

現代人の私たちにこのずれがわかりにくいのは、明治6(1873)年以前まで、「太陰太陽暦」が使われていたという理由による。
旧暦では、月の満ち欠けをもとに月を定めるのだが、太陽と月の周期が異なるために、暦と季節との間にずれが生じることがあった。

在原元方はそのズレを取り上げ、まだ年が明けていないのに、季節だけは立春になってしまった。としたら、今日を、暦に合わせて「去年」に入れるべきなのか、季節に合わせて「今年」と言うべきなのかと、自問してみせる。

従って、この和歌は、当時の季節感が、歳時記に記された一年の行事に従って展開し、人々の生活を司るリズム感を生み出していたことを示している。

実際、『古今和歌集』の和歌は、実際の自然の情景を詠っているようでありながら、実は頭で思い描いた情景であると考えられる。
素性法師(そせいほうし)と在原業平(ありわら の なりひら)が紅葉を詠った歌に付けられた詞書には、はっきりと、竜田川に紅葉が流れる様子を描いた屏風絵を詠んだものだと書かれている。

もみじ葉の 流れて止まる みなとには 紅深き 浪や立つらむ (秋下 293)

ちはやぶる 神代(かみよ)もきかず 龍田川(たつたがは) から紅(くれない)に 水くくるとは  (秋下 294)

もしこの二つの和歌だけ読みば、紅葉が川に落ちて真っ赤に染まった秋の情景を前にし、その美しさに感激して詠まれたかのように思われる。

素性は、川に浮かぶもみじの葉が河口(みなと)に流れ着き、深紅の波のように見える情景を描く。
業平は、古代の神々の時代を引き合いに出し、龍田川を染める紅葉の赤い色は、絞り(くくる)染めにされた布の美しい濃い紅色のようだと感激してみせる。

しかし、詞書には、その情景は屏風絵を見て詠んだものだと、種明かしがされている。つまり、歌の対象は作られた風景なのだ。

四季の巡りも、その場で体感するのではなく、頭の中で組み立てられる。
「年のうちに春は来にけり」に続く、紀貫之(きのつらゆき)作の和歌は、わずか31文字の中に四季の循環を見事に封じ込めている。

袖ひちて むすびし水の こほれるを 春立つけふの 風やとくらむ  (春上 2)

詞書に「春立ちける日よめる」とあるように、この歌が歌われているのは立春だと思われる。

「袖ひちてむすびし水」からは、前の年の夏、池などの清らかな水に袖をひたして(ひちて)、両手で水を掬い上げようとした情景を思い浮かべる。
その水が、秋を経て、冬になり、凍り付く。そして、今日(けふ)、春の訪れとともに解け始めているだろうかと、貫之は自問する。

「とくらむ」は推量であり、実際に氷が解けているのを目にしているわけではなく、その情景は記憶と想像から成り立っている。
そして、その中に、循環する四季が詠み込まれる。
つまり、この和歌も現実に目にしている情景を詠んだものではないことになる。

実際には、風が吹くと氷が解けるというテーマは、「東風解凍」(とうふうこおりをとく)と呼ばれ、暦に記された季節感の表現だった。
古代中国の儒教の経典『礼記』の「月令」(がつりょう)には、「猛春の月、東風解凍」という記述がある。

また、季節を春夏秋冬の4等区分する暦である「二十四節気」をさらに細分化した「七十二候(しちじゅうにこう)」では、それぞれの項目に気象の動きや動植物の変化を知らせる短文が伏されているが、その最初の項目である「立春」は「東風解凍」とされている。
そのつながりはまさに「春立つけふの 風やとくらむ」であり、紀貫之が「七十二候」に基づいて、季節を歌ったことがわかる。

(3)景物が四季の型を作る

『古今和歌集』に収められた季節の歌が暦に基づいているとしたら、そこで描かれる様々な情景も、目の前の自然の光景を歌うというよりも、定式化された季節の姿に則っている。
例えば、立春であれば、梅、鶯など、春の終わりを歌う場合には、散る桜、藤など、秋になると雁、月などといったように。

そうした季節の型を踏まえた上で、壬生忠岑(みぶ の ただみね)は、春と鶯の繋がりの強さを確認する。

春来ぬと 人は言へども 鶯の 鳴かぬ限りは あらじとぞ思ふ (春上 11)

暦の上は春が来たことになっていて、みんなは春が来たと言う。しかし、自分としては、鶯が鳴かないと春が来たことを実感できない。
ここでは、暦を超えて、景物こそが季節の中心になっている。

紀貫之に秋の終わりを感じさせるのは、月と鹿という二つの景物の組み合わせ。

夕月夜 小倉の山に 鳴く鹿の 声のうちにや 秋は暮るらむ  (秋下 312)

夕方のほのぐらい月が小倉山をぼんやりと照らし、鹿の声が聞こえる。貫之は、その鳴き声を耳にしながら、秋が暮れてゆくのだろうかと感慨に耽る。

この情景も、いかにも歌人が現実に目にし、耳で聞いたもののような印象を与えるが、実は景物を組み合わせた晩秋の型に基づいている。
そのことは、「長月のつごもりの日、大堰(おおい)にてよめる」という詞書によって、意図的に明らかにされている。というのも、9月(長月)の月末(つごもりの日)には、夕月(=三日月から上限の月)は出ないからだ。

夕月という景物によってもたらされるほの暗い印象は、小倉(ぐら)山という名前に含まれる「暗さ」によってさらに強められる。そこに、秋のもう一つの景物である鹿の声が響く。
そのようにして作られた晩秋の中で、暮れていく秋のしっとりとした寂しさがひしひしと感じられる。

この二つの和歌の例を見るだけで、私たちの季節感が、いかに景物によって形作られた季節の型に従っているかが理解できるだろう。

(4)時間意識と抒情性

『古今和歌集』の中で、景物によって明確に作り出された季節感が、私たちの心に強く訴えかける理由は、どこにあるのだろうか?

その理由は、四季の巡りがもたらす時間意識と関係していると考えられる。
最初に明らかにした3つの時間意識を思い出そう。
(1)始めも終わりもなく直進する直線
(2)始点と終点のある直線(一年のスパンで考える場合)
(3)始めも終わりもなく循環する円

(2)の時間意識に立つ時、人は季節の流れに自分の人生を重ね、自然の様々な情景に心の状態を投影する。
自然を(3)の時間意識で捉える時には、人は生から死へと流れる時間意識との間にズレを感じ、「消え去るもの」と「循環し永続するもの」との対比から、なんらかの感慨を引き出す。

在原業平の「月やあらぬ」の歌は、そうした時間意識の同一性と差異性を巧みに用い、自然の姿を鏡にして、人間の心を絶妙な仕方で写し出している。

月やあらぬ 春や昔の 春ならぬ わが身ひとつは もとの身にして  (恋歌5 747)

この和歌の趣向は、普通であれば時間の経過とともに変わるはずの人間を、「わが身ひとつはもとの身にして」と歌い、変わらない側に置くことにある。

では、自然の側はどうなのだろう?
月は昔の月なのだろうか? それとも昔の月ではないのだろうか? 春についても同様の問いが投げかけられうる。

その解釈は、「や」をどのように理解するかによる。「や」は、疑問(A)なのか、反語(B)なのか。

(A)疑問の場合
月は昔の月ではなのだろうか? 春は昔の春ではなのだろうか? 
その疑問は、月も春も、以前とは違ってしまっているのかもしれないという疑いにつながる。

『古今和歌集』の編纂された10世紀頃の「・・・や/・・・や」という例では、疑問の意味であることが多いという。
その場合には、月も春も昔とは違ってしまった。それなのに私は昔のままだ。あなたを今でも愛し続けている、何と悲しく切ないことか、といった意味になる。

(B)反語の場合
月は昔のままの月ではないのか? いや、同じ月だ、春も同じ春だ、という意味になる。
その場合には、月も春も私も同じままに留まっていることになる。

しかし、3つの時間意識のどれも、全てが同一のままに留まることはありえない。とりわけ、基本となるのは、始めも終わりもなく流れ去っていく時間なのだ。
そのように考えると、何か変化したものが隠されているはずである。
そして、その答えは「詞書」に記されている。
在原業平は、「五条の后の宮の西の対に住みける人」と愛を交わしたが、その女性が彼の近づくことのできない場所に行ってしまった。そこで、「またの年の春、梅の花盛りに、月のおもしろかりける夜、去年(こぞ)を恋ひて」、この歌を詠んだのだった。

全てが同じなのに、そこには愛する女性はいない。その悲しみは、「わが身ひとつは もとの身にして」という孤独感によって、ますます深く、激しいものになる。

(A)の場合も、(B)の場合も、有名な漢詩「代悲白頭翁」に基づいていることは変わらない。
「年年歳歳 花相似たり/歳歳年年 人同じからず」
自然は毎年循環し、同じように咲く。しかし、それを見る人間は同じではない。

在原業平は、この基本形に基づきながら、自然と人間の位置を逆転し、我が身は変わらないと言う。
そこにこそ、「月やあらぬ」という和歌の面白さがあり、その歌でしか味わうことのない情感が感じられる。


ここまで見てきたように、『古今和歌集』に収められた和歌は、四季の型を生み出し、日本人の感受が季節の変化に敏感に反応する基礎を作り出したと言っても過言ではないだろう。
そこでは、3つの時間意識が様々な形で組み合わされ、自然の情景に託して人間の情感を表現したのだった。

現在の私たちも、春は花見を、秋には紅葉を楽しみ、四季折々に繰り広げられる自然の光景に心を動かす。
日本人にとってはごく自然に思われるそうした心の動きの起源は『古今和歌集』にあると考えても、間違いではないだろう。

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