ステファン・マラルメ 言語の可能性を追求した詩人 詩的言語と新たな現実

ステファン・マラルメ(1842-1898)はフランス詩を代表する詩人たちの一人と見なされ、彼の後に続く文学や芸術に大きな影響を及ぼした。とりわけ、20世紀になり、批評が詩や小説と同じほどの重要性を担うようになった時、批評が最初に参照するのはマラルメの詩や散文だった。

その一方で、マラルメが生きている時代から、彼の詩は難解であり理解困難なものと見なされた。実際、芝居の原稿が上演を拒否されたことがあった。また、苦労して執筆した詩が、当時を代表する詩集の編集者から、「こんなものを掲載したら笑い物になる」と批難されたという逸話もある。

その二つの矛盾する評価は、マラルメを理解する上での第一歩になる。というのも、彼が作り出した新しい詩的言語は、彼の著作への接近を妨げると同時に、その本質的な価値を伝えるものでもあるからだ。
「なぜ理解が困難なのか?」と問いかけ、その回答を探ることが、20世紀以降の芸術観の根本的な原理を教えてくれることになる。

(1)マラルメの詩的言語

マラルメが構想した詩的言語とは、どのようなものなのだろう?
その問題を考える手掛かりとして、「詩の危機」の最後に置かれた次の一節について考えてみよう。

A. 「不在の花」

私が「花!」と言う。すると、私の声が輪郭を遠ざける忘却の外に、これまで知られていた萼(がく)とは別の何かが、音楽的に立ち上がる。観念そのものであり、甘美な、そして、あらゆる花束に不在の花だ。(「詩の危機」)

一般的なコミュニケーション言語であれば、「花」と言えばその意味はすぐに理解される、と考えられている。同じ言語を用いる者の間であれば、一つの言葉の意味は共有されているはずであり、言葉が通じる状態にある。
マラルメの文で言えば、「これまで知られていた萼(がく)」が、「花」という言葉の「意味」に該当する。その萼は、「花」という言葉が発せされる前から、話し手と利き手の間ですでに知られていた。
つまり、「花」という言葉は、「すでに存在している花」を前提にしていることになる。

マラルメはその順番を逆転する。
「花」という言葉が発せされた後で、その言葉の音の連なり=音楽とともに、「これまで知られていた萼とは別の何か」が立ち上げってくる。
「あらゆる花束」、つまり、言葉が発せられる前に存在すると想定される花束の中の一本ではなく、そこには存在していない「花」。
言葉が生み出すその新しい花は、現実の花よりも「甘美」だと、マラルメは言う。

B. 言語学における考察

こうした主張は、常識的な言語観からすると、不可解なものに思われるかもしれない。しかし、言語学的な視点からも、マラルメと同様の意味理解が示されることがある。

現実生活の中で、私たちが「花」という言葉を使う時、必ず何らかの状況の中にある。
その際、話し手は、野に咲く菊なのか、庭に咲くバラなのか、花屋で売っている百合の切り花なのか、具体的な花を頭に置いている。
また、聞き手も、同様に、様々な花を思い描く。

そのように考えると、「花」という言葉の「意味」には二つの次元があることがわかる。
一つは、抽象的な「花」という概念。それがあるからこそ、二人の間で一つの言葉が同じように理解される。
他方で、具体的な状況の中で喚起される花は、一本一本が多様であり、異なる形をし、異なる香りを発し、異なる美しさを持つ。そこから出発して、「花」という言葉が思い起こさせるイメージは、無限に広がる可能性を秘めている。

マラルメの後に続いたポール・ヴァレリーによれば、「一つの言葉の意味は、その都度の個別の用法の中にしか存在しない。」
言葉の意味は、すでに存在するものを指し示す時には、抽象的な貧しさの中にある。しかし、一つ一つの言葉が発せされる状況の中で具現化する意味は、生命感に溢れ、豊かなものとして生成する。
ここでヴァレリーが言及する「意味」とは、その都度生み出される新たな意味に他ならない。

マラルメやヴァレリーの考える詩的言語とは、すでに存在するものを指し示すのではなく、その言葉が発せされる状況の中で新しい意味を作り出すものだと考えられる。

C. 「乾杯(Salut)」

マラルメが実際にどのような詩句を綴ったのか、「乾杯」を例に挙げて検討してみよう。

1893年、『ラ・プリューム』という雑誌が企画した宴会にマラルメは主賓として招待され、乾杯の音頭を取った。
「乾杯(Salut)」はその状況を詩として表現した詩であり、第一詩節は次の4つの詩行で構成される。

無、この泡、手つかずの詩句、
指し示すのはグラスだけ。
こんな風に、遠くで溺れているのは、一群の
人魚たち、数多くが逆さまだ。

乾杯の時、マラルメの手には、ピチピチと音を立てるシャンパンの入ったグラスが握られていたに違いない。
「シャンパン」という言葉を使えば、その状況は誰にでもすぐに理解される。しかし、その言葉の意味は、現実のシャンパンに限定されてしまう。

その反対に、「乾杯」の詩句ではシャンパンという言葉が使われず、その言葉が喚起する可能性のある言葉が連ねられる。
プチプチという泡は儚く消えてしまう。それは「無」であり、何もない。その一方で、泡立つ様子は海の泡を思わせる。マラルメにとって、それは手つかずの詩句、つまり純粋な詩句でもある。
さらに、小さなグラスが大海原に見立てられ、ピチピチと跳ねる数多くの泡は、逆さまになりながら波の間を泳ぐ人魚たちを連想させる。

マラルメは、ある手紙の中で、「事物を描くのではなく、事物が作り出す効果を描く」と書いているが、無、泡、詩句、海、人魚などは、不在のシャンパンが詩人の中に生み出した印象の連なりに他ならない。

そのようにして喚起される様々なイメージを通して、もし読者がシャンパンで乾杯する場面を思い描けないとしたら、日常的な意味でのコミュニケーションは成立しないことになる。
実際、読者にとって何が書かれているのかさっぱりわからない、ということにもなる。

逆に、無、泡、人魚などといった言葉の連なりから、シャンパンに限定されない新鮮なイメージの世界が浮かび上がってくる可能性もある。
シャンパンという言葉の不在が、新しい世界を浮かび上がらせるといってもいい。
その世界は、「花」という言葉の輪郭が消え、その忘却の外に浮かび上がってくる「不在の花」を思わせる。

このように見てくると、「乾杯」を構成する詩的言語は、「描写し、語る」ことを目的とするコミュニケーション言語と正反対の目的を持つことがわかる。それは、シャンパンで乾杯することを読者に伝えることを目的とするのではなく、シャンパンの存在を「暗示」しながら、それが作り出す印象や効果を言葉にする。
それらの詩句は、すでに存在する事物を指し示すのではなく、そこから出発して、「新しい生」が芽生えることを目指している。

(2)エロディアードという名前

マラルメの詩的言語は、言葉が持つ潜在的な可能性に基づき、それらが連動する詩句を形成していく。その実際を、サロメ伝説を下敷きにした「エロディアード 舞台」を通して見ていこう。

19世紀後半のヨーロッパでは、文学だけではなく、絵画や芝居でも、サロメがしばしば取り上げられた。
彼女に関する物語の中心を成すのは、美と死。

サロメは、古代パレスチナの王ヘロデ・アンティパスの娘。ヘロデの誕生日を祝う祝宴で、見事な舞を踊り、どんな褒美でも与えると王から言われる。そこで、サロメは、母であるエロディアードと相談する。すると、母は娘に向かい、牢獄の中に捉えられていた洗礼者ヨハネの首を要求するようにと答える。サロメは、言われた通り、父王に、「今すぐに、盆にのせた洗礼者ヨハネの首が欲しい。」と要求する。そのようにして、サロメはダンスの褒美として、ヨハネを死に追いやる。

このキリスト教の伝承を前提にしながら、マラルメは、サロメという名前ではなく、母の名であるエロディアードを用いる。その理由はどこにあるのだろう。

A. エロディアードという名前がもたらすインスピレーション

マラルメは、エロディアードという名前について、1865年2月の手紙の中で次のように説明している。

私の作品の最も美しいページは、エロディアードという神聖な名前に関係するところになるでしょう。私がほんの少しでもインスピレーションを得たとしたら、それはこの名前のおかげです。もしヒロインの名前がサロメであったら、私自身がこの暗い名前を発明したことでしょう。裂けたザクロのように赤い、エロディアードという名前を。(1865年2月18日、ウージェーヌ・ルフェブール宛て)

ここから、これまで考察してきた言語観の中の2つの要素を取り上げることができる。
A. マラルメの意図は、すでに存在するサロメ伝承を語り直す、つまり再現することではない。
B. エロディアードという名前(言葉)が生み出す効果 — 暗さと切り裂かれたザクロの赤さ — が、霊感(インスピレーション)の源。

名前が吹き込むインスピレーションは、既存の伝承を参照するものではない。その反対に、未知の世界へと詩人を導くことになることとが、この一節から予測される。

B. 「花々」

「花々(Les Fleurs)」と題された詩の中では、エロディアードという名前から、さらに豊かなイメージの連なりが流れ出す。

女性の肉体に似た、薔薇の花、
残酷な、明るい庭で花開くエロディアード、
その花を、獰猛で光輝く一滴の血が、濡らす!

この詩句の中で、エロディアードという言葉が薔薇の花となり、残酷さや獰猛さと同時に光輝く明るさという両義性を持つ一滴の血を連想させる。
その血は、伝承の中のサロメとヨハネを思い出させるのではなく、この詩句が作り出す新しい世界を流れる血液の最初の一滴となる。

C. 鏡のエロディアード

「エロディアード — 舞台」は、エロディアードと乳母との会話体の詩句によって構成されるが、その中心となるのは実像と虚像と複雑な関係。

エロディアードが自分の前に置かれた鏡に向かい話しかける場面は、鏡のこちら側にいる生身の存在と鏡に写る虚像が向かい合う。
その際、「私」=エロディアードは、「鏡」を「冷たい水」「厳格な泉」と呼び、「お前」の中に「自らの姿を現す」のだと語り掛ける。

                            おお、鏡よ!
冷たい水よ、倦怠によって、お前の額縁の中で凍結される、
何度も、何時間もの間も、打ちひしがれる、
夢によって、そして、思い出を探す、
深い穴にある氷の下、木の葉ような思い出を、
その私が、お前の中に、自らの姿を現したのです、遠い影のような姿を。
(中略)
                    ねえ、乳母様、私、美しい?

マラルメの詩的言語は、コミュニケーション言語とは性格を異にする。既存の意味を伝達することが目的ではなく、言葉から出発して、これまでにはない世界を生み出そうとする。その結果、普通に読むと意味が理解できないことがしばしばある。

「おお、鏡よ!」で始まるこの一節も、典型的なマラルメの詩的言語で綴られている。そのために、私たちは読解に努力を要するのだが、他方で、理解に達すれば、新しい世界の様相を目にすることができる。

この場面に現れるのは、「私」=エロディアードと「鏡」。その鏡の中には「私の姿」が映る。一般的に言えば、鏡のこちらにいるのが本物の「私」であり、鏡の映像は実体のない「虚像」ということになる。

マラルメはそうした枠組みを設定した上で、「凍結され」、「打ちひしがれ」、「思い出を探す」といた表現が、「冷たい水」(に映った私)と関係するのか、生身の「私」と関係するのか、どちらともつかない構文の詩句を組み立てる。
その目的は、生身の私、つまり「見る主体としての私」と、視線の対象となる「客体としての私」の区別を曖昧にし、現実と虚像の境界線をもおぼろげにすること。
もし鏡の上の私が「遠い影のような姿」をしているとすれば、その理由は、鏡の前の私がそうした姿をしているからに他ならない。

その関係は、詩的言語のあり方と対応する。
コミュニケーション言語であれば、最初に既存の存在があり、言葉はそれの代用品となり、その意味を伝達する。それは、鏡の手前にいる女性が現実に存在する存在であり、鏡に映った姿はその虚像にすぎないと見なす思考と並行関係にある。
それに対して、マラルメの詩的言語では、辞書に掲載されているような既存の意味と、言葉が内包する潜在的な意味とは、同等の価値を持つ。それれは、合わせ鏡に映る無限の映像と対応する。

そのように考えると、鏡の前のエロディアードの場面は、マラルメ的詩的言語によって綴られた「詩」を体現していると考えることができる。
その映像は、既存の逸話を再現したものではなく、「暗く、そして、裂けたザクロのように赤い、エロディアードという名前」がもたらしたインスピレーションに導かれながら、マラルメが作り上げたフィクションの映像なのだ。

そこで、エロディアードは、乳母に向かい、「私、美しい」と問いかける。
その問いは、エロディアードという言葉から生まれる新たな現実が、「美」の創造であることを暗示している。

(3)「無」と「美」

A. 「無」を見出す

マラルメの詩にも思索にも、「無」という言葉が常に付きまとっている。
1860年代の半ばに、彼は「詩句を掘り下げるうちに、虚無に出会った」と記し、その後、「虚無を見出した後、「美」を見つけた」と友人宛ての手紙に書いたりもしている。

そこで使われている「虚無」という言葉を、言語の問題に限定して考えると、言葉が発せられる以前の既存の意味は、実は虚構であり、実体として存在するわけではないという認識だといえる。
同じ時期、マラルメは、神の存在は、人間が作り出したものだという考えに至った。神が人間より前に存在するのではなく、神という言葉によって人間が創造した存在だとすれば、こうした思考も、詩的言語のあり方と対応する。

B. 詩の原理と音楽性

そうした「無」を核とする思考から出発して生み出された詩句が「美」となるためには、インスピレーションに動かされて偶然に生み出される詩句ではなく、完全に構築されたフィクションであることが必要だとマラルメは考えた。

その点で、彼は、エドガー・ポーからボードレールへと受け継がれた「詩の原理」の継承者だといえる。
その原理を次のようにまとめることができる。
(1)詩は、インスピレーションの賜物ではなく、数学的な構築物。
(2)詩の目的は「効果」を生み出すこと。
(3)効果を生み出すためには、一回で読み切ることができる長さであること。
(4)効果とは、読者を高揚させ、恍惚の中に導くこと。

マラルメにとって、この原理に従い、細部まで構築された詩的フィクションは、交響曲のようなものだった。交響曲の音符は、詩においては一つ一つの言葉にあたる。
「音楽から私たちの富を取り戻す」というマラルメの主張は、言葉を音符のように配列し、詩を楽譜と同等のものにする心得えだと考えてもいい。
言い換えれば、言葉の音声的側面が意味と同様の価値を持ち、言葉の音の連なり=音楽が詩の美を生み出す。

それは理念としてだけではなく、実際の詩句としても表現され、マラルメの詩句の音楽性は大変に美しい響きを持っている。
残念ながら、フランス語のリズムや響きを日本語の翻訳で再現することはできないのだが、「無」から美しい音楽が生じる状況を綴った詩句を読むことで、無と音楽の関係を見ていこう。

C. 「扇 マラルメ夫人の」 「無」から生まれる未来の詩句

マラルメが妻マリアに送った詩「扇 マラルメ夫人の」は、扇をあおる夫人の姿を彷彿とさせる一方で、あおがれることで生じる目に見えない風の動きは「無」に等しいのだがが、その「無」が詩句の誕生を暗示する。

言葉に向けてであるかのように 
空中でひとあおぎする以外 何もしないのに
未来の詩句が 解き放たれる
この上もなく貴重な住まいから

夫人が手に持つ扇をひとあおぎする。しかし、その光景が再現されるわけではない。
扇という言葉は使われず、「空中でひとあおぎすること」が扇の羽根を、「この上なく貴重な住まい」が扇の根を思わせる。
その扇から生まれる風には全く物質性がなく、「何もない」=「無」とさえいる。

そして、その「無」が言葉に働きかけ、音符が整然と並ぶ。それが、ひとあおぎ毎に生み出されるであろう、未来の詩句となる。

D. 「聖女」 沈黙の音楽家

「聖女」は、音楽の守護聖人であり聖セシリアを連想させる詩。
その詩の最後に、聖女が「沈黙の音楽家」であることと明かされる。

(青白い聖女は)聖体顕示台のこのガラスの中にいる。
そこをかすめていくのは、一台のハープ。それは、「天使」によって
形作られた、夕方、空中を飛びながら、
繊細な指の関節のために。

その指を、古い白檀もなく、
古い書物もないのに、彼女は揺らせる、
楽器となる羽根ペンの上で、
沈黙の音楽家として。

「天使」によって作られたハープは、音楽の聖女の「繊細な指」のために作られたとされる。その楽器は、従って、聖セシリアの音楽の美しさを引き立てるもの。
さらに言えば、天使のハープは実在するものではなく、天上の音楽を響かせる目に見えない楽器だといえる。

それだからこそ、聖女は、実際の楽器ではなく、羽根ペンの上で指を動かし、誰にも聞こえない音楽=沈黙を奏でる。
そこには、「古い白檀」も「古い書物」もない。その音楽は「無」を起源としている。そのことが、「ないこと」によって暗示されている。

沈黙の音楽は、現実の次元では「羽根ペン」によって、言葉から乗じる新たな現実の次元では「天使のハープ」によって、奏でられる。
それは、マラルメの詩的言語の究極のあり方を示しているといってもいいだろう。


私が「花!」と言うと立ち上がる「不在の花」は、現実の花と変わることのない生命で息づき、無限の潜在的な美を有する。
マラルメの詩は、そうして立ち上がった不在の花が具現化した結晶に他ならない。

それらを織りなすマラルメの詩的言語は、通常のコミュニケーション言語と異なり、すでに存在する意味を伝達するためではなく、意味の可能性を広げ、言葉が織りなす音楽も含め、新しい生を生み出すことを目指していた。
そして、言葉が現実から自立し、もう一つの現実を創造するという方向性は、20世紀の入ってからの文学や美術、音楽、そしてそれらを対象とした批評を含め、芸術全般の基礎的な世界観を構成することになる。


(1)翻訳

渡辺守章訳『マラルメ詩集』岩波文庫。

(2)参考図書
イヴ・ボヌフォワ 『マラルメの詩学』 阿部良雄・菅野昭正訳、筑摩書房、2003年。

ジャン=リュック・ステンメッツ 『マラルメ伝-絶対と日々』 柏倉康夫・永倉千夏子・宮嵜克裕訳、筑摩書房。

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