
マルセル・プルーストは心理の分析にかけても超一流の作家であり、『失われた時を求めて(À la recherche du temps perdu)』は私たち読者に、人間とはどのような存在なのか、様々な側面から教えてくれる。

ここでは、第二篇『花咲く乙女たちのかげに(À l’ombre des jeunes filles en fleurs)』の中に登場するアルベルティーヌ(Albertine)の姿をたどりながら、一人の人間の中に様々な人格が混在し、そのどれもが彼女の姿であるということを見ていこう。
最初の部分では、アルベルティーヌの6つの状態に言及される。そこで注意したいことは、どれもが単なる外見の変化ではなく、心と身体のどちらにも関係する生命現象、つまり生理学(phisiologie)的な表現になっていることである。
(1)悲しみ
Certains jours, mince, le teint gris, l’air maussade, une transparence violette descendant obliquement au fond de ses yeux comme il arrive quelquefois pour la mer, elle semblait éprouver une tristesse d’exilée.
何日かの間、ほっそりとした体つきで、顔がくすみ、無愛想な様子をし、スミレ色の透明な光が、時に海でもそうしたことがあるように、斜めに彼女の目の奥に落ちかかり、彼女(アルベルティーヌ)は、追放された女性の悲しみを感じているようだった。
アルベルティーヌの体が細く(mince)、顔色(le teint)がくすみ(gris)、様子(l’air)が無愛想(maussade)というのは、彼女の外観に関する言及。
それに対して、追放された女性(exilée)の悲しみ(une tristesse)を感じていた(éprouver)というのは、彼女の心が抱く感情。
その間に置かれた、スミレ色の透明さ(une transparence violette)に関する記述は、海(la mer)を連想させながら、落ちかかる(descendant)、斜めに(obliquement)、目の奥(fond de ses yeux)といった言葉が連ねられ、アルベルティーヌの中に秘められた独特の魅力を暗示している。
彼女は自分がいるべき場所ではないところにいるために感じる悲しみを抱いているらしいのだが、目の奥に差しかかるスミレ色の透明な光は、その悲しみを美しく照らし、彼女を神秘的な存在にしている。
以下に続くアルベルティーヌの5つの様態においても、ここで見たような体の表面と内部が連動した生理学的な記述を通して、非常に繊細な人間観察が繰り広げられていく。
(2)官能性
D’autres jours, sa figure plus lisse engluait les désirs à sa surface vernie et les empêchait d’aller au delà ; à moins que je ne la visse tout à coup de côté, car ses joues mates comme une blanche cire à la surface étaient roses par transparence, ce qui donnait tellement envie de les embrasser, d’atteindre ce teint différent qui se dérobait.
別の何日間かは、滑らかな彼女の顔は、ニスを塗ったような表面に様々な欲望を貼り付かせ、欲望がもっと先まで進まないようにしていた。ただし、その顔を突然横から見ないかぎりにおいてだが。というのも、彼女の頬は、表面が白いロウのようにくすんでいるのだが、実は透き通ったピンク色をしていて、そのために、頬にたまらなく口づけしたくなるし、別の色に変化していく肌に触れてみたくなるのだった。
彼女に対して「私」が欲望を抱く時と、抱かない時があった。
彼女の顔(sa figure)がすべすべ(lisse)している時には、顔の表面(sa surface)がニスを塗った(vernie)ようで、欲望(les désirs)を表面に貼り付け(engluait)、それ以上先に進む(aller au-delà)のを妨げた(empêchait)。
他方、顔を横から(de côté )見る時には、白いロウ(une blanche cire)を塗ったようにくすんでいる(mates)頬(ses joues)の表面が、透明な(par transparence)ピンクに見え、たまらなく口づけをしたくなった。
異なる顔色(ce teint différent)が逃げ去っていく(se dérobait)というのは、見る角度によって、彼女の頬の色が微妙に変化することを意味する。
少しでも角度が変わると色が変化し、欲望が表面で止まる時もあれば、彼女を抱きしめたくなることもあった。
その変化を「逃げ去る」という言葉で表現することで、それを捉えたい、そこに到達(atteindre)したいという欲望が増した。
「私」がアルベルティーヌに惹かれたのは、常に私から逃げ去ってしまったからに違いない。色の変化に関する記述は、そうしたことを暗示していると考えることもできる。
(3)幸福
D’autres fois le bonheur baignait ses joues d’une clarté si mobile que la peau devenue fluide et vague laissait passer comme des regards sous-jacents qui la faisaient paraître d’une autre couleur, mais non d’une autre matière que les yeux ;
別の時には、幸福が彼女を頬を素早く動く光で浸したために、肌が液体のようにぼんやりとなり、その下に隠れた数々の視線のようなものを通り抜けさせ、肌を別の色に見せたが、しかし、目とは異なる材質のようには見せなかった。
彼女が幸福な時には、素早く動く(si mobile)光が頬を照らした。その光は肌を液状(fluide)で、ぼんやり(vague)したものに見せた。
そして、肌からは下に隠れた数々の視線(des regards sous-jacents)のようなものが浮き出たという。
それは一体何だろう?
それらのために、頬の肌(la peau)は別の色に見えるのだが、しかし、目と異なる材質(une autre matière que les yeux)には見えない。この部分も私にはうまく理解できない。
この一節から、私には、幸福な時には頬がキラキラと輝き、普段とは色が違っていた、ということしか理解できない。
ちなみに、鈴⽊道彦は次のように訳している。
別なときには、幸福感にかられて、これらの頬は激しく動く明るい光に包まれて、皮膚は溶けてぼんやりとかすみ、下にひそむ視線のようなものがあらわれるが、その視線のために皮膚は、実際の目とは別の色をした、しかし同じ物質でできたものに見えた。
皮膚が溶けて下に潜む視線のようなものが現れるあらわれるという部分も、実際の目と同じ物質でできたもののように見えるという部分も、やはりよくわからない。
(4)魂に近づく
quelquefois, sans y penser, quand on regardait sa figure ponctuée de petits points bruns et où flottaient seulement deux taches plus bleues, c’était comme on eût fait d’un œuf de chardonneret, souvent comme une agate opaline travaillée et polie à deux places seulement, où, au milieu de la pierre brune, luisaient, comme les ailes transparentes d’un papillon d’azur, les yeux où la chair devient miroir et nous donne l’illusion de nous laisser, plus qu’en les autres parties du corps, approcher de l’âme.
時々、そうしたことを考えず、、褐色の小さな斑点があちことにある、より青い二つの染みが浮いている彼女の顔を見た時、それはちょうどコシキヒワの卵のようだと思ったし、細工がほどこされ、二箇所だけ磨かれたオパール色の瑪瑙のようだと思うこともしばしばあった。その褐色の宝石の真ん中には、真っ青なチョウの透明な羽根のように、目が輝いていた。そこでは肉が鏡になり、肉体の別の場所でよりも、私たちが魂に近づいているという幻想を抱かせるのだ。
「私」の視線が、アルベルティーヌの丸みを帯びた顔から、さらに目へと進み、彼女の魂に近づいたような思いを抱くこともあった。
彼女の顔(sa figure)には、小さな褐色の斑点(de petits points bruns)があちこちにあり(ponctuée)、二つのより青い染み(deux taches plus bleues)が浮いていた(flottaient)。
また、全体の形は、コシキヒワの卵(un œuf de chardonnere)のようだった。
そうした顔が、しばしば、オパール色の瑪瑙(une agate opaline)を連想させた。
二つの場所(à deux places)だけが磨かれていたというのは、顔の二つの染み(deux taches)と対応し、後に出てくる目(les yeux)へと繋がる。
褐色の石(la pierre brune)は彼女の肌の色を思わせ、その中で、目(les yeux)は、真っ青なチョウ(un papillon d’azur)の透明な羽根(les ailes transparentes)のように輝いていた(luisaient)。
「私」は、その目に関して、あえて肉(la chair)という物質的な側面を取りだし、それが鏡(miroir)となることで、非物質的な魂(l’âme)に近づく(approcher)という思いを抱くことになった。
そうすることで、目に見えるものが目に見えないものを感じさせることの不思議さを際立たせ、「幻想(l’illusion)」という言葉に強い意味を与えようとしたのだろう。
(5)普段以上に生き生きとしている時のアルベルティーヌ
Mais le plus souvent aussi elle était plus colorée, et alors plus animée ;
しかも、もっとも多くの場合、彼女はより色彩に富み、そうした時にはより生き生きとしていた。
ここでも、外見(色)と内面(生き生き)という生理学的な関係が簡潔に示され、そうした時の彼女がどのような存在なのか、以下の2つの状態が描かれる。
(5−1)仔猫的魅力
quelquefois seul était rose, dans sa figure blanche, le bout de son nez, fin comme celui d’une petite chatte sournoise avec qui l’on aurait eu envie de jouer ;
時に、バラ色なのは、白い顔の中で、鼻の先だけだった。その細さは、ちょっと遊んでみたくなるような、悪ふざけ好きなメスの仔猫の鼻先のようだった。
白い顔の中で、ほっそりとした鼻先(le bout de son nez)だけがバラ色の時、メスの仔猫(une petite chatte)を連想させる。
悪ふざけが好き(sournouise)で、思わず遊んでみたくなるのは、ネコでもあり、アルベルティーヌでもある。
(5−2)背徳的な官能性
「私」の視線が向けられる中心は、彼女の頬の色。その色彩の変化がアルベルティーヌの官能性の高まりを伝え、それに従って「私」の欲望も変化する。
quelquefois ses joues étaient si lisses que le regard glissait comme sur celui d’une miniature sur leur émail rose, que faisait encore paraître plus délicat, plus intérieur, le couvercle entr’ouvert et superposé de ses cheveux noirs ; il arrivait que le teint de ses joues atteignît le rose violacé du cyclamen, et parfois même quand elle était congestionnée ou fiévreuse, et donnant alors l’idée d’une complexion maladive qui rabaissait mon désir à quelque chose de plus sensuel et faisait exprimer à son regard quelque chose de plus pervers et de plus malsain, la sombre pourpre de certaines roses, d’un rouge presque noir ;
時々、彼女の頬はとてもすべすべで、視線が、小さな人形の視線のように、バラ色の琺瑯(ほうろう)の上を滑っていた。その視線をさらに繊細に、さらに内に秘めたものにしていたのは、半ば開かれた蓋のように重ね合わされた彼女の黒い髪だった。頬の色が、シクラメンの紫がかったバラ色に達することもあった。そして、時々、彼女が熱っぽかったり、実際に熱があるとかした時があり、そんな時には、病的な体質をしているのではないかと思わせた。そう考えると、私の欲望はより性的な何かへと落ち込み、そして、彼女の視線はより背徳的で、より不健全な何かを表現した。何本かのバラの暗い紫色、ほとんど黒といえるほどの赤い何かだった。
生き生きとしているアルベルティーヌの頬(ses joues)はすべすべ(lisses)していて、肌はバラ色の琺瑯(leur émail rose)を思わせる。
また、黒い髪が、半ば開かれた蓋(le couvercle entr’ouvert)のように、ばらばらと重ね合わされている(superposé)。
その二つの外見を組み合わせることで、プルーストは、バラ色に、デリケートで(délicat)という感覚と、内的なもの(intérieur)という内的な感情を付与していく。
色彩という物理的な現象が人間の内面の表現でもあるということが、ここでも示されている。
色彩に関する記述は、アルベルティーヌの体質と同時に、「私」が彼女に対して感じる欲望を掻き立てることにもつながる。
実際、シクラメンの紫がかったバラ色(le rose violacé du cyclamen)、バラの暗い紫色(la sombre pourpre)、黒といえるほどの赤(’un rouge presque noir)といった表現が使われ、より複雑さを増していく。
アルベルティーヌのおびる熱が彼女の頬を紫がかったバラ色にしたとすれば、その色は、彼女から発散する官能性の印と考えてもいい。
そして、その変化に応じて、「私」の欲望は今までよりももっと官能的(plus sensuel)になり、彼女の視線に、より背徳的(plus pervers)で、より不健全(plus malsain)な何ものかを見出す。
プルーストは、こうして6つのアルベルティーヌの生理学的な姿を描き出した後で、次のような言葉を付け加える。
et chacune de ces Albertines était différente comme est différente chacune des apparitions de la danseuse dont sont transmutées les couleurs, la forme, le caractère, selon les jeux innombrablement variés d’un projecteur lumineux.
そうしたアルベルティーヌのそれぞれが、異なっていた。ちょうど、姿を現す度に違っている踊り子のようだ。彼女の様々な色彩、形、性格は、明るい投光器の数限りない動きに従って変化するのだ。
舞台の上の踊り子は、投光器の光の微妙な変化で、色も形も違って見える。そして、その違いは性格にも違いをもたらす。
アルベルティーヌもその場その場で異なる姿を現し、それぞれが別のアルベルティーヌなのだ。

異なるアルベルティーヌに対する時、「私」もその場その場で異なった存在になる。
C’est peut-être parce qu’étaient si divers les êtres que je contemplais en elle à cette époque que plus tard je pris l’habitude de devenir moi-même un personnage autre selon celle des Albertines à laquelle je pensais : un jaloux, un indifférent, un voluptueux, un mélancolique, un furieux, recréés, non seulement au hasard du souvenir qui renaissait, mais selon la force de la croyance interposée pour un même souvenir, par la façon différente dont je l’appréciais.
たぶん、とても多様な存在を、その時期、私は彼女の中に見ていたのだが、その後、私は自分自身が別の人間になるという習慣を持った。その変化は、私がたくさんのアルベルティーヌのうちの一人を考えているのと対応してのことだった。嫉妬深い男、無関心な男、官能的な男、憂鬱な男、怒りっぽい男、そうした人間になるのは、生まれてくる思い出の偶然によるのではなく、一つの思い出に向けられた思いの強さに応じてであり、私がその思いを評価する方法の違いによってだった。
「私」はアルベルティーヌの中に様々な(divers)存在(les êtres)を見た。そして、彼女の異なる様態に対応して(selon celle des Albertines)、「私」も別の人間(un personnage autre)になっていた。
実際、思い出す彼女の姿の違いによって、「私」は、嫉妬深い男(un jaloux)、無関心な男(un indifférent)、官能的な男(un voluptueux)、憂鬱な男(un mélancolique,)、怒りっぽい男(un furieux)になった。
その違いは、偶然に(au hasard)思い出されるアルベルティーヌの姿によって作り出される(recréés)のではないと、プルーストは言う。
では、何によるのか?
「私」は、同じ一つの思い出に対して(pour un même souvenir)、その思い出を評価する(je l’appréciais)仕方によって、信じる力(la force de la croyance)が違ってくる。その力の強さに応じて、「私」が嫉妬深かったり、無関心であったりという変化が生まれたのだという説明がなされている。
この説明は少し分かりにくいのだが、次のより具体的な記述が付け加え、プルーストが何を意図しているのかがわかってくる。それは、過去の思い出に対する現在の思いこそが、記憶の核心であるという考え。
Car c’est toujours à cela qu’il fallait revenir, à ces croyances qui la plupart du temps remplissent notre âme à notre insu, mais qui ont pourtant plus d’importance pour notre bonheur que tel être que nous voyons, car c’est à travers elles que nous le voyons, ce sont elles qui assignent sa grandeur passagère à l’être regardé.
常にそこに戻っていかなけれらならなかった。それらの思いへと戻らなければならなかった。それらの思いは、多くの場合、私たちの知らないうちに私たちの魂を満たしている。そして、私たちの幸福にとって、私たちが現在目にしている存在よりも多くの重要性を持っているのだ。なぜなら、それらの思いを通して、私たちは人を見ていて、それらの思いこそが、見られている人に対して、束の間の偉大さを与えているからだ。
つい忘れがちになるのだが、過去の出来事を思い出すのは現在である。そして、思い出の意味は、過去の出来事を今どのように考えているかにかかっている。
こう言ってよければ、思い出とは現在の出来事なのだ。従って、思い出に対してどのような思いを持つかは、思い出す人間の今を表すことになる。
私たちが今見ている人(tel être que nous voyons)というのは、私たちの知覚が捉える対象。つまり、五感で捉える人物像。
それに対して、私たちが思い出について抱いている思い(ces croyances)は、私たちの知らないうちに(à notre insu)、私たちの魂(notre âme)を満たしている。
つまり、一方は知覚、他方は魂に関係する。
だからこそ、私たちの幸福は、思い出に対する考えと関係するのだとプルーストは言う。
記憶に関するこうした思索が、『失われた時を求めて』の思想的な土台に他ならない。
思い出された人物や出来事は過去の再現ではなく、現在の創造であり、それは魂を含めた人間存在全体の表現なのだ。
この一節の最後で言及される束の間の偉大さ(sa grandeur passagère)という表現も、思い出の現在性から理解する必要がある。
今という時は一瞬のうちに過ぎ去ってしまう。決して今が消え去るのを止めることはできない。その意味では、今は儚い。
しかし、思い出が今の根底にあるとすれば、今の中には過去の記憶が含まれ、持続するものと見なされる。束の間に流れ去っていくとしても、その今は思い出となり、次の今の中で記憶として思い出される。
束の間の偉大さとは、そうした記憶を含む今のあり方を指し示している。
「私」の思い出の中で、一人のアルベルティーヌが様々な姿で現れた。そのどれか一つが本当の彼女であり、後は偽りの彼女というのではない。どれもがアルベルティーヌであり、そして、それぞれの彼女の姿に応じて、「私」のあり方も変わった。
そうした考察を通して、思い出が人間にとって持つ意味が明らかになる。
目の前にしている一人の人間を認識する際には、知覚が働く。それに対して、思い出は人間のより深い部分、プルーストの言葉を借りれば、魂と関係する。
アルベルティーヌの変容、それに伴う「私」の変容をたどることは、現在がたとえ束の間に消え去るとしても、しかしそこには記憶に基づく持続があり、それこそが人間の生であることを確認することにつながる。
『失われた時を求めて』が私たち読者に伝える最も根本的なメッセージは、そうした時間意識に他ならない。
私たちは今を生き、この瞬間しか生きられない。しかし、その瞬間には過去の記憶が含まれ、今は持続する。記憶は今の創造であり、私たちの今の姿の表現なのだ。
これまで読んで来た一節を読み返してみると、そうしたプルーストの世界観をはっきりとつかみ直すことができるだろう。
Certains jours, mince, le teint gris, l’air maussade, une transparence violette descendant obliquement au fond de ses yeux comme il arrive quelquefois pour la mer, elle semblait éprouver une tristesse d’exilée. D’autres jours, sa figure plus lisse engluait les désirs à sa surface vernie et les empêchait d’aller au delà ; à moins que je ne la visse tout à coup de côté, car ses joues mates comme une blanche cire à la surface étaient roses par transparence, ce qui donnait tellement envie de les embrasser, d’atteindre ce teint différent qui se dérobait. D’autres fois le bonheur baignait ses joues d’une clarté si mobile que la peau devenue fluide et vague laissait passer comme des regards sous-jacents qui la faisaient paraître d’une autre couleur, mais non d’une autre matière que les yeux ; quelquefois, sans y penser, quand on regardait sa figure ponctuée de petits points bruns et où flottaient seulement deux taches plus bleues, c’était comme on eût fait d’un œuf de chardonneret, souvent comme une agate opaline travaillée et polie à deux places seulement, où, au milieu de la pierre brune, luisaient, comme les ailes transparentes d’un papillon d’azur, les yeux où la chair devient miroir et nous donne l’illusion de nous laisser, plus qu’en les autres parties du corps, approcher de l’âme. Mais le plus souvent aussi elle était plus colorée, et alors plus animée ; quelquefois seul était rose, dans sa figure blanche, le bout de son nez, fin comme celui d’une petite chatte sournoise avec qui l’on aurait eu envie de jouer ; quelquefois ses joues étaient si lisses que le regard glissait comme sur celui d’une miniature sur leur émail rose, que faisait encore paraître plus délicat, plus intérieur, le couvercle entr’ouvert et superposé de ses cheveux noirs ; il arrivait que le teint de ses joues atteignît le rose violacé du cyclamen, et parfois même quand elle était congestionnée ou fiévreuse, et donnant alors l’idée d’une complexion maladive qui rabaissait mon désir à quelque chose de plus sensuel et faisait exprimer à son regard quelque chose de plus pervers et de plus malsain, la sombre pourpre de certaines roses, d’un rouge presque noir ; et chacune de ces Albertines était différente comme est différente chacune des apparitions de la danseuse dont sont transmutées les couleurs, la forme, le caractère, selon les jeux innombrablement variés d’un projecteur lumineux. C’est peut-être parce qu’étaient si divers les êtres que je contemplais en elle à cette époque que plus tard je pris l’habitude de devenir moi-même un personnage autre selon celle des Albertines à laquelle je pensais : un jaloux, un indifférent, un voluptueux, un mélancolique, un furieux, recréés, non seulement au hasard du souvenir qui renaissait, mais selon la force de la croyance interposée pour un même souvenir, par la façon différente dont je l’appréciais. Car c’est toujours à cela qu’il fallait revenir, à ces croyances qui la plupart du temps remplissent notre âme à notre insu, mais qui ont pourtant plus d’importance pour notre bonheur que tel être que nous voyons, car c’est à travers elles que nous le voyons, ce sont elles qui assignent sa grandeur passagère à l’être regardé.