プルースト「見出された時」 Proust Le Temps retrouvé 現実という隠喩

プルーストが私たちの教えてくれるものの中で最も根本的なのは、現実は重層的なものだという認識である。今体験している現実には、過去の記憶が含まれると同時に、未来の出来事の先駆けともなる。
そして、そうした現実のあり方は、言語のあり方とも対応する。言葉も一元的な意味を指し示すだけではなく、隠喩的な働きをする。つまり、直接的な意味とは異なる意味を暗示し、重層的な世界像を作り出す。

『失われた時を求めて(À la recherchue du temps perdu)』はそうした現実認識と言語観に基づいて構成されているのだが、最終巻である『見出された時(Le Temps retrouvé)』に至り、その仕組みが読者にはっきりとわかる形で伝えられていく。
ここではその一端を読み解いていこう。

Une image offerte par la vie nous apporte en réalité, (…) des sensations multiples et différentes. La vue, par exemple, de la couverture d’un livre déjà lu a tissé dans les caractères de son titre les rayons de lune d’une lointaine nuit d’été. Le goût du café au lait matinal nous apporte cette vague espérance d’un beau temps qui jadis si souvent, pendant que nous le buvions dans un bol de porcelaine blanche, crémeuse et plissée, qui semblait du lait durci, se mit à nous sourire dans la claire incertitude du petit jour.

現実の生活の中で目にする物の姿は、実際、数多くの異なった感覚をもたらす。例えば、すでに読んだことのある本の表紙を見ることは、その題名の文字の中に、ずっと以前の夏の夜に見た月の光を織り込むことだった。朝のカフォオレの味は私たちに、いい天気になるだろうという漠然とした期待をもたらす。かつて何度も、朝カフェオレを飲んでいる時、お椀の白い瀬戸物はクリーム状で皺がより、凝固した牛乳のように見えたが、いい天気を期待する思いが、早朝の不確かな光線の中で、私たちに微笑み始めたのだった。

Une image offerte par la vieというのは、私たちが現実に目にするものの姿。
例えば、私たちは目の働きで、一冊の本を見る。その見え姿をプルーストはune imageと表現する。そして、一般的は、物を見るとは、その姿を見ることだけで終わる。
それに対して、プルーストはそこで終わらず、見えている本を通して、私たちは過去の記憶を甦らせたり、近い未来のことを思ったりするのだという。

すでに読んだことのある本(un livre déjà lu)の表紙に書かれている題名(son titre)の文字(les caractères)から過去の記憶が甦り、かつての夏の夜(une lointaine nuit d’été)に見た月の光(es rayons de lune)を思い出す。

物だけではなく、行為に関しても同じことが起こる。
朝カフェオレを飲んでいると、その味が、今日も天気がよくなる(un beau temps)だろうという漠然とした期待(cette vague espérance)を抱かせる。その理由は、以前よくカフェオレを飲んでいて、早朝のまだおぼろげな光の中で(la claire incertitude du petit jour)、いい天気になり始めた(se mit à)という体験があったからだった。

ここでは、現在が近い未来を予測させるだけではなく、過去の体験も含まれ、時間が二重に重ね合わされている。

また、カフェオレを飲むお椀(un bol)の瀬戸物(porcelainre)の白さは、早朝の太陽の光を思わせる。
クリーミーで( crémeuse)、皺がより(plissée)、凝固したミルク(du lait durci)のように見えた瀬戸物は、プルーストが感じた不確かな光(la claire incertitude )の隠喩だと考えることができる。

こうした具体的に例を示した後で、「現実とは何か」という問題が理論的に語られることになる。

Une heure n’est pas qu’une heure, c’est un vase rempli de parfums, de sons, de projets et de climats. Ce que nous appelons la réalité est un certain rapport entre ces sensations et ces souvenirs qui nous entourent simultanément — rapport que supprime une simple vision cinématographique, laquelle s’éloigne par là d’autant plus du vrai qu’elle prétend se borner à lui — rapport unique que l’écrivain doit retrouver pour en enchaîner à jamais dans sa phrase les deux termes différents.

一時間が単に一時間でしかないということはない。一時間という時間は、様々な香水、音、計画、気候で満たされた花瓶なのだ。私たちが現実と呼ぶものは、それらの感覚と、私たちを同時に取り囲む思い出との間の、何らかの関係である。— 映画的な単純な映像はその関係を削除してしまう。そうした映像は、真実だけに留まると言い張れば言い張るだけ、真実から遠ざかっていく。 — その唯一の関係を作家は見つけ出し、自分の文章の中に、関係の異なる二つの極を、永遠につなぎ止めなければならない。

この一節は、プルーストが現実をどのように捉え、小説家として何をしようとしたのか、私たちにはっきりとわからせてくれる。
その根本にあるのは、「現実」は「現在の知覚」と「過去の記憶」の関係の上に成り立つという考え。

映画的な単純な映像(une simple vision cinématographique)というのは、知覚している物の姿であり、それだけでは決して真実(vrai)に到達しない。

花瓶(un vase)は一時間という時間の比喩として用いられているが、「現実」の隠喩でもある。
時間は決して単なる計量の単位ではなく、人間の生で満たされている。
五感によって知覚される香水(parfums)や音(sons)だけではなく、人間が抱く様々な計画(projets)や、人間を取り囲む気象(climats)も、時間の流れの一部と見なされる。
現実とは、そうした全てを含む花瓶なのだ。

そして、作家の仕事は、知覚と記憶という二つの極(deux termes)の関係を、文章(sa phrase)の中で繋ぎ合わせることだと、プルーストは主張する。
そして、より具体的に作家の行為を説明する。

On peut faire se succéder indéfiniment dans une description les objets qui figuraient dans le lieu décrit ; la vérité ne commencera qu’au moment où l’écrivain prendra deux objets différents, posera leur rapport, analogue dans le monde de l’art à celui qu’est le rapport unique de la loi causale dans le monde de la science, et les enfermera dans les anneaux nécessaires d’un beau style, ou même, ainsi que la vie, quand, en rapprochant une qualité commune à deux sensations, il dégagera leur essence en les réunissant l’une et l’autre, pour les soustraire aux contingences du temps, dans une métaphore, et les enchaînera par le lien indescriptible d’une alliance de mots.

一つの描写の中で、描かれた場所に現れた対象を、次々と無限に連続させることができる。真実が始まるのは、次の瞬間からだろう。つまり、作家が二つの異なった対象を取り上げ、それらの関係を確定する瞬間。芸術の世界の中でのそれらの関係は、科学の世界では、因果律の法則という唯一の関係と類似している。そして、作家は、二つの対象を美しい文体の必然的な輪の中に閉じ込めることになる。あるいは、現実に生きているのと同じように、二つの感覚に共通する質を近づけ、それらを時間の偶発性から遁れさせるために、一つの隠喩の中でそれらを互いに結びつけ、それらの本質を発散させることになる。そして、言葉の組み合わせの描写不可能な繋がりによって、それらを繋ぎ合わせる。

プルーストが常に重視するのは、「関係(rapport)」。それは作家にも当てはまる。
科学の世界では因果律が正しい法則として認定されている。作家は、芸術の世界において、それと類似した関係を二つの事物の間に確定することが求められる。
そして、その関係の上に立ち、それらの事物を、美しい文体(un beau style)の文によって表現する。その文の繋がりに関して、必然的な輪(les anneaux nécessaires)という表現の「必然性」とは、作家が捉えた事物の関係が、科学における因果律と同様に、必然的なものであることを示している。

そう記した後で、さらにもう一歩踏み込み、プルースト自身の文章の秘密ともいえることを明らかにする。そのポイントは、「隠喩(une métaphore)」という言葉。
隠喩は、目に見える物を指示しながら、それと同時に、直接指示されない物を暗示する。

隠喩的な視点ではなく、ある物を一つの映像(une image)として見るだけの場合、それは時間の流れの中で、その時そのような姿に見えるだけであり、その本質を捉えているとはいえない。
時間の偶発性(contingences du temps)とは、そうした見え姿が必然的なものではなく、偶発的なものだということを意味している。

隠喩的な世界観を持つ作家が事物を捉える時には、そうした偶発性から遁れ、エッセンス(leur essence)を浮かび上がらせる(dégagera)。
そのためには、二つの事物に対して感じる感覚(deux sensations)に共通する質(une qualité)を接近させ、それらを一つの隠喩(une mataphore)の中で繋ぎ合わせなければならない。
別の言葉でいい変えると、隠喩とは言葉の組み合わせ(une alliance de mots)の描写不可能な繋がり(le lien indescriptible)ということになる。

こうした説明の後、プルーストは「自然(la nature)」を取り上げ、具体的な例を示す。

La nature elle-même, à ce point de vue, ne m’avait-elle pas mis sur la voie de l’art, n’était-elle pas commencement d’art, elle qui souvent ne m’avait permis de connaître la beauté d’une chose que longtemps après, dans une autre, midi à Combray que dans le bruit de ses cloches, les matinées de Doncières que dans les hoquets de notre calorifère à eau ? Le rapport peut être peu intéressant, les objets médiocres, le style mauvais, mais tant qu’il n’y a pas eu cela il n’y a rien eu.

そうした観点から見ると、自然それ自体が、私を芸術の道に置いたのではなかっただろうか? 自然が芸術の第一歩ではなかっただろうか? 自然が私に一つのものの美しさを分からせてくれるのは、ずっと後になってからだった。コンブレイにいる時の正午に別のものの中で。あるいは、ドンシエールの駐屯地に滞在中の午前中に耳にする教会の鐘を聞きながら。湯沸かしの音のブツブツいう音を耳にする時もあった。関係があまり興味深くないこともある。事物が平凡なことも、文体が悪いこともある。しかし、それらがない限り、何も存在しなかった。

芸術は、自然の事物を描くことで、それらの美を教えてくれる。そうした芸術観に立った上で、プルーストは、自然が芸術(l’art)の第一歩(commencement)だという。
その言葉は、自然はそれ自体で、芸術的な働きをするものだということを意味していると考えていいだろう。

ある一つの物は、記憶の中のある情景との類似によって結び合わされる時、美として認識される。思い
1)主人公が幼い頃を過ごしたコンブレーで正午に(midi)見たある別の物(une autre chose)。
2)ドンシエールという駐屯地にいる頃、朝になると聞こえてきた教会の鐘の音(le bruit de ses cloches)。
3)湯沸かし器(notre calorifère à eau)の、しゃっくりのような音(les hoquets)。

コンブレーで見たある物も、ドンシエールの鐘の音も、湯沸かし器の音も、それを知覚した時には、美しいとは思わない。
しかし、後になって、別のあるものから、それらを思い出した時、つまり知覚と記憶が重なる時、それらが美しいと感じられる。
そうしたあり方が、芸術作品を通して自然を再体験し、美を感じるという芸術観と対応している。

ただし、全ての物がそのような働きをするわけではない。
関係(le rapport)が興味深くない(peu intéressant)こともある。対象(les objets)がつまらない(médiocres)ことも、文体(le style)が悪い(mauvais)こともある。
そうしたものであっても、なければ何も起こらない。しかし、プルーストが目指す美は生成しないだろう。

ここで興味深いのは、前に隠喩について言及された時、美しい文体(un beau style)と言われていたこと。作家であるプルーストにとって、悪い文体(le styple mauvais)では知覚と記憶の類似を美的に喚起できないという思いが、ここで表現されている。


こうした記述を読んでくると、プルーストの世界において、隠喩の果たす大きな役割が見えてくる。
彼にとって、現実とは知覚と記憶が重層化したものであり、その二つの層は類似関係にある。その関係は、一つのものがそこには示されていない別のものを暗示する隠喩的だといえる。

そのように考えた時、『失われた時を求めて』を構成する文章自体、隠喩的であることに気付く。
プルーストの文章に関しては、しばしば、一文が長く、複雑な構造を持つことに注目されてきた。実際、1文が1ページに及ぶようなことがあり、理解が難しいと言われたりもする。

しかし、文の長さよりも隠喩的表現に、「知覚」と「記憶」の類似に基づく世界観が反映している。現実が隠喩的であるからこそ、それを描く文も隠喩的なのだ。
『失われた時を求めて』を読む楽しみは、そうした隠喩表現をたどることにある。

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