
ボードレールはエドガー・ポーの影響を強く受け、アメリカの詩人の詩や詩論を積極的に翻訳し、19世紀後半の文学に大きなインパクトを与えた。マラルメはその洗礼を真正面から受けた詩人であり、ポーの詩を英語で読むために、イギリスに留学したと言われることもある。
その二人の詩人が、ポーの代表的な韻文詩「大鴉(The Raven)」を訳している。
もちろん、マラルメはボードレールの翻訳を参照しながら、自分の訳文を構成しただろう。ポーの原詩の横にボードレールの訳を置き、必死に自分なりの訳を考えている姿を想像してみると、急にマラルメに親しみが湧いてきたりする。
ここでは、18の詩節で構成される「大鴉」の第1詩節を取り上げ、ポーの原文とボードレール、マラルメのフランス語訳を比較して読んでいこう。
Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary,
Over many a quaint and curious volume of forgotten lore—
While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping,
As of some one gently rapping, rapping at my chamber door.
“Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door—
Only this and nothing more.”
Une fois, sur le minuit lugubre, pendant que je méditais, faible et fatigué, sur maint précieux et curieux volume d’une doctrine oubliée, pendant que je donnais de la tête, presque assoupi, soudain il se fit un tapotement, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre. « C’est quelque visiteur, — murmurai-je, — qui frappe à la porte de ma chambre ; ce n’est que cela, et rien de plus. » (Baudelaire)
Une fois, par un minuit lugubre, tandis que je m’appesantissais, faible et fatigué, sur maint curieux et bizarre volume de savoir oublié — tandis que je dodelinais la tête, somnolant presque : soudain se fit un heurt, comme de quelqu’un frappant doucement, frappant à la porte de ma chambre — cela seul et rien de plus. (Mallarmé)
(1) Once upon a midnight dreary : Une fois, sur le minuit lugubre // Une fois, par un minuit lugubre
Once upon a timeは、昔話や童話の冒頭に使われる表現で、日本語にすれば、「昔々あるところに」という表現に対応する
ポーはその表現を下敷きにして、One upon a dignightとした。つまり、そうすることで、この詩があたかも昔話のような荒唐無稽でありながら、しかし人間にとって本源的な意味を持つことを暗示しようとしたに違いない。
そこで、ボードレールもマラルメも、フランス語でそれに対応する Il y avait une fois という表現を踏まえた上で、Une fois という言葉を用いた。もちろん、「一度」という意味ではなく、「かつて、昔ある時に」といった意味。
a mid night drearyのdreary(陰鬱な、もの悲しい)という形容詞に対して、二人の訳者ともlugubre(陰鬱な)という形容詞を用いる点では共通している。
他方、upon a midnightに関して、二人の訳は違っている。ボードレールはsur le minuit 、マラルメはpar un minuit。
ボードレールはminuit(真夜中)に定冠詞を付け、前置詞surと共に、出来事がまさにその時に起こったという限定された時間を表現する。
マラルマが使う前置詞はparであり、さまにその時というよりも、むしろ「真夜中の間に」といった意味になり、minuitには不定冠詞が付けられている。
そのように考えると、ボードレールの訳の方が切迫感があるが、他方、マラルメの訳からは時間の多少の幅が感じられ、その分はっきりといつかわからないことで、不可思議さや謎が深まるといえる。
(2) I pondered : je méditais // je m’appesantissais
ponder(熟考する)を、ボードレールはそのままméditer(メディテーションする、熟考する)としている。
マラルメは、s’appesantir(より重くなる、動きが不活発になる)とする。
ボードレールの翻訳が原文に忠実であろうとする。他方、マラルメは多少原文から離れても、詩的な効果を生み出そうとすると考えていいだろう
訳語の違いは、こうした二人の翻訳者の姿勢の違いを示している。
(3) quaint and curious : précieux et curieux // curieux et bizarre
quaint(古風な、風変わりな、趣のある)を、ボードレールはprécieux(貴重な)とし、curieux et précieuxと並べることで、ieuxの音を響かせる。
それに対して、マラルメは、bizarre(奇妙な)とより英語に近い意味の形容詞を使うのだが、二つの形容詞の順番を逆転して、curieuxをbizarreの前に置く。
こうすることで、ボードレールの訳からあえて距離を取ろうとしたのだろう。
(4) forgotten lore : une doctrine oubliée // savoir oublié
lore(言い伝え、知恵)に関して、ボードレールは具体的な内容を考え、une doctrine(教義)としたのだろう。
その反対に、マラルメは、savoir(知識)、つまり抽象的な知と解釈する。
(5) nearly napping : presque assoupi // somnolant presque
nap(うたた寝する、まどろむ)に対して、ボードレールもマラルメも、眠りを思わせる言葉を使う。
違いは、assoupiが状態を示すのに対して、somnolantは能動的な印象を与えること。
(6) here came a tapping : il se fit un tapotement // se fit un heurt
a tappingは、tap(コツコツと軽くたたく)という動詞の現在分詞を名詞として用い、その前に、不定冠詞のaが付けられている。
ボードレールはtapotement(音を立てる)という名詞を使い、英語のtapという音を連想させる。
その一方で、非人称のilを使い、次に動詞(se fit)とし、最後に意味上の主語であるun tapotementという語順の構文を用いる。
マラルメは、動詞の後に主語が置かれるポーの構文と同様に、動詞(se fit)の後に主語を置いている。
他方で、a tappingよりも激しくぶつかる印象を出すために、heurt(激しくたたくこと)という単語を使う。
(7) “’Tis some visitor,” I muttered, “tapping at my chamber door : « C’est quelque visiteur, — murmurai-je, — qui frappe à la porte de ma chambre // ナシ
マラルメはこの一節を完全に抜いてしまう。その理由は何か?
ポーは、Tis (It is) somme visitor(訪問者がいる)と言い、その訪問者がmy chamber door(部屋のドア)をたたく(tapping)という具体的な状況に言及する。
マラルメは、そうした具体的な記述がなくても状況は理解できるし、むしろ種明かしをしない方がミステリアスな雰囲気が増すと考えたに違いない。
それと同時に、詩句の音楽性に関して、ポーの詩句に対応するフランス語を工夫することをここではしない決心をしたのだろう。
ポーは、現在分詞のingを巧みにちりばめ、しかも、tapとrap(ノックする)を入れ替えることで、音的な効果を上げている。
tapping, rapping, rapping, tapping
ボードレールも、マラルメも、こうした音楽性をフランス語で再現することはしなかった。
tapotement, frappant, frappant, frappe (ボードレール)
heurt, frappant, frappant (マラルメ)
そのために、マラルメは、「誰かがやってきて、ドラをたたいている(tapping)」という、「私」の叫びに関する詩句を訳さないことにしたのだと考えられる。

こうして第1詩節の6行を読んでみるだけで、ボードレールの訳は原文からそれほど逸脱しないといえるが、マラルメは原文を離れたとしても、より詩的効果を高めると彼が考える方向に向かったといったことがわかってくる。
翻訳としてどちらがいいのかは評価が分かれるだろうが、「大鴉」の翻訳の読み比べから、ポーを軸としてボードレールとマラルメという二人の詩人を知ることができる。
そして、彼ら自身の詩句へのアプローチの一歩にもなる。