縄文土器・土偶 古代日本人の生命感

現代の私たちの目から見ても、縄文時代の土器や土偶は大変に魅力的な姿をしている。その魅力は、単に装飾的な奇抜さや美しさというだけではなく、何か呪術的な力を秘めているように感じられるところからも来ている。

縄文という名前は、発掘された土器に「縄目の模様」が付けられていたことから来ている。縄を複雑により合わせて模様を付ける技法は日本独自のものであり、模様の種類は百数十種類に及ぶという。

そのことは、「縄」が、新石器時代に日本列島に生きた人々の生活に深く入り込んでいたことの証だと考えられる。
縄は植物繊維を主な素材とし、繊維の束をより合わせて強度を高め、継ぎ足すことで長さを伸ばし、織ることで布を作ることもできる。縄文人は縄をよることで植物由来の素材を加工し、衣服など生活に必要なものを制作する一方、土器や土偶には縄を使い様々な模様を施した。

それらの土器や土偶を通して、縄文人の精神性の一端を知ることができないだろうか?
もしそれが可能であれば、8世紀初頭に『古事記』や『日本書紀』の中で文字によって表現された日本的心性の源泉を知ることに繋がるかもしれない。

縄文時代 気候変動と土器・土偶の変遷

日本の古代史は発掘された土器・土偶の意匠により、縄文時代と弥生時代に分割される。そのうち、縄文時代は、1万数千年前から2千数百年前までの約1万年の間続いた。

その期間中、約5千年前(紀元前3千年)を境にして、地球環境が大きく変化した。
北緯35度より北の地域、ギリシアやトルコのアナトリア高原では、気候が寒冷化し、湿潤化した。
その反対に、エイジプトやメソポタミアなど北緯35度より南の地域では乾燥化が起こり、その結果ナイル河やユーフラテス川の周辺に人々が集まり、古代文明を発展させた。

北緯35度以北の日本においても、縄文時代中期にあたるその時期に同様の気候変動が起こり、それまでの温かい気候が寒くなり、それに伴い、海面が下がったと考えられている。
そのために、海岸で貝殻や魚など取り、台地にあるドングリや栗など採集するといった生活が困難になり、人々は内陸部へ移動した。そして、ドングリや栗などをある程度栽培する技術が発達し、イノシシや鹿などの動物を狩猟し、サケやマスなど川で採れる魚を採集するといった生活が営まれるようになった。
その縄文時代の中期、とりわけ大量の土偶が作られたことが、発掘調査によって明らかにされている。(安田喜憲「縄文時代の時代区分と自然環境の変動」、伊東俊太郎編『日本人の自然観』所収)

こうした大きな時代の変遷を通して、土器の意匠にも大きな変化が見られる。前期は比較的装飾性が少なく、中期においては実用性を無視したような過剰な装飾が施されている。その後、弥生土器を思わせる比較的シンプルなものへと向かっていく。

土偶に関しては、時代が下るに従って、比較的簡素なものから造形性豊かなものへと進み、それにつれて具象性も増していった。

約1万年続く縄文時代の間に、土器や土偶の大きさや造形性にこうした変遷があり、人間だけではなく、イノシシ、熊、蛇、亀、カエル、イルカなど、動物や魚をかたどったものも制作された。
そうした中で、土偶には女性の姿をしたものが数多くあり、しかも妊婦の姿をしている。そのことには何らかの意味があるに違いない。

生命を生み出す力

縄文時代の土偶には、女性の出産を思わせる特色を持つものが数多くある。乳房と腹部が膨らみ、妊娠期の正中線が刻まれ、時には臍や女性器が描かれていたりもする。

これら三つの土偶を見ると、腹の膨らみはどれにも共通している。その上で、乳房が明確であったり、正中線がとりわけ強調されているなど、力点に違いがあることがわかる。

面白いことに、そうした造形が土器に施されていることもある。

これらの土器の取っ手の部分の顔が母親だとすると、左の土器では正中線がはっきりと描かれ、中央の土器の空洞は出産を象徴し、右の土器の中央の顔は生まれ出ようとする幼児のものだと考えられる。
こうした意匠は、出産を象徴する機能を持っていたに違いない。

その意味で、世界各地に広がる「地母神」の信仰と重なると考えてもいいだろう。生命を生み出す力を象徴する地母神には、豊穣や肥沃、多産への願いが込められていた。

ただし、一つ注意すべきことがある。地母神信仰は農耕文化と関連づけられることが多い。しかし、日本に農耕がもたらされたのは弥生時代と考えられており、縄文人たちは狩猟採集の生活を送っていた。その視点から見ると、縄文土器や土偶は、農耕文化の地母神と何らかのズレがあるに違いない。

萌え騰る生命の勢い

農耕と狩猟採集が人間の精神にどのような違いをもたらすのだろうか?
農耕の場合には、人間が一定の場所に定住し、土地を耕し、種をまき、植物を育て、収穫する。それに対し、狩猟採集においては、食料となる動物、魚介類、植物は全て野生であり、自然の恵みとして与えられる。
生成の過程で人間が主体的に関与するかしないかの違いは、生命現象をどのように考えるかということについて、決定的な重要性を持つ。

人間が主体的に食物の生産を行う社会=農耕社会では、人間の行為が生産と直結する。
地中にまかれた種は、地下で一定の時間を経て、芽を出し、実をつける。
地中を死の世界と考えれば、生命は死を経て誕生する。それはある意味では再生ともいえる。
人間であれば、精子が母胎の中に植え付けられ、一定の期間を経た後で生まれる。そのように考えると、大地と母は同じ役割を果たす。母なる大地、大地母神に対する信仰が生まれる。
死んだ女神が再生する「デメテールとペルセポネ型の神話」や、殺された神の死体から食物が生まれる「ハイヌウェレ型神話」は、こうした農耕社会の生命観を物語っている。

他方、生産に人間の関与を考えない場合には、動物も植物も自然に生まれ、人間はそれらを捕獲・採集するにすぎない。もしかすると、人間の誕生に関しても、生殖の役割が考慮されず、出産は自然現象の一つと考えられたかもしれない。
人間も自然の一部であり、同一の生命現象の現れにすぎない。土器や土偶の縄目の模様は、植物に代表される生命現象に対する畏敬の念や祈願だったのかもしれない。

その際の植物とは、人間が植える作物ではなく、自生する草や木。縄はそうした植物素材から作られ、有用であると同時に、力強く生まれる生命の表現にもなる。
実際、縄文土器の表現は大変に力強く、生き生きとしている。

左の土器は、「縄文の人々の世界観を土器に表現したもの。容器を母体にみたてた命の融合体であると考えられる。」(井口直司『縄文 土器・土偶』)
中央の土器は、口縁部が水煙りを思わせる立体的な曲線文のために、水煙文(すいえんもん)土器と呼ばれる。
右手の土器は、燃え上がる炎を思わせる形状と見なされ、火焔(かえん)型土器と呼ばれる。

その定説に意義を唱えるつもりはないが、しかし、水や火という先入観を取り除き、ただこの装飾を眺めると、必ずしも水と火である必要はないようにも見えてくる。
その場合、縄からの連想を発展させ、植物が大地から力強く生え出てくる姿と捉えることはできないだろうか?
人間が主体となり植える植物ではなく、自然に生まれ出てくる植物の力強い命の表現。

そのように考えると、『古事記』の冒頭の「天地初発之時」(あめつちのはじめのとき)に続く一節が思い出される。

次に、国稚(わか)く浮ける脂(あぶら)の如くして、海月(くらげ)なす漂へる時、葦芽(あしかび)の如く萌(も)え騰(あが)る物によりて成りし神、 (後略)(『古事記』)

ここで言葉にされる「葦」は、神が植えたものではなく、まだ世界が脂のようで固まらない時、自然に生えだした植物を思わせる。
そして、葦の芽が「萌え騰る」姿は、充満する生命のエネルギーを発散している。世界が生まれようとしているまさにその時の「いきほい」は、生きる力そのものを感じさせる。

『日本書紀』で同様に「葦牙(あしかび)」に言及される時、その直前に、あえて「故(かれ)曰(い)はく」と断り書きが挿入され、以下に続く部分が中国起源ではなく、日本の神話であることに注意が向けられる。
そして、混沌として浮游するものの中に土台あるいは大地が出現し、泥の中に葦の芽が発現するという、日本の起源神話が語られる。

時に、天地の中に一物(ひとつのもの)生(な)れり。状(かたち)葦牙(あしかび)の如し。(『日本書紀』)

日本が誕生する最初の段階において生まれる葦の芽、そして、その生命力のエネルギー、それこそが縄文時代の土器や土偶によって表現される力強い生命感を、起源8世紀の日本において伝える表現だった。そんな風に考えることができるとしたら、葦の芽の「萌え騰る」姿から、縄文の土器や土偶の姿を思い描いても、それほど間違っていないのではないか。

古代の日本人は、動植物といった生物だけではなく、山、川、森などの自然、そして無機物に至るまで、存在する全てのものに、生命の息吹を感じ取った。そして、何らかの聖性、言い換えれば人間の力を超えた何らかの力や働きを見出し、全ての物に霊が宿ると考えたのではないだろうか。
そして、縄文時代の土器や土偶は、力強く躍動感に富んだ表現によって、現代の私たちの根底に今でも流れる心の古層の意識を刺激する。そこにこそ縄文の魅力の根源がある。

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