フィリップ・ジャコテ 儚さのポエジー Philippe Jaccottet ou la poésie du petit rien

フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet)は、俳句から強いインスピレーションを受け、簡潔で直接的な言葉によって、山川草木や鳥や虫、季節の移り変わりを歌った。

『アリア(Airs)』 と題された詩集の冒頭に置かれた« Fin d’hiver(冬の終わり)»では、決して具体的な事物が描かれているわけではない。しかし、ジャコテの詩の根本に流れる通奏低音を私たちに聞かせてくれる。

まず、« Fin d’hiver »の最初の詩の第1詩節に耳を傾けてみよう。

Peu de chose, rien qui chasse
l’effroi de perdre l’espace
est laissé à l’âme errante

ほとんど何も無い 無が追い払うのは
空間を失うという恐怖
それが残されるのは 彷徨う魂

2行目の« l’effroi »(恐怖)は、1行目の« chasse »(追い払う)の目的語とも考えられるし、3行目の« est laissé »(残される)の主語とも考えられる。
そのどちらか(ou)というよりも、どちらでもある(et)と考えた方がいいだろう。

また、« rien qui chasse l’effroi …»(恐怖を追い払う無)という同格の表現によって補足された« peu de chose »(ほとんど何もない)が、«est laissé »の主語と考えることもできる。

このように、わずか三行の詩句が、巧みな構文上の工夫を施されることで、複数の解釈の可能性を生み出している。
そのことは、わずか17音で構成される俳句が、単純な事実の描写を超えて、深い人間的な真実を捉える可能性を持つことと対応していると考えてもいいだろう。

日本的な美意識を思わせるもう一つの要素がある。
それは、何もない、無、失う、彷徨うといった言葉が詩句の中心を占め、実体として存在するものではなく、空(くう)や無といった実体の希薄な儚さに焦点が当てられていること。

そうした特色は、西行法師が東北に向かう旅の途中で富士山を前に読んだ句でもはっきりと感じられる。

風になびく 富士の煙の 空に消えて ゆくへもしらぬ わが思ひかな (『新古今和歌集』)

西行を尊敬した松尾芭蕉も、儚さの俳人だった。

予もいづれの年よりか、片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず、海浜にさすらへ(後略)。 (『奥のほそ道』)

試しに、西行と芭蕉の言葉をフランス語にしてみよう。

Soufflée par le vent, la fumée du Mont Fuji disparaît au loin ! Qui connaît le destin de ma pensée, errant à sa suite ?

Moi aussi, depuis quelque année, invité par le vent chargé de nuages en lambeaux, sans cesser de penser au vagabondage, je vais errant par les grèves (…).

日本語と比べると、どこか靄が晴れたようで、客観的な表現のような印象を受けるが、それでも、はっきりとした実体のない風(le vent)が生命の息吹となっていることは感じられる。

「風」の言及は、『アリア(Airs)』のエピグラにも見られる。

Notre vie est du vent tissé.

「私たちの人生は、織られた風だ。」というジョゼフ・ジュベール(Joseph Joubert : 1754-1824)のこの言葉は、詩集全体の通奏低音となり、フィリップ・ジャコテのアリア的短詩を通して私たちの耳に常に聞こえてくる。

« Fin d’hiver »の最初に置かれた詩の第2詩節は、次のように続く。

Mais peut-être, plus légère,
incertaine qu’elle dure,
est-elle celle qui chante
avec la voix la plus pure
les distances de la terre

でも、たぶん、もっと軽く、
それが続くかも不確かなのだが、
彷徨う魂は、歌う魂ではないのか、
この上もなく純粋な声で
大地の距離を

冬が終わり(fin d’hiver)、春になろうとする。その時、魂(l’âme)は、冬の間よりも軽く(légère)なるかもしれない。なぜなら、そこにはpeu de chose, rienしか残されていないから。
他方、それが永続する(dure)かどうかはわからない。不確かだ(incertaine)。

そうした中で、魂は歌い始める(chante)。
その声(la voix)は、最も純粋(la plus pure)。
歌うのは、大地の様々な距離(les distances de la terre)。
Les distancesと複数形なので、魂は、一つの場所だけではなく、様々なところを彷徨うのだろう。
芭蕉の言葉を借りれば、「海浜にさすらえる」。

そのように考えると、第1詩節の「空間を失う恐怖(l’effroi de peredre l’espace)」の空間とは、冬の間に閉じこもっていた今いる狭い空間のことかもしれない。動き出し、既存の場所から離れることへの恐れは、誰もが感じることだろう。
その冬も終わりに近づき、「片雲の風にさそはれて、漂泊の思ひやまず」、心はふらふらと放浪を夢見るようになる。

それは、木々や草花の芽が吹き出し始めようとしている姿かもしれない。

フィリップのパートナー、アンヌ=マリ・ジャコテは、よく知られた画家だという。彼女の絵画の淡い色彩やタッチは、フィリップ・ジャコテの詩句と共鳴している。

こうした絵を思い浮かべながら、も詩句全体にもう一度目を通してみよう。

Peu de chose, rien qui chasse
l’effroi de perdre l’espace
est laissé à l’âme errante

Mais peut-être, plus légère,
incertaine qu’elle dure,
est-elle celle qui chante
avec la voix la plus pure
les distances de la terre

これらの詩句は、和歌や俳句の具象性とは正反対の言葉で綴られている。しかし、「ひたすら自らを消し、自らを無にすることで、自らが生まれさせ、指示するものだけを引き立たせようとする」(« l’Orient limpide »)とジャコテが言う俳句的傾向は、日本の伝統的な精神と共通していると考えることもできる。

フィリップ・ジャコテは俳句に「透明な光」を感じたが、« Peu de chose »で始まる詩句たちも同じ光で輝いている。

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