
フィリップ・ジャコテ(Philippe Jaccottet : 1925-2021)の詩は、非常に簡潔で透明な言葉で綴られながら、豊かなイメージの連鎖を読者の中に掻き立てる。
そんな詩は、彼が日本の俳句に興味を持っていたことと関係している。
ジャコテにとっての俳句とは、一見無意味に見える遠く離れたものの間に存在する隠れた関係を捉え、その関係を私たちに教えてれるもの。それを知ることで、私たち自身の人生が変わることさえある。
そんな考えを持つフィリップ・ジャコテは、2021年に亡くなるまで、南フランスのドローム県にあるグリニャンという小さな町に住み、身近な自然の光景を短く透明な言葉で綴ってきた。
ここでは、『アリア集(Airs)』に収められた« Lune d’hiver »(冬の月)を読んでみよう。
Lune d’hiver
Pour entrer dans l’obscurité
Prends ce miroir où s’éteint
un glacial incendie :
atteint le centre de la nuit,
tu n’y verras plus reflété
qu’un baptême de brebis
冬の月
闇の中に入るには
この鏡を手に取ること。消えていくのは
凍てつく火災。
夜の中心に達すること。
お前がそこで見るのは、映っている
子羊の洗礼だけ。

読者は、« Pour entrer dans l’obscurité »と音をたどり、闇の中に入って行く。そして« prends ce miroir »と命じられるがままに鏡を手に取る。すると、« s’éteint »と何かが消えていくのが見える。そして、« un glacial incendie »と音をたどることで、消えていくのが何か燃えるものだということがわかる。
その燃えるものに関して、ジャコテは不思議な説明を加える。
氷(glace)を語源とする凍てつく(glacial)という形容詞が火災(un incendie)に付けられ、氷と火という対立する要素が組み合わされた撞着語法(オクシモロン)の表現が用いられている。
日本では、太陽は赤、月は黄色というイメージが定着しているが、フランスでは、太陽は黄色で月は白というイメージが強い。その連想からすると、« un glacial incendie »とは、白色の炎と考えることもできる。
読者には、これらの要素を通してジャコテが描いた詩的世界に入り込み、自らのイマジネーションの翼に乗って、「一見無意味に見える遠く離れたものの間に存在する隠れた関係」を見つけ出す、あるいは作り出すことが求められる。
私はそうした読者の一人として、手に取るように命じられた「鏡」は、題名の「冬の月(lune d’hiver)」を映し出す鏡ではないかと想像した。
そして、氷を思わせる白さで輝いていた月が雲に隠れて消え去っていくと、あたりは闇に包まれ始める。その闇によって個々の物が一つの全体になり、静謐な時空間が生まれようとしている。
そんな世界のイメージが私の中に形作られた。
。。。。。
2つめの三行詩になると、闇はさらに深くなり、« atteint le centre de la nuit »と、夜の中心に達するように命じられる。
そこに達したら、« tu n’y verras plus reflété »となり、鏡に映る何も見えなくなるだろう。ただし、« qu’un baptême de brebis »、つまり「子羊の洗礼」だけは除いて。

キリスト教の信者でないと「子羊の洗礼」があまりピンとこないかもしれない。しかし、洗礼を水によって体や魂を清める行いと考えると、イメージが沸いてくるかもしれない。
暗闇が深くなり、全てが闇に包まれたとしても、鏡に映るものが見える。それが水による浄化の姿だとしたら、そこには心の平穏が感じられる。
。。。。。
冬の夜に浮かぶ月がこんな風に命令するように感じられるとしたら、命じられた人間は、暗い闇の中に包まれ、一瞬の心の静けさを希求しているのではないか。逆に言えば、静謐さを求める心が、月にこうした願いを投げかけると言ってもいい。
もしそうだとすれば、そうした心を持つ人間の現実は、それほど平穏なものとはいえないかもしれない。
「冬の月」には、「青春よ、私はお前を消耗させる(Jeunesse, je te consume)」が続く。
Jeunesse, je te consume
avec ce bois qui fut vert
dans la plus claire fumée
qu’ait jamais l’air emportée
Âme qui de peu t’effraies,
la terre de fin d’hiver
n’est qu’une tombe d’abeilles
青春よ、私はお前を消耗させる
この木、以前は緑だったこの森と共に、
最も透明な煙の中で、
かつてこの空気が運んだ煙の中で。
魂よ、ほんのわずかなことでびくびくする魂よ、
冬の終わりの大地は
蜜蜂たちの墓でしかない。

« je te consume »と、jeunesseに対して、「私はお前を消耗している」という呼びかける。その言葉からは、自分の青春は無意味に過ぎ去っているという感慨が感じられる。
そして、その憔悴感や倦怠感は、consumerに含まれる [ u ]の音によって、« fut »や« fumée »にも伝えられる。
« fut »はêtreの単純過去形で、« ce bois qui fut vert »と「この森」がかつては緑だったが、それは今とは断絶した過去のことであり、今の森は緑ではないことを明確にする役割を果たしている。
« fumée »で示される「煙」は、« la plus claire fumée »と非常に透明度が高いとしても、« qu’ait jamais l’air emportée »と、「かつて空気によって運ばれてきた」ものであり、実体がないものとして示されている。
。。。。。
最後に私は、« Âme qui de peu t’effraies »と、「ほんのわずかなことにもびくびくと怯える」自分の魂に呼びかける。
« la terre de fin d’hiver »、つまり、大地では冬が終わろうとしている。そんな大地は、長い冬の最後の時期にあり、« n’est qu’une tombe d’abeilles »であり、「活発に活動していた蜜蜂たちの墓」でしかない。
« consumer »から始まった自らの現在に対する認識は、最後に« une tombe »という死を思わせるイメージで終わる。
としたら、「冬の月」の第二部は、現状に対する絶望を打ち明けているのだろうか?
その問いに関して、ouiともnonとも答えられるだろう。そして、その答えは読者によって違うだろうし、正しい答えはない。

「冬の月」と「青春よ、私はお前を消耗させる」を続けて読んでみると、« l’obscurité », « s’éteint », « le centre de la nuit », « consume », « fut vert », « t’effraies », « fin d’hiver », « une tombe »など、暗さ、消耗、恐れ、死といったイメージが積み重ねられる。その印象を強く受ける読者がいても当然だろう。
他方、私は、日本的な循環する季節感に従い、冬の次には春が来ると感じてしまう。そのために、« fin d’hiver »と冬の終わりが告げられると、春が近いことを思い、蜜蜂が再び活動を始める気配を感じる。
そして、それ以前に、« un baptême de brebis »だけはずっと鏡に映り続けることを予告されたことを思い出し、再生の希望を読み取る。そうした読み方が間違っているともいえないはずである。
フィリップ・ジャコテの詩は簡潔で透明な言葉で綴られているだけに、解釈の自由度が高く、読者の想像力を様々に刺激する。そのために、私たち読者は普段目に見えているのとは異なった事物の関係に気付き、時には新しい世界を発見することにもつながる。
その意味で、ジャコテの詩的世界は彼の考える俳句の世界と近いものだといえる。