ロンサール 「もう骨だけで骸骨のようだ」 Pierre de Ronsard « Je n’ai plus que les os » 死の床で

16世紀を代表する詩人ピエール・ド・ロンサール(Pierre de Ronsard : 1524-1585)は、亡くなる直前、死の床で数編の詩を口頭で語り、友人に書き取ってもらった。
「もう骨だけで骸骨のようだ(Je n’ai plus que les os, un squelette je semble)」はその中の一編。

詩人は、自分の体が骸骨のように痩せ衰えてしまった状態をリアルに描き、最後は友人たちにユーモアを持った別れを告げる。
フランスにおけるソネット形式の完成者であるロンサールらしく、ソネット形式に則り、リズムや音色においても完成度が高い。

ソネット形式の基本は3つの項目からなる。
1)2つの四行詩と2つの三行詩 (計14行)
2)韻の繋がり:四行詩は、abba-abba(抱擁韻)、3行詩は、ccd-ede(平韻+交差韻)、あるいはccd-eed(平韻+抱擁韻)
3)女性韻(無音のeで終わる)と男性韻の交代:この規則はロンサールが作ったもの。

「もう骨だけで骸骨のようだ」はこうしたソネット形式の規則にほぼ完全に適合しており、ロンサールが後世に残した遺言として読んでみたい。

Je n’ai plus que les os, un Squelette je semble,
Décharné, dénervé, démusclé, dépulpé,
Que le trait de la mort sans pardon a frappé,
Je n’ose voir mes bras que de peur je ne tremble.

Apollon et son fils, deux grands maîtres ensemble,
Ne me sauraient guérir, leur métier m’a trompé,
Adieu, plaisant soleil, mon œil est étoupé,
Mon corps s’en va descendre où tout se désassemble.

私にはもう骨しかない、骸骨のようだ、
肉もなく、神経もなく、筋肉もなく、脳髄もなく、
死の槍が 情け容赦なく 打ち付けた。
私は勇気を出して自分の腕を見ることができない、恐れで震えることなしに。

アポロンとその息子、二人の偉大な師が一緒になったとしても、
私を回復させることはできないだろう、彼らの仕事が私を欺いたのだ。
さらば、心地よき太陽よ、私の目は布で覆われている。
私の体はここを去り下っていく、全てが分解される所へと。

ここで描かれるのは、病気で衰弱し、肉がそぎ落ち、ほぼ骨だけになってしまった肉体の姿。その病(あるいは老衰)は死神の槍によって打たれたためであり、医学の神であるアポロンたちでも回復させることができない。もうすぐ死を迎え、全てが分解されてしまう。
このように、二つの四行詩は、死を目前にして、骸骨のようになった「私」の姿をリアルに描き出している。

その姿は、中世からルネサンスにかけてヨーロッパで墓標として用いられた、トランジ(transi)と呼ばれる死骸像を描いていると考えることもできる。
つまり、ロンサールは、死後に自らの墓地を飾るための彫像を、ソネットとして制作したと言ってもいいだろう。

確かに、描かれた姿としては陰惨だが、しかし、それらを描く詩句は均整が取れ、音楽性が豊かで、大変に美しい。

形式を確認すると、韻を踏む語句はsemble – dépulpé – frappé – tremble / ensemble – trompé – étoupé – désassembleで、abba abbaの形。
無音のeで終わる女性韻(semble – tremble / ensemble – désassemble)と男性韻(dépulpé – frappé / trompé – étoupé)と交互に配置されている。

これらの語句では、韻を踏む母音だけではなく、[ ã ]の場合には sや bleを伴い、[ e ]の場合にはpが4つ全てに共通することで、より豊かな響きを生み出している。

第1行目の詩句(Je n’ai plus que les os, un Squelette je semble)では、[ k ]と[ l ]の音が« que les »と« squelette »で反復され、「私」ー「骨」、「骸骨」ー「私」と交錯配列法(chiasme)に基づいて、骨だけの肉体が効果的に浮かび上がってくる。

肉体から骨以外のものが全て失われることは、喪失を意味する dé が反復されることで、印象的に示される。
しかも、あっという間に全てが失われ、死へと向かっていくことが、第2行目の詩句でリズムによって伝えられる。一般的に12音節の詩句は、6/6のリズムで切断されるのだが、ここでは、3音節で切断され、3/3/3/3と続く。
Dé-char-né (3) / dé-ner-vé (3) / dé-musc-lé (3) / dé-pul-pé (3)
しかも音的には、dé – (x) – é と2音は同じであり、その繰り返しがスピード感をさらに強める。

奪われる(dé)ものとして言及されるのは、char(chair : 肉)、nerf(神経)、muscle(筋肉)、pulpe(髄)。
4行目では腕(mes bras)に、7行目では目(mon œil)に言及され、8行目になると、私の肉体(mon corps)の全て(tout)が、最終的には分解される(se désassemble)ことになると告げられる。

その際にも音の共鳴が効果を発揮し、私の肉体がこの世を去り(mon corps s’en va)、下っていく(descendre)と、分解する(désassemble)が、 [ d ][ e ][ s ][ ã ]と4つの音で共鳴し、死は肉体の分解をもたらすことが音によって示される。

さらに、[ e ] と[ ã ]は、すでに見てきたように韻を踏む二つの音であり、8行の詩句の至る所で響いている。

死を目前にして、すでにおぞましい姿になった肉体を描く詩句は、その一方で、音楽性に富み、美しい響きを奏でている。


ソネットの基本として、最初の3行詩では、前の8行で展開されたテーマに対して、異なる視点が導入される。ここでは、肉体の破壊を離れ、友人への思いが語られ始める。

Quel ami me voyant en ce point dépouillé
Ne remporte au logis un œil triste et mouillé,
Me consolant au lit et me baisant la face,

En essuyant mes yeux par la mort endormis ?
Adieu, chers compagnons, adieu, mes chers amis,
Je m’en vais le premier vous préparer la place.

どんな友が、私がこれほど剥ぎ取られているのを見て、
家に持ち帰らないだろうか、悲しく涙に濡れた眼差しを、
ベッドの上の私を慰め、私の額に口づけをし、

死によって眠らさせた私の眼を拭いながら?
さらば、愛しい仲間たちよ、さらば、親愛なる友たちよ、
私が最初に立ち去るのだ、君たちの場所を準備するために。

友人たちは「私」の変わり果てた姿を見て、涙を流し、死を悼んでくれるだろう。それは、「私」がこの世で幸せに生きていたことの証し。
最後に、全ての人間は死ぬべき存在であることを前提にして、今生きている人間の中で「私」が最初に死ぬだけであり、その後には友人たちも続き、再会することになるという、あたかも普段の別れのような言葉が綴られる。

そこに悲劇的な感情の高まりはなく、むしろユーモラスで、死をあたかも通常の出来事であるかのにように受け入れる心の準備が感じられる。
それほど「私」は死を前にしても「心の平静」を保っている。そうした姿勢が、「もう骨だけで骸骨のようだ」というソネットのメッセージとして伝えられる。

詩句の整然とした佇まいは、詩人の心の落ち着きと対応している。

第1三行詩の韻を構成するdépouillé – mouilléの [ e ]の音は、2つ四行詩でも使われたもの。
一般的なソネの規則では、abba-abbaの後の韻はaやbと異なる音が使われる。
しかし、ロンサールはあえてbで使われた音( [ e ])を使い、abba-abba bbc-ddcという韻の流れにする。そのために、dépouilléが、とりわけdécharné, dénervé, démusclé, dépulpéを思い起こさせることになる。

その上で、dépouillé(剥ぎ取られた)に続けて、mouillé(涙で濡れた)と韻を踏むことで、骸骨のような体を見て涙を流す友人の姿を浮かび上がらせ、骸骨の死から心の平静へと、テーマを転換させる。

さらに、mouilléという言葉は、友人の眼差し(un œil)へと注意を向かわせ、死によって眠らさせている私の目(mes yeux)と対照的であることが示される。
その私の目は、すでに第2四行詩の中で、私の目は布に覆われ(mon œil est étoupé)、心地よい太陽(plaisant soleil)に「さらば(Adieu)」と別れを告げなければならない状態だった。
友人たちは、その私の目を拭い、自分の目を涙で濡らす。

目に対するこうした注目は、友人が私を見る(me voyant)ことと連動する。
その動詞の現在分詞の活用で響く鼻母音[ ã ]は、友情を示す行為、consolant(慰める)、baisant(口づけをする)、essuyant(拭う)、これら全てで共鳴している。
しかも、[ ã ]の母音反復(assonance)は、remporte(持ちかえる)、endormis(眠らせる)でも行われ、二つの四行詩の韻として響いていた時の印象を変えることに役立つ。
この音の響きが反復されることで、骸骨に対する嫌悪感から、そうした状態になってさえ続く不動の人間関係への信頼へと感情が変化することが、音によっても感じられるのだ。

このように見てくると、「もう骨だけで骸骨のようだ」は、骸骨になった肉体をリアルに描き出しながら、死を前にしたロンサールの心の平安を、響きの美しいソネの形で表現していることがよく理解できる。
詩人がこの詩を口述したのは1885年11月末。そして、約1ヶ月後、12月27日に死を迎えた。
ロンサールの墓にトランジ(遺骨像)は置かれていないが、「もう骨だけで骸骨のようだ」を、詩人が予め用意した自らの墓標として読んでも、ロンサールに否定されることはないだろう。


Adieu, Adieuと二度繰り返し、別れを惜しんだとしても、「私」は単に最初に出発するだけのこと。あの世では宴を主として席を準備する(préparer la place)。
このような気持ちで死を迎えるピエール・ド・ロンサールの姿勢は、死の約30年前、1555年に発表した「死の賛歌(Hymne de la Mort)」で表明した死に対する心構えを、死の直前に実践したものだといえる。

Je te salue, heureuse et profitable Mort, 
Des extrêmes douleurs médecin et confort :
Quand mon heure viendra, Déesse, je te prie
Ne me laisse longtemps languir en maladie
Tourmenté dans un lit : mais, puisqu’il faut mourir,
Donne moi que soudain je te puisse encourir, (…) ( « Hymne de la Mort », v. 337-342)

私はあなたを祝福します、幸福で利益をもたらす死の女神よ、
この上もない数々の苦しみの医師であり慰めよ。
私の時が来る時には、女神よ、お願いします、
私が長い間衰弱するままにしないで下さい、病気の状態で、
ベッドの上で苦しみながら。そうではなく、結局死ななければならないのですから、
お許し下さい、すぐに私があなたを受け入れることができることを。(後略)

ここでは、死の女神(Mort)が医師(médecin)であり慰め(confort)と呼ばれている。そして、この詩句を踏まえると、「もう骨だけで骸骨のようだ」において、アポロンとその息子が偉大な師(grands maîtres)でありながら、二人揃っても私を回復させることができない(Ne me sauraient guérir)とされる理由が理解できる。癒やしをもたらしてくれる医師は、死の女神なのだ。

こうした思想は、プラトンの哲学に由来する。プラトンによれば、肉体は魂の監獄であり、死は監獄からの開放だとみなされる。

そして、ロンサールの「死の賛歌」は、プラトンの偽作とされる「アクシオコス」に基づいた書かれたものだった。
その対話編の中で、死を前にして恐怖を訴えるアクシオコスに対し、ソクラテスは、そうした恐怖には根拠がないものだと説く。その理由は、まづ第一に、死は肉体から魂が解放されることであり、本来は良きことであること。次に、人生には苦しみが多いこと、さらには、生と死は共存することがなく、生きている時には死を知らず、死ねば生はすでにないのだから、生きている人間にとって死は関係がないというプロディコス(エピクロス派)の説を開示する。最後に、魂は不死であり、肉体の死後も魂は生き続けることを納得させ、アクシオコスの恐怖を取り除く。

16世紀フランスはルネサンスの時代であり、プラトニスムの研究が盛んに行われ、ロンサールも大きな影響を受けたことが知られている。
「死への賛歌」はそれをはっきりと示しているが、「もう骨だけで骸骨のようだ」からは、彼が単に頭で理解しただけではなく、自分の死にあたってさえプラトン哲学を実践したことが理解できる。

彼は、恋愛詩においては、愛する女性に対して、老いや死を理由にして、今ここでの愛を訴えた。それとは反対に、自分の死は不動の心で受け入れる。その対照を考えてみることも、ロンサールの詩的世界を探求する楽しみになるだろう。


映画「男と女」の俳優ジャン=ルイ・トランティニャンによる« Je n’ai plus que les os »の朗読は、とても雰囲気が出ている。

フランシス・プーランクが曲を付けた« Je n’ai plus que les os »。

ジュリアン・ジュベールの曲は、詩句の言葉をしっかりと伝えている。

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