ロンサール ガティーヌの森の樵に反対して Pierre de Ronsard Contre les bûcherons de la forêt de Gastine 1/3

ピエール・ド・ロンサール(1524-1585)の「エレジー(Élégie)」第24番は、森で木を切る樵に向かい、木から血が流れているのが見えないのかと詰問し、手を止めるように命じる内容の詩であるために、現在ではエコロジー的な視点から解釈されている。
そのために、しばしば詩の前半部分が省略され、樵に手を止めるようにと命じる詩句から始まり、「ガティーヌの森の樵に反対して」という題名で紹介されることが多い。

しかし、ヨーロッパにおいて、18世紀後半になるまで山や森は人間が征服すべき対象であり、16世紀に自然保護という思想は存在していなかった。
ロンサールも決してエコロジー的な考えに基づいていたわけではなく、アンリ・ド・ナヴァール(後のアンリ4世)が彼らの故郷にあるガティーヌの森を開墾し、売却することに反発するというのが、「エレジー」第24番に込められた意図だった。

ロンサールが悲しむのは、木を切る行為そのものではなく、旧教(カトリック)と新教(プロテスタント)の対立の時代に翻弄され、1572年のサン・バルテルミの虐殺を逃れたアンリ・ド・ナヴァールが、宮廷で生き延びていくための資金を得るために、ガティーヌの森を伐採することだった。
あるいは、旧教側を信奉するフランス国王の宮廷詩人だったロンサールが、新教側のアンリ・ド・ナヴァールを批難する意図を持って書かれたエレジー(哀歌)だとも考えられる。

そうした歴史を知ると、ロンサールが詩に込めた意味と、後の時代の解釈との間にずれが生じていることが明らかになる。
では、そうしたズレた解釈は、後世の誤りだと考えるべきだろうか?

私たちは、第一義的には、作者が作品に込めた意味を探るのが自然であり、そのために作者の人生や思想を知るとともに、社会的な背景や時代精神を探る必要がある。

しかし、文学作品は作者が込めた意味とは異なる解釈も可能なのだ。より豊かな意味を作品に見出すことができれば、そのことは作品をより豊かなものにすることにつながる。優れた作品とは、多様な解釈を導き出す可能性を秘めていると言ってもいい。

これから、「エレジー」第24番を16世紀のフランス語、つまり現代のフランス語とは多少違うところのあるフランス語で読みながら、ピエール・ド・ロンサールの意図を読み取り、その意図から離れた解釈の可能性も見ていこう。


冒頭の2行の詩句は、森に呼びかけながら、森の破壊者の姿を浮かび上がらせる。

Élégie XXIIII

 Quiconque aura premier la main embesongnée
À te couper, forest, d’une dure congnée, (v. 1-2)

「エレジー」第24番

 最初に、忙しく手を動かし、
森よ、お前を、硬い斧で切り倒す者は誰でも、

現在のフランス語であれば、premierはle premierと定冠詞を付けられる。
韻を踏むembesongéeとcongéeは現在のつづり字では、embesognée(忙しく・・・する)、cognée(斧)。
forest(森)は、現在では、forêtと綴られる。(esがêとなる。)

quiconqueは「誰でも」という意味で不特定な人間を指すが、ここでは樵を思わせながら、実は、森を伐採する樵たちの後ろにいる人間、つまりアンリ・ド・ナヴァールを暗に指していると考えられる。

そして、彼がどうなって欲しいかという願いが、que+接続法の文で、3行目から18行目までの詩句で示される。

Qu’il puisse s’enferrer de son propre baston,
Et sente en l’estomac la faim d’Erisichthon,
Qui coupa de Cerés le Chesne venerable,
Et qui gourmand de tout, de tout insatiable,
Les bœufs et les moutons de sa mere esgorgea,
Puis pressé de la faim, soy-mesme se mangea :
Ainsi puisse engloutir ses rentes et sa terre,
Et se devore après par les dents de la guerre. (v. 3-10)

そんな人間は、自分自身の斧(棒)で自らを傷つけるかもしれず、
胃にエリュシクトンの餓えを感じるがいい。
エリュシクトンは、地母神ケーレスの尊い樫の木を切り倒し、
全てを貪欲に望み、すべてに飽きることなく、
母の牛や羊たちの喉を切って殺し、
餓えに苛まれ、自分自身を食べたのだった。
あの者は、そんな風に、地代や土地を呑み込み、
その後、戦争の歯によって、自分自身を貪るがいい。

願いは、qu’il puisse s’enferrer (…), et sente (…)、puisse engloutir (…), et se devoreと続く。
その間に、エリュシクトンという神話の人物に関する記述が、4行目のla faim d’Erisichthonから8行目のse mangeaまで続く。

まず、願いについて見ていこう。
最初は、自分の棒 (baston= bâton)で自分を害する(s’enferrer)こと。puisse(pouvoirの接続法現在)は、その可能性を示す。
そして、l’estomac(胃)に激しいla faim(餓え)を感じる(sente:sentirの接続法現在)こと。

次に、自分の地代(ses rentes)や土地(sa terre)を呑み込む(engloutir)こと。そうした後で(après)、自分自身を丸呑みする(se devore = dévore)こと。

ここで、地代や土地という経済的な事象が突然語られることは、木を切る人間が単なる樵ではなく、土地を持ち、地代を招集する人間であることを読者に明かすことを目的にしている。
つまり、彼は、ガティーヌの森の所有者、アンリ・ド・ナヴァールなのだ。

。。。。。

エリュシクトンの餓えについては、古代ローマの作家オウィディウスの『変身物語』 の中で語られるエリュシクトーンの挿話に基づいて語られる。その概要をwikipediaの記述で確認しておこう。

テッサリアー地方にデーメーテールの聖森があり、1本の神聖な樫の巨木がそびえていた。これはデーメーテールが大切にしていた木で、その木の下ではニュンペーが舞い踊ったり、手をつないで幹を囲んだりした。人々もこれを信仰し、様々な祈願をしては、願いが叶えられると感謝のしるしとして記念の額や花輪を奉納していた。
ところがエリュシクトーンは人々に木を切り倒すよう命令し、人々が躊躇しているのを見ると、自ら斧を取って木に斧を入れた。木は打ち震え、うめき声を発し、傷口から血を流した。
人々は驚いて、その中の1人が勇気を振り絞ってエリュシクトーンを止めようとすると、エリュシクトーンは斧で彼の首を斬り落とした。
また木に住んでいたニュムペーが姿を現し、破滅の運命が迫っていることを予言したが、エリュシクトーンは聞く耳も持たずに樫を切り倒した。
これを知ったデーメーテールは「飢餓」に命じ、エリュシクトーンに決して癒えない激しい飢えを起させた。飢えに苦しんだエリュシクトーンはまたたく間に財産を食いつぶし、残った娘メーストラーをも売り飛ばした。
メーストラーがポセイドーンに助けを求めると、ポセイドーンは彼女に変身する力を与えたので、メーストラーは別の人間に変身して逃げ帰った。そこでエリュシクトーンは何度も娘を売り飛ばし、そのたびにメーストラーは様々な動物に変身して逃げ帰り、父を助けた。
しかしエリュシクトーンの飢えは癒えるどころか酷くなる一方であり、ついには自分の指や手足をも食らいつくした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%AA%E3%83%A5%E3%82%B7%E3%82%AF%E3%83%88%E3%83%BC%E3%83%B3

エリュシクトンは神話上の人物であり、彼の行動をロンサールが語る時には、Erisichthon qui coupaというように、動詞は単純過去で活用される。

彼が切った(coupa)のは、地母神セレス(Cerés = Cérès) の尊い樫の木(le Chesne = chène ; venerable = vénérable)。

その不敬な行為のために、エリュシクトンは、食欲旺盛で(gourmand)、いくら食べても飽き足らず(insatiable)、彼の母(sa mere=mère)の牛や羊の喉を切って殺した(esgorgea = égorgea)。

その後(après)、餓えに苛まれ(pressé de la faim)、自分自身(soy-mesme = soi-même)を食べてしまった(se mangea)。

。。。。。

10行目の詩句 « Et se devore après par les dents de la guerre »で、戦争の歯(les dents de la guerre)という言葉が使われ、この哀歌が戦争と関係していることが明かされる。

フランスでは、1562年から1598年までの約40年間ユグノー戦争と呼ばれる宗教戦争の時代だった。旧教(カトリック)側の国王たちは、ユグノーと呼ばれたカルヴァン派を中心にした新教徒(プロテスタント)を厳しく弾圧し、国内は内戦状態にあった。

1572年には、幼いフランソワ2世に代わり政治の実権を握っていたカトリーヌ=ド=メディシスが、娘マルグリットと新教派ブルボン家のアンリ・ド・ナヴァールを結婚させることで、新旧両派を融和させようとした。しかし、様々な状況がからみ、結局、王側が、8月18日のアンリとマルグリットの結婚式にパリに集まった新教徒たちを、聖人バルテルミの祭日である8月24日に大量に虐殺し、その動きはパリ市内だけではなく、フランス全土に広まった。

フランス王家の宮廷詩人ロンサールは、こうした出来事を時代背景として、故郷の森を売却して資金を得ようとした新教徒アンリ・ド・ナヴァールが、戦争の歯によって自らを貪り食う(se dévore)ようにと願ったのだった。


ロンサールの祈願はさらに続き、地代以上に明白に経済用語が用いられる。

 Qu’il puisse, pour vanger le sang de nos forests,
Tousjours nouveaux emprunts sur nouveaux interests
Devoir à l’usurier, et qu’en fin il consomme
Tout son bien à payer la principale somme. (v. 11-14)

その男は、我らが森の血を購うために、
常に、新しい借金に新しい利子を重ね、
高利貸しから借りるかもしれない。そして最後は、使い尽くすことになる、
全ての財産を、元金全ての額を支払うために。

借金(emprunts)、利子(interests = intérêts)、高利貸し(usurier)、財産(bien)、元本(principal)は、木を切る目的が経済的な問題であることを示している。
ロンサールがその男(il)に望むのは、元金を支払うために、全財産(tout son bien)を使い果たしてしまう(consomme)こと。

その目的は何かといえば、故郷にある私たちの森(nos forests = forêts)の血(le sang)を購う(vanger = venger)ため。
ここで森と血が繋がるのは、エリュシクトンの神話の中で、斧で切られた木がうめき声を発し、傷口から血を流したという部分からの連想に違いない。

そんなことをする人間は、常に(tousjours = toujours)、借金を重ね、利子が重なり、金を使い尽くせばいい。それがロンサールの望むことだった。


最後に、そんな男のすることは全てが空しく、無(néant)であるようにと祈願される。

 Que tousjours sans repos ne fasse en son cerveau
Que tramer pour-néant quelque dessein nouveau,
Porté d’impatience et de fureur diverse,
Et de mauvais conseil qui les hommes renverse. (v. 15-18)

絶えず休むことなく、頭の中で考えるのは、
何も結果を生まないことのために、新しい計略を練ること、
辛抱できず、様々な怒りに駆られ、
人びとを混乱させる、間違った忠告を聞き入れて。

16世紀のフランス語では、ラテン語がそうであるように、代名詞の主語が必ずしも必要とされなかった。そのために、ここでロンサールは、queの後にilという主語を使っていない。
« Que (…) ne fasse (…) que tramer »と代名詞の主語なしでも主語が推測でき、現在のように« qu’il ne fasse que tramer »と必ず主語を明示しないといけないわけではなかった。

その男は、頭の中で(en son cerveau)、何らかの新しい計画(quelque dessein nouveau)を企てる(tramer)ことしかしない(ne …que)。しかし、それらはすべて無の結果しかもたらさない(pour-néant = pour néant)。

彼がどんな状態にいるのかも説明される。彼は、忍耐ができず(impatience)、様々な怒り(fureur diverse)に捉えられ、そして、悪い忠告(mauvais conseil)に動かされる。そうした忠告は、人びとをひっくり返す(renverse les hommes)。

このようにして、「哀歌」第24番の冒頭の18行の詩句では、森を硬い斧で切り倒す者の行為は、結局、無(néant)に終わると宣告される。
ロンサールの意図は、自然を愛好し保護することではなく、アンリ・ド・ナヴァールの行為を批難することにあった。現代の読者である私たちも、その意図をこれらの詩句を通して読み取ることができる。

そして、この後から、樵に手を止めるようにと呼びかける詩句が始まる。(続く)

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