トラウマ 人はなぜ思い出したくないことを思い出すのか?

トラウマという言葉を使うと心理学的な外傷体験を考えることになるが、外傷とまでいわなくても、思い出したくないことがふと頭に浮かんできて、嫌な思いをすることは誰にでもある。

なぜ不快な思い出が甦るのだろうか。しかも、1度だけではなく、何度も何度も反復して甦る。時にはその思い出に心が掻き乱され、他のことが考えられなくなったり、夜眠れなくなることがあるかもしれない。

その原因を知りたくて、ジークムント・フロイトの精神分析理論を調べたりしたのだが、快楽原則、現実原則、抑圧、反復脅迫、死の欲動など理解しないといけない概念設定が多く、しかも、納得できる部分とそうでない部分がある。
そこで、自分なりに、「なぜ嫌な思い出が蘇ってくるのか」という問題を、なるべく簡潔に考えてみることにした。

(1)快・不快は思い出の基準ではない

生きている限り私たちは五感を働かせ、自分のいる周りの世界を知覚しながら行動する。目の前にあるものを見、誰かと話し、本を読み、何かを考える。その間に、今この瞬間にはすでに完了してしまっている出来事を、意図して思い出すこともあれば、それらが無意識のうちにふと浮かんでくることもある。

では、どんな出来事が記憶に残りやすいのだろう?
自分にとってあまり価値のないこと、どうでもいいことは、すぐに忘れてしまい、思い出すことは少ない。もし思い出すことがあるとしたら、他の人からあんなことがあったと指摘される時だろう。

他方、自分にとってインパクトの強いことは覚えている。
楽しく、幸福で、心地よい思いの出来事の場合もあれば、耐えられないほど嫌で不快な出来事のこともある。
そうした思い出の中には、自分ではっきりと覚えていることもあれば、思い出すのも嫌で普段は意識の外に置かれていることもある。
記憶とは、私たちの快・不快の判断と関係なく、様々な出来事を保持するものなのだ。

覚えていないと思っていることでも、記憶に刻まれていることもある。フロイトの精神分析理論でいえば、それらは「抑圧」された思い出だといえる。
それらは意識化されていないために、主体的に思い出すことはない。記憶にないのだから、思い出すことはできない。しかし、無意識の中には残っている。だらかこそ、完全に忘れていると思っていたことがふと甦ったりもする。

私たちは常に何かを見、感じ、考えている。その過程で、思い出を意識的に取り出すこともあれば、何かのきっかけで思い出が頭に浮かび、今考えていることを中断させることもある。それはごく自然なことであり、ごく普通に起こる。

(2)不快な思い出が何度も蘇る理由

フロイトは、不快な出来事は無意識の中に抑圧され、記憶から消され、それが意図しないにもかかわらず何度も甦る心理現象を、「反復強迫」と呼んだ。強迫というのは、自分が意図しないにもかかわらず、無意識的な何らかの力によって記憶が呼び起こされる状態だといえる。

では、なぜ心地よい出来事ばかりではなく、辛く悲しく耐えがたい出来事が思い出されるのだろう?

A.
記憶の基準は、出来事が本人に与えるインパクトの強さによる。そして、その出来事が、あるきっかけ、例えば、その出来事が起こった状況と類似した状況とか、同じ言葉、同じ物に接すると、思い出として蘇る。

その際、快・不快が基準ではないために、嫌なことも思い出してしまう。
たとえ思い出したくないと意識化している思い出だとしても、きっかけさえあれば、意識による「抑圧」を超え、過去のイメージが現在の意識の中に描き出される。

B.
不快な思い出が何度も繰り返し再現される理由は、フロイトの「快楽原則」から説明できるかもしれない。

「快楽原則」というと、自分の欲望を満たし、快楽が増大することを人間は本質的に望んでいると考えるかもしれない。しかし、フロイトの理論では、不快を最小化させる方向に働く原則と定義される。

人間が何らかの欲動によって刺戟されると、その欲望が未だ満たされていないために、不快だと感じる。性欲でも食欲でも、満たされないと不快だ。その不快感を減少させるためには、欲動を満たすように行動する。その結果、不快感がなくなる。
フロイトは全てを性(エロス)で説明するといった俗説が今でも信じらることがあるが、「快楽原則」の核心は、刺戟によって生み出される不快感を最小化するところにある。

心理的な傷を負うほどの辛い体験では、「快楽原則」が機能しない。
その出来事が刺戟となり、不快感が極限まで最大化される。しかも、その不快感は解消されないままで留まる。その結果、快楽が得られず、刺戟が続く。そのためにインパクトが増大し、記憶に深く刻まれる。

当然それは思い出したくない体験であり、忘れてしまいたいと意識的には思っているため、「抑圧」の対象となる。
しかし、意識のレベルが少しでも下がったり、何らかのきっかけがあれば、「抑圧」のエネルギーが弱まり、容易に、何度でも、そのイメージが再現される。

意識しない状態では、心地よい思い出よりも不快な思い出の方が反復される回数が多いのは、「快楽原則」が妨げられた結果、不快感が減少せず、インパクトが強いまま留まっているからだと考えられる。

(3)解消は?

俗流の精神分析理論では、抑圧された過去の不快な出来事を意識化すれば、神経症は解消されると主張されたことがあった。忘れている過去を意識化し、精神的な問題を引き起こす原因を明らかにすれば、神経症は解消されるという説だ。

しかし、思い出しても不快感が消えることはない。嫌な思い出が何度も蘇っても、何にも解決されない。不快でなくなることはないし、思い出さなくなることもない。

すでに指摘したように、ある出来事が記憶されるかどうかの基準は、私たちの快・不快ではない。従って、不快なことでも思い出されるし、「快楽原則」に反するため、不快なことほどインパクトが強く、ふとした瞬間に思い出されやすい。

では、その不快さを取り除くことはできるのだろうか?
トラウマによる心理的外傷を負っている場合などは、それにふさわしい治療を受ける必要がある。素人療法で、抑圧された過去の出来事を思い出すことはとても危険だ。人間の心はそんな単純な働きをするものではない。

不快な思い出に関しても、不快なものは不快であり続ける。時が経ったからといって、不快さが和らぐわけではない。不快さの原因となる出来事が思い出として甦った時、その出来事を変更することはできないのだから「快楽原則」を満たすことはできず、不快さはそのまま残るしかない。

では、その不快さを和らげることはできないのか?

フロイトが「快楽原則の彼岸」という論文の中で語る子供の遊びには、そのヒントが隠されているかもしれない。

母親が何時間も子供の側を離れていても、泣いたりしなかった。それでいて、この子は母親に心から懐いていた。母親はこの子を母乳で育て、他人の手を借りずに世話し、かわいがってきたのである。しかしこの行儀のよい子供が時折、困った癖をみせ始めた。自分の手にしたおもちゃなどの小物を、部屋の隅やベッドの下などに放り投げるのである。このため、放り投げられたおもちゃを探し出すのが一苦労だった。そしてこの子は、小物を投げると、興味と満足の表情とともに、長く延ばしたオーオーオーオーという音を立てた。この子を観察していた母親とわたしは、この音が間投詞ではなく、「いない(フォールト)」を意味することで意見が一致した。ついにわたしは、これが子供にとって一つの遊戯であることに気づいた。子供は自分のおもちゃを「いないいない」遊びに利用していたのである。ある日わたしは、このことを裏づける監査を行うことができた。子供は、細紐を巻き付けた木製の糸巻きを手にしていた。しかしこの子は、糸巻きを床に転がして引っ張って歩く「車ごっこ」をすることは思いつかないようだった。子供は細紐の端を持って、布を掛けた自分の小さなベッド超しに巧みに糸巻きを投げ込んだのである。糸巻きが姿を消すと、子供は意味ありげなオーオーオーオーを言い、それから紐を引っ張って糸巻きをベッドから取り出すと、いかにも満足そうに、「いた(ダー)」という言葉で糸巻きを迎えた。これは姿を消すことと姿を現すことで成立する一組の遊戯だったのであり、それまではわれわれは、姿を消す場面ばかりを目撃していたのである。この「姿を消す」動作はそれだけで、遊戯として倦むことなく繰り返されたが、「姿を現す」動作の方が大きな快感を伴ったのは明らかである。
                       (フロイト、中山元訳「快楽原則の彼岸」)

フロイトはこの子供の遊びに関していくつかの解釈を提示しているが、その中の一つでは、子供の役割が受動的なものから能動的なものに変わったという見解が提示される。

子供は最初受動的に経験に「見舞われた」のであるが、次に能動的な役割を演じて、不快に満ちたこの経験を遊戯として繰り返したのである。この営みは、いわば「支配欲」に駆られたものであり、思い出がそれ自体で快感に満ちたものかどうかにかかわらず行われたと考えることもできよう。(同上)

子供は母親がいつも側にいて欲しいと望んでいるが、しかし、現実に母親を引き留めておくことはできない。主体は母親であり、子供は母の不在を受動的に蒙るしかない。
そこで、子供は、不在のドラマを小物によって再現し、そこでは自分が主体となる。しかも、糸巻きをベッドの下に隠した後、それを取りだす。それは、母親を自分の前に連れ戻す思いを満足させることにつながる遊びと見なすことができる。つまり、「快楽原則」が充足される。

この例に従えば、次のような方法が思い浮かぶ。
嫌な思い出が意に反して再現される時、その思い出の中身を変更することはできないが、受動的に受け止めるのではなく、能動的な姿勢を取り、不快さを解消するような書き換えを行う。
例えば、フロイトの子供の遊びでは、子供は母親の不在をコントロールすることはできない。その状況を受動的に受け入れるしかない。だから、母親を糸巻きに置き換えることで、自分が能動的な立場に立つ。そうすれば、糸巻きを隠し、次に再び出現させることで、不快な状況を変化させることになる。
そうすることで、不快さが減少できるかもしれない。

もちろん、成功するという保証はない。しかし、内容を変更できる思いが少しでも芽生えれば、嫌な思い出に対する向き合い方が多少は変わるかもしれない。


フロイトの「快楽原則の彼岸」の中心的なテーマは、反復強迫が「死の欲動」の反映であり、人間にはエロスに基づく「生の欲動」の他に、死へと向かう、あるいは、死に回帰する根源的な「死(タナトス)の欲動」があるというもの。
その論に賛否があるとしても、大変に興味深い。

しかし、ここではそうした思弁的な論理をたどり、不快な思い出が意図に反して何度も甦ってくるのを止める方法を見つけようとしたわけではないし、心理的な問題に明快な回答があるとも思えない。
心理的外傷を受け、トラウマに苦しむ場合には、それなりの治療を受けることが必要になるだろう。また、そうした事柄を知りたい場合には、文部科学省のサイトなどを参照することもできる。
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/clarinet/002/003/010/005.htm

ここで試みたことは、問題解決の道ではなく、なぜ嫌な思い出が意に反して何度も甦ってくるのかという素朴な疑問を、自分なりに考えてみることだった。
その際、フロイトのいう「快楽原則」が機能しないという視点を採用すると、不快な出来事の方がふとした瞬間に甦る仕組みをそれなりに理解できるのではないかと思い至った。
そして、もしかすると、その仕組みを理解しておくことで、不快な思い出にとらわれた時、状況を客観視でき、不快感が少しだけでも緩和されることにつながるかもしれない。

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