やる気はあるけれど、最初の一歩を踏み出せない

どんなことに対しても真面目で、やらないといけないことがあれば前向きに取り組もうと思っているのだが、気持ちだけが空回りして、いざ実行しようとすると、最初の一歩が踏み出せないタイプの人がいる。

そうした人は根が真面目なだけに、結果が出せないことに失望し、自分を責めることも多く、自己肯定感が低い。対人関係でも、どこか自信がなさげて、なんとなくおどおどした様子をしている。
その傾向がさらに強まると、攻撃性を自分自身に向け、物理的に自分を傷つけないまでも、精神的に自分を傷つけることはよくある。
そうした人たちの自己認識は、プライドが低く、自分のことがあまり好きではない、ということが多い。

ところが、彼ら、彼女たちと接していると、外見とは違い、プライドが高く、自己愛が強いと感じることがある。

そのズレを出発点として、やる気はあるのに一歩が踏み出せないという状態について考えてみたい。

(1)なぜ一歩が踏み出せないのか

自分に自信がなく、自己肯定感が低く、自分のことがあまり好きではないという人たちとしばらく接していると、心の奥の隠れた部分に非常に硬い殻のようなものあり、そこに触れたら相手が爆発してしまいそうだと感じることがある。

本人たちがその存在を意識しているかいないかは分からない。意識化の度合いは個人によるだろう。しかし、いずれにしても、その硬い殻にだけには触れられたくないという強い感情を感じる。
その中には、自分という存在を支える「自己愛」と「プライド」がプロテクトされているに違いない。人間心理の根本的な部分で、自分を愛することはごく自然だし、他者からバカにされたり蔑まれたくないといったプライドを持つのも、ごく当たり前のことだ。

自己愛やプライドがありながら自己肯定感が低いとしたら、その矛盾はどこから来るのか?
その原因を考えてみよう。

あることをしないといけない時、真面目に取り組み、いい結果を得ようとする気持ちは強い。真面目なだけに、目標をある程度高く設定し、そこに到達したいという気持ちに噓はない。
しかし、その前向きさの陰で、ふと、不安がよぎる。もしかすると、目標に達することができないのではないか? もしかすると、低い評価しか得られないかもしれない。そうなったら自分も失望するし、回りの人々に対して恰好が悪い。

隠されたプライドと自己愛が強ければ強いだけ、目標の設定は高くなる。その結果、目標に到達できないのではないかという不安も大きくなり、実際の行動に移ることができなくなってしまう。
その際、実際に行動して得た成果が人から低く評価され、プライドや自己愛が傷つくことと、やればできたかもしれないがやらなかったということで自己評価が低くなることを比較すると、後者の方がダメージは少ない。「やればできた」という言い訳があるために、自分に対する言い訳の余地が残るためだ。

やる気はあるけれど第一歩が踏み出せないというタイプの人間は、こうして自己防衛をする傾向にある。

(2)二方向の攻撃性

では、なぜ自己防衛をするのか? その答えは、人間には攻撃性があるから。
攻撃性は、他者に対して向けられることが多いが、自分に対しても向けられる。フロイトは、二つの攻撃性を、サディズムとマゾヒズムという言葉で説明した。

( a )サディズムとは、他者を対象として暴力を加え、力を行使することである。
( b )この対象が放棄され、主体自身に置き換えられる。方向が自己に転換されるとともに、能動的な欲動目標が受動的な欲動目標に転換される。
( c )新たな他者が対象として求められる。目標が転換されたため、この他者が主体としての役割を果たさなければならない。
この( c )が、いわゆるマゾヒズムである。マゾヒズムにおいても、本来のサディズムの道を通じて満足が得られる。しかしそのために、受動的な自我は空想によって最初の対象の位置に置き換えられ、最初の主体の位置は他の対象が占めるようになることが必要である。
      (フロイト、中山元訳「欲動とその運命」)

このフロイトの解説は、私たちの常識的な考えでは理解できない心理的なメカニスムを教えてくれる。
普通に考えれば、自分を愛している人間が自分自身を攻撃し、傷つけるようなことはしない。自己愛は自己を守る方向に働くはずだ。
しかし、自分を攻撃するマゾヒズムは、他者を攻撃するサディズムが転換したものであり、自分の期待に応えられない自己を他者の位置に置き、その自己に対して攻撃を加えると考えると、自己処罰感情という心理に納得がいく。

ある課題に関して、実際に取り組み結果を出したが、評価が低く、ダメ出しをされた場合、自分に対する信頼が失われ、自己評価も下がる。プライドが傷つくかもしれない。
それに対して、取り組もうという気持ちはあったが、実際には行動に移らなかった場合、評価をする側からはダメ出しされたとしても、しかし、自分の中では、やる気はあったが何らかの理由でできなかった、実際にやればそれなりの成果は上がったはずだという気持ちを持つことは可能だ。
その二つの行動パターンの中で、後者の方が自分に対する攻撃性は弱くなり、自分のプライドと自己愛を保護しやすい。逃げ道があるからだ。

実際に行動した結果は、現実の出来事である。それに対して、もしやればできていたかもしれないという思いを抱ける余地があると、現実性が薄まる。だからこそ、自己防衛の手段としては、やる気はあったけれど「やれなかった」という口実の方が有効なのだ。

(3)自己防御システム

真面目でやる気は十分にあるが、実行に移せないという若者と接していると、かなりの頻度で、共通点があることに気付く。
幼年時から要求水準の高い母親か父親の影響下にあり、その影響が長く続いている。

乳幼児にとって、最初の他者は母か父であり、人間関係の基本はそこで形作られる。
その際、フロイトの理論を借用し、日本人に当てはめることは避けた方がいい。
古代ギリシアの神話のエピソードに由来するエディプス・コンプレックスは、西欧的な親子関係には適用できるかもしれない。しかし、日本には、母親に近親相姦的欲望を抱き、父親と戦うといった内容を持つ神話は、私の知る限り存在しないし、もしあったとてもメジャーではない。

私としては、親との関係は、子供にとっての最初の他者体験とだけ考えたい。
子供は、親の要求に応じて、その要求を実行しようとする。それが達成されれば誉められ、嬉しい気持ちになる。反対に、失敗すると、叱られるかもしれない。
その関係の中で、要求水準の高い親は結果に対しても基準が厳しく、子供が実践したことに対して、評価するよりも、さらなるレベルアップを要求する。
そのようなことが続くと、子供は自分のしたことが不十分であると思い、自己評価が下がる。何をしてもうまくできないという感情を抱くことにもなる。

子供がある程度成長すると、親の管理下から離れ、学校などで課題に取り組む。その場合、課題に対して子供自身が到達目標を設定する。
その時、子供はそれまでの経験を通して親の要求水準を自分の中に内面化している。そこで、親が要求水準の高い場合、子供は自分でも高い基準を設定する。それと同時に、実践した結果に対する親の評価や、さらなるレベルアップを求めるという姿勢も内面化している。
その結果、無意識的かもしれないが、何かをしたとしてもうまくできないのではないかという不安が募る。そして、やる気持ちは十分にあるし、やろうと準備もしたけれど、実際には思うように取り組めないという状態に陥ってしまう。
ただし、内心では、その方が楽だという気持ちもどこかにある。そのために、ますます第一歩を踏み出せない。

そうした子供は、隠れた自己愛とプライドがあるために、逆に自己肯定感が低いという、矛盾した状態に苦しむことになる。

そして、大人になってもその状況は続く傾向にある。
その状況を変えるためには、できなくても仕方がない、思ったようにできないかもしれないけれどやってみる、できなかったらもう1度トライする、などといった思いを抱くだけなのだが、なかなかそれができないところに難しさがある。

できることがあるとすれば、自己愛とプライドが自分に対する攻撃性の原因であることを自覚し、自分に対する期待の基準を下げることだろう。

「やってみて、うまくいくこともあれば、だめなこともある。」

そう思えることが、第一歩を踏み出すコツだ。

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