アンドレ・ブルトンとシュルレアリスム André Breton et le surréalisme 2/3

(2)シュルレアリスムの精神 — 理性のコントロールを廃止する

A. ギヨーム・アポリネールの新造語、シュルレアリスム

「シュルレアリスム」という用語はギヨーム・アポリネールによって考え出された新造語だとされている。

アポリネールがその言葉を最初に使ったのは、1917年に上演されたロシア・バレエの『パラード』のパンフレットの中で、「シュル・レアリスム(sur-réalisme)」とは「新しい精神(エスプリ・ヌヴォー)」を体現する芸術作品の出発点となるものであり、伝統的な芸術や生活習慣を根底から変化させるものとされた。

翌年、アポリネールは自身が執筆した演劇「ティレジアスの乳房」に「シュルレアリスム演劇」という副題を付け、その序文の中で具体的な例を提示した。

人間は、歩行を模倣しようと望んだ時、車輪を作り出した。その車輪は足とは似るところがない。人間はそんな風にして、知らぬ間に、シュルレアリスムを実践したのだった。
(アポリネール「ティレジアスの乳房」の序文)

ヨーロッパの芸術概念において、「模倣」は最も基本的な表現法である。
古代ギリシアのアリストテレスに遡れば、子供が親の仕草を真似しながら行動を習得するように、模倣は本来の人間の行動様式であり、芸術もモデルとなる事物や人間の行動を再現するものだと考えられてきた。

そして、伝統的な芸術においては、では再現においてモデルと似ていることが求められ、似ていることが本当らしさを生み出した。
人間が歩いている姿を描く場合には、2本の足を交互に踏み出す姿が描かれることで、私たちはその行動が何かを認識する。

それに対して、歩行を再現する際に車輪を描くことは、モデルに似ていない姿を作り出すことになる。車輪を見る人間は、それが歩行の表現だとは分からない。
「写真のように再現する」ことはしない。それがアポリネールのの定義するシュルレアリスムの基本的な考え方だといえる。

B. アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム

ブルトンは『シュルレアリスム宣言』の中で、アポリネールの新造語を採用しながら、しかし、その内容に変更を加えた。
アポリネールはシュルレアリスムという「言葉」は作り出したけれど、その「精神」は持っていなかったというのだ。そして、その精神を有していたのは、19世紀の作家ジェラール・ド・ネルヴァルだという。

そこで何が問題になっているのだろう? 歩行と車輪の例で考えてみよう。

歩行を模倣するために車輪を描くというのは一見荒唐無稽に思われる。しかし、移動という行為を表現するという点では共通性がある。その点では首尾一貫しており、理性的な思考が働いているといえる。

アンドレ・ブルトンが求めたものは、そうした理性の働きを停止することだった。
そのことは、第一次世界大戦中にトラウマを負った兵士たちの治療にあたり、人間には意識的な活動の他に、反復強迫のように、意識的にはコントロールできない精神の活動があることを実際に体験したことが大きな要因となったに違いない。
フロイトの無意識に関する理論に傾倒したのも、同じ理由による。

そして、理性のコントロールが利かなくなった作家として、ジェラール・ド・ネルヴァルを取り上げる。
1854年に出版した『火の娘たち』の序文の中で、ネルヴァルは、彼が精神病院に入院した際の様子を、友人のアレクサンドル・デュマが戯画化して描いた言葉を取り上げ、狂気と創作活動の関係について語った。

ネルヴァルは何かの仕事に熱中すると、想像力が理性を頭の中から追い出してしまう。そうした時には、想像力だけが働くことになり、頭の中は夢や幻覚で一杯になる。そのために、自分がソロモン王だと思ったり、クリミア半島のサルタンやエジプトの公爵だと思うこともある。別の日には自分が狂人になったと思い、どのようにして狂気に陥ったのか楽しそうに話すので、聞いている人は誰でも自分たちも狂人になりたくなってしまう。
こうしたアレクサンドル・デュマの言葉を引用した後で、ネルヴァルは、自分の創作原理を説明するために、フランス革命の時代を生きたシャルル・ノディエの例を持ち出す。

ブルトンはそのノディエの逸話を引用し、シュルレアリスムの精神の働きを具体的に描き出そうとした。

 さらに確かなことだが、私たちは「シュペルナチュラリスム(超自然主義)」という言葉を用いることもできた。その言葉はジェラール・ド・ネルヴァルによって、『火の娘たち』の序文で使用されたものだった。実際、ネルヴァルは、私たちが主張する「精神」を驚くほど有していた。他方、アポリネールが持っていたのは、シュルレアリスムというまだ不完全な「言葉」だけであり、彼は私たちの注意を引き留めるほど理論的な展望を提示することはできていなかった。以下に引用するネルヴァルの二つの文は、その点に関して、非常に意義深いと思われる。

 「私はあなたにこれから説明しようと思います、親愛なるデュマよ、あなたが少し前に語った現象についてです。よくご存知のように、物語の語り手たちの中には、自分の想像力が生み出した登場人物と一体化しないと、物語を発明することができない人がいるのです。ご存知のはずです、どれほどの確信を持って、私たちの古い友人であるノディエが、大革命の時代、どんな風にして不幸にもギロチンにかけられたと語ったのか。みんなその話にひどく納得したので、ノディエがどうやって自分の頭を再び貼り付けさせたのか、不思議に思ったものでした。」
                  (アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』)

1780年に生まれたシャルル・ノディエが小さな頃にギロチンによる処刑の場面に立ち会ったことは十分に考えられ、その状況自体はなんら不思議なことではない。しかし、彼自身がギロチンにかけられたと語ることは馬鹿げている。そんな話をする方も、もし信じる人間がいるとしたら、どちらも理性を失っているとしか言いようがない。

ネルヴァルにとっては、そうした状態こそが創作を可能にする。
デュマの言葉に従えば、「想像力が理性を頭の中から追い出してしまう」状態。そこでは、「自分の想像力が生み出した登場人物」が活動し、作家は登場人物と「一体化」し、物語を語る。
ギロチンで頭を切り落とされた「私」の物語を、作家である「私」が語る。自分に起こった出来事だからこそ真実味が増し、みんながその話を信じるほどになる。

ネルヴァルが語るノディエの挿話は、決して非現実的な幻想物語として語られたのではない。フランス革命時の個人的な思い出として語られたのであり、その意味ではリアリティーがある。
そして、現実性と非現実性の二重性があるからこそ、なんらかの「偶然」のため、そうしたことがあったのかもしれないといった疑いが生まれる可能性が出てくる。切り取られた首を再び体に貼り付けるだけではなく、本人がその体験を語るという予期しない出来事は、「驚き」をさらに大きくする。

もちろん、そうしたことが現実に起こることはありえない。それが現実だと言い張れば、狂気を疑われることになる。
しかし、夢の中でなら、首が切られ、その首が言葉を話すとか、元の体にもう1度くっつくといったことは、十分にあり得る。
そのように考えると、ノディエの話は、狂気や夢と同様に、意識のコントロールがなく、合理的な説明を要求する「検閲」がないままに語られたことがわかってくる。
アレクサンドル・デュマがネルヴァルをからかった表現を使えば、想像力が頭の中から理性を追い出してしまった状態で作られた話。

ブルトンがシュルレアリスムの精神をネルヴァルの中に見出したのは、まさにこの点に他ならない。
「自分の想像力が生み出した登場人物」とは、理性的な「私」が意識的に作り出した人物ではなく、フロイトの用語を使えば反復強迫と同じように、意識の外で働く精神の活動によって作り出された人物。その存在は、「意識を超えた次元で人間を動かす何か」が人間の中にあることを示している。

注意したいのは、ブルトンは決して、意識よりも無意識を、理性よりも想像力を、現実よりも非現実を選択しているわけではないということ。人間の精神の中には二つの次元が共存することを強調しているのだ。

『狂気の愛』の中で、ブルトンはドイツの哲学者ヘーゲルの言葉を引用し、人間の中には意識できない秘められた部分があることに注意を引く。

現代の思考の最大の弱点は、まだこれから知られるべきものと比べ、すでに知られているものを極度に過大評価することであるように私には思われる。現代の思考を説得し、そうした方向に向かう圧力を根本的に嫌悪させるために、以下のヘーゲルの証言を参照することは、これまで以上に有用である。
「精神が目覚め、強く刺激されるのは、様々な対象を前にして発展しようとする要求によってであるが、そのことは、未だに解明されていない神秘的な何かが対象の中に存在していることによる。」
(アンドレ・ブルトン『狂気の愛』)

「知られているもの」と「未だに知られていないもの」は、意識と無意識、現実と夢に対応する。そして、精神にこの二つの次元が存在するとブルトンは強調する。ヘーゲルの言葉によれば、「神秘的な何か」が存在しているからこそ、精神は目覚めている。
逆の視点から言えば、目覚めている精神であれば、既知と未知の両者を常に視野に収めている。その精神が捉えるものこそが、「超現実」なのだ。

『シュルレアリスム宣言』では、二つの次元の融合が「絶対的な現実」であり、「超現実」であることが明示されている。

私は二つの状態が将来溶け合うことを信じている。二つの状態とは、ひどく矛盾するように見える夢と現実のことだが、それらが一種の絶対的な現実、言うなれば「超現実」に溶け込むだろう。
             (アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』)

二つの状態が溶け合った状態こそがシュルレアリスの表現する「超現実」であるということは、1932年に出版された『通底器』の中で、ブルトンがフロイトを批難する言葉からも確認することができる。

フロイトは心的現実を一つの固有な存在形態であり、それを物質的な現実と混同してはならないと主張したのだが、それでは、精神医学者たちが肉体と精神の間の因果的連鎖関係の緊密さを信じないと言って攻撃したことは、意味がないことになる。   (アンドレ・ブルトン『通底器』)

ブルトンの批判は、精神医学者たちだけではなく、フロイトも心的現実と物質的な現実を別のものと見なしたということにある。
それに対して、ブルトンは、心と体、意識と無意識、理性と想像力、現実と非現実、正気と狂気という対比を超えて、それらを融合することで人間という存在を全体的に捉えることができるし、そうすることが必要だと主張したのだった。
人間は常に意識的に活動するだけではなく、無意識の力に動かされることもある。生きることには、そのどちらも含まれている。

こうした考察を踏まえると、『シュルレアリスム宣言』の中で、ブルトンがシュルレアリスムの辞書的な定義に付け加えた百科事典的な定義の意味が明確に理解できる。

百科事典。(哲学)。シュルレアリスムは、それが登場するまでずっとなおざりにされてきたいくつかの連想形式から成り立つ超現実、夢の絶対的な力、および思考の偏見のない活動、そうしたものに対する信仰に基づく。シュルレアリスムは、それ以外の全ての精神のメカニスムを完全に滅びさせ、それらに代わり、生(せい)の主要な諸問題を解決することを目指す。
 (アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』)

この定義から最終的に明らかになることは、シュルレアリスムが目指すものが、人間の「生(せい)」であること。
人間の中には意識的に働く力と意識されないままに働く力があり、二つの力の均衡の中で人間は生きている。それはごく自然な認識だといえる。

しかし、これまでの歴史の中で、意識の働きのみが人間の正常な活動と見なされ、非理性的な次元は夢や狂気として正常な活動から排除されてきた。
その反動として、20世紀初頭にフロイトの無意識の心理学が脚光を浴び、ブルトンもシュルレアリスムという新しい世界観・芸術観を提示したのだった。

そして、「生」を表現する方法として発明したのが、「自動筆記」だった。
それは、意識による検閲が働かない状態で、言葉が湧き出てくるままに書き付けていく手法。素材は現実的なものだとしても、本当らしさという基準によって言葉の連なりが選択されることはなく、何が飛び出してくるのかは書いている本人にも分からない。偶然起こる予期しない出来事が驚きをもたらす。
アンドレ・ブルトンの代表作である『ナジャ』や『狂気の愛』において私たち読者が立ち会うのは、そうした「偶然」や「驚き」が生み出す「痙攣的な美」に他ならない。


結局、ブルトンは、アポリネールからシュルレアリスムという用語を引き継ぎながら、伝統的な芸術を二つの側面から刷新したことになる。
まず、アポリネールに従って、モデルをそのままの形で再現する伝統的な芸術観を捨て去った。歩行を表現する際に、足ではなく、車輪を描く。
その一方で、アポリネールにおいてはまだ残っていた理性的な側面を停止し、フロイトの心理学理論を参照し、意識とは別の精神の力による表現を前面に打ち出した。「理性によって行使されるいかなるコントロールもなく実践される思考の口述筆記」(『シュルレアリスム宣言』)という定義が、そのことを明確に示している。


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