2024年のパリ・オリンピックでも、オリンピックに出場するために厳しい練習を積み、予選を勝ち抜いた選手たちに対して、映像を通して競技を見ているだけの人間たちが感情的なコメントを寄せ、攻撃性を発揮するという状況が見られた。
何かのきっかけがあれば、誰に頼まれたわけでもないのに、インターネット上で誹謗中傷を行い、時に殺害を予告するなどの行動は、現代社会の病いの一つだと考えられる。
そのための対策として、しばしば心理学的な説明が行われ、被害を受けた側だけではなく、攻撃する人間に対する対策も提案されている。
攻撃性の心理的原因
1)匿名性による安心感
2)集団への同調=没個性化
3)自己肯定感の低さからくる承認欲求、目立ちたがり
4)劣等感コンプレックスからくる嫉妬
5)承認欲求や嫉妬に由来する正義感
6)フラストレーションのはけ口
被害を受けた側の対策
1)無視
2)コメント削除の要請
3)投稿者を特定し、損害賠償や刑事告訴
誹謗中傷する側の対策
1)送信ボタンを押す前に、一旦時間を置き、メッセージを見直し、衝動的、感情的ではないか見直す。
以上のように、心理学的な原因の説明や、攻撃する側、攻撃を受ける側に向けられた対策は、すでに提示されている。しかし、残念ながら、インターネット上での誹謗中傷が収まる気配はない。
その理由はどこにあるのだろうか?
(1)「数」の力
答えは、一言で言えば、「数」。
インターネット上では、いいね、リツイート、フォロワーの数が、メッセージを書いた人間の自己確認になる。インフルエンサーが社会的に認められる状況は、「数」が価値であることを示している。
そうした状況の中で、過激な書き込みに対して反応する人々が数多くいることを忘れてはならない。どのような内容であっても、バズれば狙いが達せられる。
また、一部のマスメディアは、話題になっているツイートを取り上げる。そのことで、書き込まれた内容を拡散させ、リツイート以上の役割を果たす可能性がある。
さらに、「数」は収益にも繋がる。YoutubeやXなどには収益プログラムがあり、広告収入の一部がクリエーターの収入となる。再生回数が多くなれば、収益がアップする。
インターネット上で誹謗中傷が収まらないのは、社会の中にこうしたシステムが存在し、多くの人々の生活がその中に組み込まれているからなのだ。
従って、問題の要点を把握するためには、書き込みを行う個人の心理的な要因だけではなく、より幅広い視野から現代を生きる人間に何が起こっているのか見ていく必要がある。
(2)共感と同質性
何かを書き込むということは、そのメッセージを読む人を説得し、同意あるいは共感を得る意図があるはずである。言葉に説得力がなければ、賛同者は増えないはず。
では、メッセージが説得力を持つためには、何が必要なのか?
その点について、アリストテレスは『弁論術』の中で、3つの要素を挙げている。
1)発信者(話す人、書く人)の人柄に対する信頼(エートス)
2)内容の論理性(ロゴス)
3)感情への訴え、共感(パトス)
匿名の書き込みでは、発信者は不明。人柄についても、メッセージが正確な知識に基づいたものなのかも、受信する側には分からない。
また、SMS(Short Message Service)の文字数は670字まで。その字数で、ある前提に基づき、しっかりと論理立てた文章を組み立てることは不可能だといえる。
従って、『弁論術』で挙げられる最初の2つの要素は意味を持たない。
そのように考えると、インターネット上での書き込みの多くは、感情に訴えることで、共感を得ようとするものであることが分かる。
そこでのキーポイントは、説得ではなく、「共感」。
違う考えや感受性を持つ人々と議論し、共通点を見出し、お互いを理解するためには、時間も忍耐も必要になる。
その反対に、初めから同じ考えを持ち、同じように感じる人たちであれば、くどくどと説明しなくても同意され、いいねが押され、賛同者の数が増えていく。
SNSのメリットとして、趣味や感性の合う人と容易に繋がることができることが挙げられるが、繋がることができるのは「合う人」なのだ。メッセージは、同質性を持つ人々の間でだけ共感され、拡散していく。
他方、「合わない人」とは繋がらない。異質な意見や感性を持つ人は「他者」であり、視野に入らない。視野に入ったとしても、排除か攻撃の対象としてでしかない。
分断が進む現代の世界で起こっていることは、まさに、同質性に基づく共感と、他者に対する排除や攻撃に他ならない。
同質性を持つ人々の中では、他者に対するどのような振る舞いも感情的な同意を得られるために、正義感の発揮と見なされる。人格攻撃も誹謗中傷も、反対者を傷つける行為さえも、賛同を受ける。その「数」が増えれば、自己確認はさらに強化される。
アリストテレスの『弁論術』を振り返れば、そうした言動は「感情」に基づくものであり、「論理」は必要とされない。論理性だけではなく、事実に基づく基本的な認識さえ問題にされない。
フェイクニュースが拡散する理由もそこにある。偽りだと証明されたとしても、感情的な同意さえあれば、真実性は問われない。自分が正しいと思えば、それが正しいことになっていく。
「他者」の視点が存在しないために、その正しさが賛同者の間だけでしか通用しないことに気付かない。なぜなら、賛同者が「みんな」なのだ。
このように考えると、インターネット上での誹謗中傷は、特殊な心理を持った人間の問題ではないことが分かってくる。
現代社会において、多様性という言葉がしばしば口にされるにもかかわらず、私たちは、実際には、同質な空間の中で感情的な同意を求める傾向にある。ネット空間は、その傾向を助長するものなのだ。
誹謗中傷の書き込みを減少させるためには、どうしたらいいのだろう。
匿名を廃止して氏名を明らかにすれば、行為に対して責任を持ち、攻撃性を抑止できるのだろうか?(続く)