(3)匿名と有名
インターネット上での誹謗中傷が、ネット空間における匿名性によると言われることがある。確かに、殺人予告など直接的に犯罪に繋がる書き込みの場合、氏名を特定できるシステムであれば、ある程度抑制できるに違いない。
しかし、悪口、暴言、根拠のない批難、感情的な意見などは、犯罪とは認定されないために、書き込んだ人間の名前が実名であっても減少しない可能性がある。
A. ネット空間上の匿名
すでに確認したように、書き込みに対して賛同する人間が多数存在することが、書き込んだ人間にとっては自己確認になり、正しい発信をしたという思いを強くさせる。
インターネット上に成立するのは、考えや感受性が類似した同質の雰囲気であり、実在しない架空の空間である。それだけに、異なる意見や感受性があったとしても、それらと交わり、妥協する余地はない。
そうした架空の同質空間内での共感は、「数」によって強化され、もしも「他」が意識化されたとしても、無視するか、否定される。
リアルな社会でも、同じ考えや感受性を持つ人間との交流が中心になるのは自然なことだが、ネット空間では、その傾向がより顕著なのだ。
そして、その空間内では、もし「名前」があったとしても、その名前を持つ「個人」との具体的な繋がりはない。その点で、リアルな世界とは全く異なる。
リアルな世界では、固有名は、たとえ同性同名の人間がいるとしても、「この人」だと特定できる。その固有名を持つ「この人」は、世界に一人しか存在しない。
それに対して、ネット空間では、たとえ固有名が書かれているとしても、リアルな一人の「個人」と対応するわけではなく、単なる名称にすぎない。それは一つのレッテルであり、それが貼られている中身を明かすものではない。
そのために、インターネット上の書き込みは、書き込んだ人間の名前とは直接関係がなく、書き込みに対する反応の「数」が意味を持つ。
短いメッセージにおいて共感を数多く得るためには、論理によって説得するのではなく、感情に訴えかけることが有効な手段になる。センセーショナルな内容であれば、それだけ反応も多くなる。たとえ反感が引き起こされたとしても、バズることは「数」につながる。
その際、書き込んだ人間にとって意味があるのは、名前が知られることではなく、「数」による自己確認なのだ。
だからこそ、匿名であっても、書き込みを繰り返し続ける。
このシステムの中では、匿名であるかないかは意味をなさないため、実名であったとしても、攻撃性を持った書き込みをなくすことはできないだろう。
そうした書き込みをする人々の求めていることは、反応する人々の存在を通して得られる自己正当化であり、自己確認なのだ。
攻撃的なメッセージが、攻撃対象となった人々をどんなに傷つけるとしても、ネット空間の中で賛同者を持つために、書き込む人間は自分の行為は正しいものと確信する。
従って、たとえメッセージの発信者の名前が実名であろうと、その行為を止めることはないだろう。その人間の認識では、発信した内容は正しく、ネット空間での賛同がその思いを強める役割を果たす。
繰り返すことになるが、メッセージに対する数多くの反応を引き起こすためには、論理による説得ではなく、感情的な働きかけが重要になる。そして、共感を示すのは、最初から同じ思いや感情を共有している人々であり、いいねやリツイートの数が正当性の基準になる。
メッセージが匿名であろうと、実名であろうと、そのシステムは変わらない。
B. 有名な人々の書き込みや発言
匿名性を廃止し、実名にすることが問題の解決にならないことは、名前をよく知られた人々の書き込みや発言を通して確認することができる。
アリストテレスは『弁論術』の中で、言葉によって相手を説得する要素を3つ挙げた。
1)弁論する人の人間性に対する信頼、2)論理性、3)感情に訴えかける力。
古代ギリシアの哲学者によれば、この中で最も重要なのは、1)の人間性に対する信頼。
現代の日本の社会、とりわけマスメディアにおいて、有名であることが、発言内容の信頼性を保証するかのような現象が見られる。
その典型は、テレビやラジオでの「コメンテーター」の存在。
ニュースやワイドショーにおいて、一般の人々に向けて、情報を分かりやすく解説することが役割だとされる。
また、一般の人々の考えや感情を代弁をするという立場から発言し、視聴者の共感、時には反感を引き起こすことで話題性をアップし、番組の視聴率を上げることも求められている。
実際、コメンテーターたちは、「どのような話題についても」、与えられた時間内に収まるような短いコメントを発し、解説者と代弁者という二重の役割を果たす。
特に日本における特色だと思われる点は、その際に、必ずしも専門性は問われないということ。
コメンテーターとして、大学の研究者、弁護士、ジャーナリスト、元政治家や元官僚、経済アナリストなど専門性を持った人々も存在するが、必ずしも専門分野の出来事に関して解説をするだけではなく、専門以外の分野に関してもしばしば発言する。
また、芸能人、元スポーツ選手など、時事問題や世界情勢に関する特定の知識を持つとは思われない人々も、コメンテーターとして発言を行う。
彼らは、一般の人々の代表として、何らかの思いや感想を述べることで、共感を生み出す役割を主に求められていると考えていいだろう。
コメンテーターたちがどのような出来事についてもコメントする状況は、彼ら彼女らの選択が、専門的な知識の有無ではなく、何かの機会に名前が知られたことをきっかけとして行われたことを示している。
現代の日本では、有名であることが、アリストレスの『弁論術』における「話し手に対する信頼」に匹敵する状況が生まれているのだといえる。
そして、コメンテーターの役割をこなす人々は、マスメディアだけではなく、YoutubeやSNSでも発信を行う。
名前を知られていることは、視聴者や読者の「数」を確保するために大きな要素であり、その「数」が彼ら彼女らの知名度を維持あるいはアップするための手段になる。
そこでの発信内容がマスメディアでの発信以上に率直で過激なものになるのは、共感だけではなく、反感が広がったとしても、ネット空間では「数」を稼ぐことが重視されるからである。
C. 匿名と有名の同質性
匿名と有名は正反対なのだが、しかし、ネット空間やマスメディアでの発信において、大きな違いをもたらさない。
匿名の書き込みであろうと、有名な人間の書き込みであろうと、同質空間内での共感に基づく「数」が重要なのだ。
もちろん、有名な人間のSNSやyoutubeビデオであれば「数」は稼ぎやすい。しかし、匿名の書き込みでも、炎上すれば「数」はアップする。
ここで注目したいのは、ネット上では同質の人々がある特定の空間を作り、「他者」の存在は意味あるいは価値を持たないという状況が成立していること。
その中では、初めから感情が共有されているために、メッセージの目的は共感を引き起こすことにある。事実に基づいた証明や、論理的な説明は、その内容が共感を引き起こさない限り、意味をなさない。
逆に言えば、どのようなフェイクニュースでも拡散され、それが偽りだと証明されたとしても、共感の環の中で受け入れられ続ける。
いわゆる陰謀論者たちが存在し続けるのは、彼らが架空の同質空間の中で自足しているからに他ならない。彼ら彼女らにとっての真実は、同質空間の中では真実であり続け、外部からもたらされる真実は偽りとして拒否される。
そうした人々は、リアルな世界でも架空の同質空間から出ることはなく、攻撃対象に対して暴力的な行為を行ったとしても正義を主張し、異なる主張との間で論理的な議論をすることはない。ひどい場合には、他者を罵倒するだけで終わる。
そして、しばしば、彼ら彼女らを先導するのは、リアルな世界でも名前を知られている人々なのだ。
このように考えると、匿名か実名かの議論で、インターネット上の誹謗中傷が解決するわけではないことが分かってくる。
問題は、リアルな世界でさえも、同質空間から出ることがなく、「他者」の存在を考慮に入れることがない人々がいるという現状なのだ。
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「他者」が不在なことは、「自由」に行った行為に対する「責任」のなさに繋がる。そこで、次に「表現自由」と「責任」の関係について考えていこう。(続く)