インターネット上での誹謗中傷 3/3 自由と責任

(4)自由と責任

インターネット上である書き込みが問題になると、一方では規制をすべきだという主張がなされ、他方では「表現の自由」を守るべきだという主張がなされる。
そして、その二つの主張は常に平行線をたどり、時間の経過とともにいつの間にか問題自体が忘れられてしまう。

また、その議論の中で比較的忘れられているのは、書き込みによって生じた事態に対する、書き込んだ人間の責任に関する問題。
匿名の書き込みの場合は行為の主体が明確でないために、責任がその主体に降りかかることはない。
実名が記され、書き込みの主が明確な場合でも、その状況はほとんど変わらない。内容に根拠がなく、事実とは異なっていたり、ただの思い込みが攻撃性を持ったものだったとしても、責任が問われることはまれである。
炎上することがあったとしても、「数」を増やすことにつながり、その時には批判されることがあるとしても、時間が経てば何事もなかったかのように同じ行為が繰り返される。

発信する「自由」は保障されているが、その内容に対する「責任」が明確に問われることはないというのが現状なのだ。

ここではまず、なぜそうした状況になっているのか考えてみよう。

A. 20世紀後半から続く思想の中での「自由」と「責任」

一般的に私たちは自分の行為には責任が伴うと考えているのだが、実は、「自由」と「責任」の関係について異なる考え方があることを確認しておこう。

i. サルトルの実存主義

第二次世界大戦の終わりから戦後にかけて世界的に影響力を持った思想に、実存主義がある。その推進者だったジャン・ポール・サルトルは、人間の行動を決定するのは意識を持った主体であり、ある対象にどのような意識を向けるかは主体の「自由」に委ねられていると考えた。

実存主義がヒューマニズムだというサルトルの宣言は、人間は自由であることの表明に他ならない。
外部から強制されず、自分の思い通りに発言し行動できることは、人間に保証されるべき基本的な権利のようにも考えられる。

他方で、サルトルは、「人間は自由という刑に処せられている」という言い方もする。つまり、人間は自由でないことができない。自由を強いられている。
そのことは、自由な選択によってなされた行動の結果には、自由であるからこその責任が伴うことを暗に示している。

「私」は単独で存在するのではなく、「他者」と相互的に作用する関係にある。だからこそ、「責任」とは、抽象的な概念ではなく、行動が影響を与えた「他者」に対し、行動主体が負う具体的な責任なのだ。
「他者」がいなければ、行動の引き起こす反応が、主体である「私」に返ってくることはない。「他者」の存在が「私」に「責任」を感じさせる。

サルトルは、そうした主体と他者の回路を明確に意識していた。だからこそ、自由な行為は義務を負うものであり、「他者」に対する責任から逃れられないと考えたのだった。それが、「自由という刑」という表現の意味することに他ならない。

「私」は自由に選択した相手と契約を結び、相手に対し責任を負う。結婚指輪(エンゲージ・リング)はその一つの象徴だ。
サルトルが「アンガージュマン(英語のエンゲージ)」という言葉を使い、自由と責任を自覚し、自分の行動によって社会問題に主体的にコミットすると主張したのも、同じことを意味している。

ここでとりわけ強調したいことは、「自由には責任が伴う」という意識が生まれるのは、「他者」の存在があってこそだということ。「他者」の反応が主体に責任感を抱かせる要因であり、その意味で、「責任」とは「他者」に対する反応なのだ。

ii. 構造主義、ポスト構造主義以降

構造主義思想を推進した文化人類学者レヴィ・ストロースは、サルトルの主体を中心とした思想とは反対に、人間の行動を左右するものは不可視のシステムだとした。
人間は自由に行動を決定するのではなく、目に見えない何らかのシステムに規定されて行動する。そうした考えは私たちには馴染みにくいかもしれない。そこで、具体的な例を挙げてみよう。

レヴィ・ストロースは、未開社会における近親婚の禁止を取り上げ、近親婚を避けるのは個人的な選択によるのではないと考えた。
彼の理論によれば、一つの集団は、自分の部族内だけで結婚していたのでは閉じてしまい、いつか成立しなくなる。そこで、一つの部族から他の部族へ女性を送り出すことで、集団を維持する必要がある。近親間での結婚を禁止するルールは、そのためのシステムなのだ。

構造主義において、そのシステムは「構造」と呼ばれる。構造は目に見えず顕在化しているわけではないが、人々は意識することなくその構造に従って行動する。

この例から分かるように、構造主義では、人間は言語や文化的なシステム=構造によって意志を形成すると考える。
構造主義者は、主体の存在を疑い、全てが構造を原因として決定されると考えたのだった。それは、人間の自由意志を中心にして、個人が主体的に考え自由に行動するという思想とは正反対の考え方である。

構造主義に続いたポスト構造主義と呼ばれる思想や、それ以降の思想においても、基本的には、主体としての「人間」が解体される傾向にある。その流れの中で、AIが人間に代わって生成を行うことさえ可能な現代は、人間の主体性の不在を象徴しているといえるかもしれない。

B. 責任の軽重

ここでとりわけ取り上げたいのは、「私」の行動が、社会的な構造、例えば、成育的、社会的、心理的な原因によって引き起こされると考えるならば、「私」は自由な主体ではないことになり、行為の「責任」が「私」にはないと見なされる可能性があるという観点。
その考え方に従うと、「私」は自由ではなく、そのために責任も希薄化される。

行動主体の自由と責任に関して、現在の裁判制度では、二つの視点を融合して刑罰の軽重を判断している。
一人の犯罪者がいるとして、彼の犯罪には様々な要因が考えられ、その要因が彼を犯罪へと追い込んだと考えると、彼は自由な存在ではなく、責任はないという考えに導かれる。
しかし、一般的常識としては、たとえ人間が因果律に規定されているために「自由」がないとしても、そのことは一旦保留して、彼には犯罪を犯さない自由もあったはずだと考える。人間は様々な制約に左右されて行動するが、そうした中でも自由な意志が働く余地がある。
裁判では、その二つの視点のバランスを取りながら、犯人を犯行へと導いた要因を考慮に入れた上で、量刑を決定する。

例えば、2008年に起きた秋葉原通り魔事件では、犯人は赤信号を無視してトラックを交差点に突入させ、通行人5人を跳ね、さらにトラックから降りて通行人や警察官たちをナイフで刺し、7人を死亡させ、10人に重軽傷を負わせた。
その裁判において、検察は死刑を求刑したのに対し、弁護側は事件当時に心神喪失状態だった疑いを挙げて、死刑判決を破棄するように主張した。
被告が事件を起こした原因については、裁判の審理では、母親の養育方法が被告の人格形成に影響を与えたことなどが挙げられ、専門家からは、劣悪な労働環境、負け組意識、社会的な孤立、学歴コンプレックスなどの要因が提示された。
裁判の最終的な判決は死刑となり、2022年に刑が執行された。

この事件の裁判を通して、二つの視点が交差していることを見て取ることができる。
一方には、行為が引き起こした結果の重大性を重視し、犯人はその責任を取るべきだという考え。そのベースにあるのは、犯人は誰に強制されたわけでもなく、自由な決定によってその犯罪行為を行ったのであり、殺害された人や負傷した人に対して、その行為に匹敵する刑罰を受けるべきだという、自己責任論。
他方には、犯行は犯人の置かれた社会的な状況や、その結果生じた精神的な病理によって引き起こされたものであり、個人が自由に選択した行為というだけではなく、外的な要因が作用していると見なす考え方。
弁護側はそうした要因を挙げることで、情状酌量を求める。さらに、犯行時には心身耗弱状態にあったという主張では、犯行は主体的に行われたものではなく、犯人に責任能力はないということになる。
その際には、犯行の被害者=「他者」に対する視点は弱まり、犯人を動かした外的な要因に力点が置かれることになる。

これだけの重大な事件に対しても、犯人の責任に対する視点は複雑に絡み合っている。

。。。。。

実際に行われた犯罪に対する責任の軽重に関してさえ意見が分かれる。としたら、インターネットやマスメディアでの発信に対する責任について、ほとんど意識されなくても仕方がないのかもしれない。

パリ・オリンピックでの柔道団体戦の決勝戦で話題になった「抽選ルーレット」について考えてみよう。
日本とフランスの団体戦は三勝三負になり、最後の決戦を誰にするのか決めるためルーレットが使われた。その結果、「+90」が示され、100キロ超級の斉藤立とテディ・リネールが戦うことになり、リネールが勝利し、フランス・チームの優勝となった。

それに対して、日本では数多くの投稿がインターネット上に寄せられ、マスメディアでも出演者たちがコメントをし、「不正疑惑」「いんちきルーレット」「イカサマ臭満載」といった批難がなされた。しかも、その発言が活字メディアでも取り上げられ、さらに拡散した。

しかし、そうした発信に明確な根拠が示されることはなく、日本チームが負けたことに対する不満から発せされた感情的なコメントだと考えられる。
現実にはありえないことだが、もしこうした書き込みや発言に対して、パリ・オリンピック委員会が侮辱罪で訴え、発信者たちの責任を問うことになったら、どのような結果になるだろう?

女子ボクシングでは訴訟が実際に起こり、アルジェリアの女性ボクサーが、インターネットなどで誹謗中傷を受けたとして、フランス捜査当局に容疑者不詳で刑事告訴を行った。被告人の中には、「ハリー・ポッター」シリーズの作者J・K・ローリング、イーロン・マスク、トランプ前大統領などが含まれているとされる。
その女性ボクサーに対しては、日本でも激しい攻撃性を持った書き込みやコメントが数多くあったが、そうした行動をした人々は、主体的に自由な判断をした上で、自分たちの行動に責任を取るという意識があったのだろうか? 訴えられた場合に、マスメディアから流れてきた情報によって感情的に反応したとして、情状酌量を求めるのだろうか?

こうした事例を見ると、現代社会における「他者」意識の希薄さが浮き彫りになる。
柔道のルーレットの場合、不正だとした人々は、最初から斉藤選手が負けることを前提にしている。だからこそ、「+90」はいかさまだと主張し、不正を糺そうとする。
その際に、斉藤選手に対して失礼な発言だという意識は持たないようだ。

女性ボクサー選手に対しても、国際ボクシング協会と国際オリンピック委員会の間で見解の分かれた問題に対して、自分たちが正しい判断を下すという意識だけで行動し、そのボクサーのこれまでの生活や両親たちの受けた苦痛など、「他者」に対する思いが欠けている。

サルトルの思想では、「私」は自由であるが、「私」が自意識を持つのは「他者」との関係の中だとされる。「他者」からの反応が「私」に返ってくることで、「私」は自分の行動に対する意識を持つ。
現代社会においては、テレビでも、インターネット上でも、「私」の視野から具体的な「他者」が消え、「他者」と相互関係にあることが感じられない。
そのために、自分の発言や書き込みに「責任」を持つという意識も希薄になる。
そして、そうした状況が、現代社会が攻撃性を許容する原因の一つなのだと考えられる。


殺害予告と誹謗中傷との間に一線はあるが、誹謗中傷と批判の間の境はかなりおぼろげであり、正義感を持ち、自分たちが正しいと信じる人々から批判が発信される。
その正しさには現実的な根拠が示されず、短いメッセージの中で主張が論理立てて証明されるわけでもないのだが、同質性を持った人々が存在し、賛同が得られる。
他方で、そこに他者に対する意識は存在せず、責任を持つという意識も発生しない。

こう言ってよければ、「自由」はあるが「責任」はないというのが、現代社会の状況なのだ。発信者にとってこれほど快適なことはなく、その状況を変えることは非常に難しいと言わざるをえない。

どのようにして誹謗中傷や根拠のない批判を減少させることができるのだろうかと考えるのだが、これまでに考察してきたような「長文」を通して、投稿や発言をする人々に自覚を促そうとしても意味がないことは明らかだ。
それは、「送信ボタンを押す前に、一旦時間を置き、メッセージを見直し、衝動的、感情的ではないか見直す」というアドヴァイスを送るのと同じ結果にしかならないだろう。

できることは、「自由には責任が伴う」という意識を、社会的に再確認することから始めるしかないのかもしれない。しかし、ここではとりあえず、現状を認識することだけに留めておこう。

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