日本における漢字の導入と仮名の発明 1/4 最初の漢字から普及まで

日本語の最大の特色の一つは、漢字と仮名(ひらがな、カタカナ)という二つの文字表記を併用していること。私たちにとってあまりにも当たり前すぎて気付かないのだが、そうした例は他の言語にはなく、驚くべきことだといえる。

文字が存在していなかった古代日本において、文字として漢字が使われるようになり、日本が漢字文化圏の中に組み込まれる。その後、ひらがなやカタカナが発明され、独自の文化や精神性が生み出されてきた。
その結果、漢字と仮名を併用した文が私たちにとって最も自然に感じられ、過去に漢字文化圏に入った朝鮮半島やベトナムなどは漢字の使用を廃止したのとは反対に、日本では漢字の使用を続けている。

そうした歴史的な展望を視野に入れながら、無文字社会だった日本に漢字が導入された時代から、仮名が発明されるまでをたどってみよう。

(1)前史

弥生時代に漢字が使用されていた明確な証拠は残っていないが、漢字がすでに知られ、ある程度は使用されていたかもしれないという痕跡は発見されている。
その一つは「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)と刻印された金印。もう一つは、「魏志倭人伝」(ぎしわじんでん)に記された卑弥呼(ひみこ)から魏(ぎ)の天子に送られた礼状。

A. 「漢委奴国王」の金印

日本で文字の存在が確認される最初の例は、福岡県志賀(しかの)島で発見された「漢委奴国王」の金印だと考えられている。

ただし、この金印は、1世紀に後漢の光武帝(こうぶてい)から奴国(なこく)の使者が受け取ったものと考えられ、日本の国土に住む人間が文字を刻んだものではない。

B. 邪馬台国の卑弥呼から魏の天子に送られた礼状

「魏志倭人伝」で語られる邪馬台国の女王、卑弥呼に関する記述は、現在の日本の国土に住む住民が文字を使用した証拠になりうる。

「魏志倭人伝」とは、3世紀末に西晋の陳寿(ちんじゅ)が編纂した中国の史書『三国志』の中にある、「魏書(ぎしょう) 鳥桓鮮卑東夷伝(がんせんぴとういでん) 倭人条(わじんじょう)」のこと。
そこでは、当時の倭国の様子などが、1983文字で記されている。

「魏志倭人伝」によると、景初3(239)年6月、邪馬台国の女王、卑弥呼が、中国の三国時代の魏(ぎ)に使者たちを送り、天子に朝貢を行った。
翌240年、その返礼として、魏の天子は倭国の王に、詔書(天子の命令)、印綬(官職の証としての印章と綬)、金、絹、錦、毛織物、刀、鏡、彩りのある物などの贈り物を送り届ける。
それらを受け取った倭王は、詔書を拝読し、文書によって感謝の念を伝えた。

その最後の部分には、「倭王因使上表荅謝詔恩」と書かれている。
その漢文は、「倭王は、恩に報いるため、敬意をもって作成した書状で、詔書への感謝を伝えた」といった意味になる。
その感謝の言葉は漢文で書かれていたはずで、それを書いたのは通訳などの役割を果たした渡来人だったと考えられる。しかし、日本で文字の使用がなされていたことを示す証拠にはなる。

その時期に日本語を漢字によって書き記すということはまだなかったはずだが、その前段階として注目すべきことがある。
人名や地名などの固有名は翻訳できない。従って、邪馬台国の女王である「ひみこ」という名前を漢字で表現するためには、その音に対応する漢字で当て字をする他ない。

倭國亂相攻伐歴年 乃共立一女子為王 名日卑彌呼 

(書き下し文)
倭国は乱れ、相攻伐して(互いに攻撃しあって)年を歴る。すなはち、一女子を共に立て王と為す。名は卑彌呼といふ。

古代の日本語の発音と、3世紀末の西晋の漢字の読み(音)は正確にはわからないが、王として立てられた女子の名前として「卑彌呼」という漢字が当てられている。
固有名を漢字で表現する、つまり漢字を表音文字として使うことは、後の時代に日本語を漢字で書き記す際の手引きになったに違いない。

(2)漢字使用黎明期

古墳時代の鉄剣や銅鏡には漢字が彫られているものがあり、日本でも漢字が使用されるようになってきたことが確認される。
その中には、漢文で書かれているものだけではなく、日本語の音声を漢字の音で表現したものもあり、日本語の書記表現として漢字が使われ始めていた証拠となる。

A. 稲荷山古墳から出土した鉄剣 

古墳から発掘された鉄剣には銘文が記されているものが多くある。
その代表は、埼玉県にある稲荷山古墳(前方後円墳)から出土した鉄剣で、剣身の両面に合計115の文字が刻まれている。

「辛亥年七月中記」(辛亥年の7月中に記録した)から始まり、「記吾奉事根原也」(これは私が奉仕している根本の証である)で終わる銘文は、漢文で書かれている。

その一方、「乎獲居」(よわけ)「獲加多支鹵」(わかたける)「斯鬼」(しき)といった、人名や地名の固有名と思われる漢字が43文字ある。これらも、「魏志倭人伝」の卑弥呼の場合と同様、日本語の音に似た読みの漢字を当て字したものだと考えられる。

B. 隅田八幡神社の銅鏡 

和歌山県橋本市の隅田八幡神社に伝わる銅鏡は、5世紀から6世紀頃に製作されたと考えられ、背面の内側に人物や騎馬像をあらわした画像が描かれ、その外側に以下の48文字の銘文が刻まれている。

癸未年八月 曰十大王年 予弟王在意柴沙加宮時 斯麻念長奉 遣歸中費直 穢人今州利二人尊 所白上同二百旱所此竟

この銘文は鏡の由来を記したものだと考えられる。
それによれば、弟である曰十(読み方不明)王が意柴沙加宮(おしさかのみや)にいる時、斯麻(読み方不明)が、弟王に忠誠を誓うため、家来である歸中費直(かわちのあたい)と穢人(漢人)である今州利(読み方不明)の二人を送り、それを記念して、良質の銅200貫(重さの単位)を使い、この銅鏡が作られた。

一応このように理解できるが、ただし、48文字の文に対してさまざまな解釈が提示され、現在でも定説が定まらない。その理由は、最後の10文字「所白上同二百旱所此竟」の意味が確定できないことから来ている。
例えば、「所白上」の意味が明確ではなく、斯麻が「此竟」(この鏡)を彼自身で作ったのか、二人の家来に作らせたのか、別の誰かに作らせたのか、よくわからない。

自然な漢文なら普通に解釈できる。逆に言えば、解釈が困難なことは、この銘文が純粋な漢文ではなく、日本語の文脈で漢文の形式を模倣した文章、あるいは、漢文風の日本語だともいえる。
そして、そのことは、漢字が日本語の書記表現として用いられ始めたことを示す証拠となる。

(3)仏教伝来と漢字使用の普及

仏教伝来は、538年あるいは552年に、百済(くだら)の聖明(せいめい)王から、欽明(きんめい)天皇に、仏像や経典が贈られたことが始まりであり、それは538年あるいは552年とされる。

しかし、それはあくまでも公式の出来事であり、それ以前から、渡来人たちの信仰の対象として、仏教が伝わっていた。
実際に日本と朝鮮半島の関係は密接であり、3世紀末から6世紀の古墳時代、多数の人々がヤマト王権に仕える技術者として、同盟関係にあったから百済から渡来してきていた。
当時の朝鮮半島では、百済、新羅(しらぎ)、高句麗(こうくり)という三つの国が争い、百済はヤマト王権にたびたび支援を求めてきた。一方、ヤマト王権でも、百済から新しい文化や技術を取り入れようとした。
そうした中で互いに交流する間に、仏教が百済を通じて日本に伝えられたのだった。

そのことは、漢字の読みに関して大きな意味を持っている。
百済で漢字は「呉音」で読まれており、日本で広く流通する漢字の読み方も呉訓になっていったのだった。

「呉音」と「漢音」の違いを、いくつかの例で見ておこう。

呉音漢音
びょうへい
じょうせい
ぎょうこう
げ  :変化(へんか  :変化(へん
こん :建立(こんりゅう)けん :建築(けんちく)

「漢音」に関しては、推古天皇の時代以降に普及したのではないかと考えられる。
その時代、聖徳太子が、仏教推進派の蘇我馬子らと協調して政治を行い、中国大陸の進んだ文化や律令制度、仏教などを学ぶため、遣隋使を派遣した。
そして、遣隋使や留学僧たちが帰朝して伝えたのは「漢音」だったと考えられている。

もし聖徳太子が604年に制定したとされる「十七条憲法」の原文が残されていれば、当時の漢字使用の実際を知るため貴重な資料となったはずだが、残念なことに失われてしまい、現存しない。
720年に編纂された『日本書紀』に全文が記されているのだが、しかし、『日本書紀』は漢文で書かれた書物であり、そこに記された「十七条憲法」も、8世紀の漢字使用の状態を反映していることになる。 
従って、現実にどのような文章だったのか知ることはできない。

7世紀の初頭、629年に即位した舒明(じょめい)天皇の時代には、『万葉集』に収められることになる歌も作られ始めていた。
当時は口伝えだけで伝承されていたのかもしれないが、しかし、徐々に万葉仮名を用いて書かれる伝統が成立しつつあったに違いない。文字に記録されることで歌が読まれるようになり、各地に広がっていったものと考えられる。
ただし、その時代に文字として書き記されたものは残されていない。

(4) 『古事記』

日本最古の文字資料として現在まで残っているのは、712年に編纂された『古事記』。720年に編纂された『日本書記』が正規の漢文で書かれているのとは異なり、『古事記』は日本語を漢字で表記したものであり、当時の日本語がどのような状態で書き記されていたのかを教えてくれる。(2/2に続く)

コメントを残す