
「人間は考える葦である」という有名な言葉で知られるブレーズ・パスカルに興味を持ったとして、彼について少し調べ始めると、キリスト教の思想家であり、ジャンセニスム、イエズス会、恩寵などといった言葉が真っ先に出てきて、出鼻を挫かれる。
キリスト教の神を中心とした思索が続き、今の私たちが抱く関心とは何の関係もないことばかりが延々と語られるように思われる。
『田舎の友への手紙』は、パスカルの宗教信条と対立するイエズス会の道徳を批難し、神の恩寵に関する彼の考えを提示するために書かれたもの。そのために、私たちとは無関係な議論が続くように感じられるだろう。
しかし、キリスト教内部の論戦という第一義的な表面を取り去ると、実は、アクチュアルな出来事についての視点を提供してくれることがわかってくる。
例えば、「第14の手紙」で問題になるのは、相手が悪人であれば、直接罰してもいいのか、という問題。正当防衛という理由で相手を攻撃することが本当に正当かどうかという問題は、ハマスのテロに対してイスラエルが直接的に報復することが正義であるのかどうか、という問いかけにもつながる。
ここでは、「第14の手紙」の後半部分の一節を取り上げ、パスカルがどのような答えを出すのか、読み取っていこう。
(1)正しい裁き
パスカルは、彼とは主張が異なるイエズス会の神父たち(mes Pères)に対して、次のように語り掛ける。
Tout le monde sait, mes Pères, qu’il n’est jamais permis aux particuliers de demander la mort de personne ; et que, quand un homme nous aurait ruinés, estropiés, brûlé nos maisons, tué notre père, et qu’il se disposerait encore à nous assassiner et à nous perdre d’honneur, on n’écouterait point en justice la demande que nous ferions de sa mort ; de sorte qu’il a fallu établir des personnes publiques qui la demandent de la part du Roi, ou plutôt de la part de Dieu.
全ての人々が知るところですが、神父の皆様、個々の人間が何人(なんびと)の死を要求することも許されていません。たとえある人が私たちを破産させ、肉体に危害を加え、家を燃やし、父を殺害するとか、さらには、私たちを暗殺し、名誉を奪うなどしたとしても、裁判において、私たちがその人間の死を望んでも聞き入れられないでしょう。それが聞き入れられるためには、複数の公的な人物を設ける必要があったのです。彼らが、王の代わり、もっと言えば、神に代わり、その男の死を要求するのです。
パスカルは、tout le monde sait(全ての人が知っている)と言うことで、議論の前提を設定する。
その前提を現在の言葉で言えば、「人を殺してはいけない」という非常に明快なこと。というか、明快だと信じられていること。
« demander la mort de personne »(誰かの死を要求すること)は、許されない。
しかし、相手があなたを攻撃し、危害を加えた場合はどうだろう?
パルカルはこう言う。もし死を望んだとしても、証拠を正しく検証する必要がある。そして、それが正しいと判断できるのは、神だけだと。
神が出てくると、現代人は思考が停止してしまいかねない。
しかし、証人たちが提出した証拠が客観的な事実に基づいているのか、それらの判断が絶対に正しいのか、最終的に決定するのは難しい。
その難しさは、死刑の判決を下されながら、証拠が捏造されて無罪になるという例からも理解できる。
神とは、「絶対的な正しさの保証となるもの」。
そのくらいの意味で考えると、信仰心がないと思っている読者でも、パスカルの主張を理解しようという気持ちが戻ってくるに違いない。
次の一節で、その規則(ce règlement)と言われるのは、「裁きは神の代わりに行われるもの」ということ。
À votre avis, mes Pères, est-ce par grimace et par feinte que les juges chrétiens ont établi ce règlement ? Et ne l’ont-ils pas fait pour proportionner les lois civiles à celles de l’Évangile, de peur que la pratique extérieure de la justice ne fût contraire aux sentiments intérieurs que des Chrétiens doivent avoir ? On voit assez combien ce commencement des voies de la justice vous confond ; mais le reste vous accablera.
あなた方のご意見では、神父の皆様、苦虫をかみつぶしたような顔して、そして見せかけのために、キリスト教の裁判官たちは、その規則を作ったのでしょうか。彼らがそうしたのは、外面的な裁判の実践がキリスト教徒たちが持つべき内心の感情と反することを恐れ、一般の人々の法を福音の法に釣り合わせるためではなかったでしょうか。その正義の道の始まりが、どれだけあなた方を困惑させるか、十分にわかっています。しかし、残りの部分は、あなた方を圧倒してしまうでしょう。
ここでポイントになるのは、la pratique extérieure de la justice(外面的な裁判の実践)と、les sentiments intérieurs que des Chrétiens doivent avoir(キリスト教徒たちが持つべき内心の感情)の一致。
ここでも、des Chrétiens(キリスト教徒)という言葉で思考停止することなく、私たちのことだと読み替えると、パスカルの言うことに納得がいく。
つまり、正当な裁きを求める心と、実際に下される判決が一致することが、神に基づく判断という規則を作った目的だということになる。
les juges chrétiens(キリスト教の裁判官たち)の規則に納得しない神父の皆様=イエズス会の神父たちは、そのために、困惑し(confond)、圧倒されることになるだろう(accablera)と、パスカルは忠告する。
この言葉は、nos pèresがchrétiensではないかのような印象さえ与える。
次に、裁判を経ずに、直接相手に危害を加える場合が想定される。
Supposez donc, mes Pères, que ces personnes publiques demandent la mort de celui qui a commis tous ces crimes, que fera-t-on là-dessus ? Lui portera-t-on incontinent le poignard dans le sein ? Non, mes Pères ; la vie des hommes est trop importante, on y agit avec plus de respect : les lois ne l’ont pas soumise à toutes sortes de personnes, mais seulement aux juges dont on a examiné la probité et la suffisance.
神父の皆様、そのような公的な人物たちが、上に挙げた全ての罪を犯した人間の死を要求することを想像してみてください。その場合、人はどうするでしょうか? いきなりその人間の胸に短剣を突き刺すでしょうか? いいえ、神父の皆様、そんなことはありません。あらゆる人間の命は非常に大変に重要なものです。命に対して、より多くの敬意を持って振る舞います。法律は、その命を、どんな種類の人間にでも委ねるということはありませんでした。従わせるのは、誠実さと能力がしっかりと吟味された裁判官たちに対してだけでした。
incontinent(即座に)という言葉は、裁判を飛ばして、相手のle sein(胸)にle poignard(短剣)を突き刺す行為の唐突さを伝えている。
この非合法な行動を描いた後、パルカルの主張が明確に発信される。
« la vie des hommes est trop importante. » (人間の命はあまりも重要なものだ。)
だからこそ、誰もが命に対して、respect(尊重の念、敬意)を持つ必要がある。
les juges(裁く人間)には、la probité(誠実さ)とla suffisance(正しい裁きをするのに十分な能力)が求められる。
次の論の展開では、裁く人間の資質だけではなく、裁く際の条件に話が及ぶ。
Et croyez-vous qu’un seul suffise pour condamner un homme à mort ? Il en faut sept pour le moins, mes Pères. Il faut que de ces sept il n’y en ait aucun qui ait été offensé par le criminel, de peur que la passion n’altère ou ne corrompe son jugement. Et vous savez, mes Pères, qu’afin que leur esprit soit aussi plus pur, on observe encore de donner les heures du matin à ces fonctions ; tant on apporte de soin pour les préparer à une action si grande, où ils tiennent la place de Dieu, dont ils sont les ministres, pour ne condamner que ceux qu’il condamne lui-même.
そして、あなた方は、死の宣告のために、たった一人の裁判官で十分だとお考えになるのでしょうか。神父の皆様、最低でも7人は必要です。その7人の中には、犯罪者によって攻撃された人間がいてはなりません。情念が判断を歪め、腐敗させるのを恐れるためです。そして、神父の皆様、彼らの精神がさらに純粋であるために、これらの任務のため朝の時間が使われるという習慣が守られていることをご存知だと思います。多くの配慮がなされ、彼らが偉大な行いをする準備をするのです。彼らは神の代理として、神の命令を実行する人間たちなのです。そして、神が断罪する人間だけを、断罪するのです。
イエズス会の規則では、裁判官は一人だけらしい。それに対して、パスカルは反論を加え、最低でも7人は必要だという。
しかも、裁く側に当事者が入っていてはいけない。当たり前のことだと思われるが、それにははっきりとした理由がある。
人間は葦のように弱い存在だが、理性を持ち、考える能力はある。(L’homme n’est qu’un roseau, (…) mais c’est un roseau pensant.)
しかし、そうだとしても、しばしば理性は感情に負けてしまう。人間は弱い存在なのだ。
もし裁判で自分が当事者であれば、理性的に考える力はla passion(情念)によって押しつぶされてしまうのは目に見えている。判断(son jugement)がaltéler(変質)され、corrompre(堕落)させられる。
もう一つの条件は、判断は朝のうちにすること。
パスカルは、朝の方が精神が純粋に保たれていると考えていたらしい。
そして、再び神への言及がなされる。
最初に記したように、神が出てくると、現代では違和感を抱く読者が数多くいる。
la place de Dieu(神の場所)を占めるとは、神に代わってという意味。神の代理人として、ceux qu’il condamne lui-même(神が断罪する人間たち)だけを断罪するといった言葉は、納得がいかないかもしれない。
しかし、神を「絶対に間違うことのない判断」と考えれば、ごく当たり前のことを言っていることになる。
要するに、パスカルが主張しようとしていることは、当事者が感情に任せて相手を断罪するのではなく、正しい判断をすべきだということにすぎない。
現代において難しいのは、絶対的に正しいという判断基準が存在しないと思われること。神が存在しないのが、現代世界だと言ってもいい。
この点については、最後にもう1度取り上げることにする。
(2)誤った裁き
イエズス会で行われている裁判法に対して、パスカルは以下の批判を繰り広げる。
Voilà, mes Pères, de quelle sorte, dans l’ordre de la justice, on dispose de la vie des hommes. Voyons maintenant comment vous en disposez. Dans vos nouvelles lois, il n’y a qu’un juge, et ce juge est celui-là même qui est offensé. Il est tout ensemble le juge, la partie et le bourreau. Il se demande à lui-même la mort de son ennemi, il l’ordonne, il l’exécute sur-le-champ ; et sans respect ni du corps, ni de l’âme de son frère, il tue et damne celui pour qui Jésus-Christ est mort ;
さて、神父の皆様、正義の判決が下される中では、このように人間の命が扱われております。では今度は、皆様が人の命をどのように扱っているか見ていきましょう。皆様が新しくお作りになった法律では、裁判官は一人しかおりません。そして、その裁判官は、被害者その人です。彼は、裁判官であり、当事者であり、死刑執行人でもあります。彼は敵の死を自身のために望み、それを命じ、即座に実行します。同胞の肉体も魂も尊重することなく、人間の命を奪い、地獄に落とします。その人のためにイエス・キリストは亡くなったのに。
問題の中心は、la vie des hommes(人間の命)をどのように扱う(disposer)かということ。
イエズス会の新しい規則では、un juge(裁く人間)は一人だけで、しかも、彼はoffensé(攻撃を受けた)人間であり、裁判のla partie(当事者)でもあり、le bourreau(刑罰を執行する人間)でもある。
そして、彼自身のために、la mort de son ennemi(敵の死)を望み、それをordonner(命じ)、exécuter(執行する。)
しかも、sur-le-champ (即座に)。
同じ意味のincontinentという言葉が、相手の胸に短剣を突き刺すというところで使われていたことを思い出そう。
パスカルは同じイメージを繰り返すことで、感情に駆られ、正当な判断が下される前に、復讐に走る行為を、二重に断罪しているのだ。
それにもかかわらず、イエズス会の神父たちが罪の意識を感じることはないと、パスカルは考える。
et tout cela pour éviter un soufflet ou une médisance, ou une parole outrageuse, ou d’autres offenses semblables pour lesquelles un juge, qui a l’autorité légitime, serait criminel d’avoir condamné à la mort ceux qui les auraient commises, parce que les lois sont très éloignées de les y condamner. Et enfin, pour comble de ces excès, on ne contracte ni pêché, ni irrégularité, en tuant de cette sorte sans autorité et contre les lois, quoiqu’on soit religieux et même prêtre.
そして、それら全てのことは、一つの平手打ち、一言の悪口、一回の侮蔑的な言葉、あるいはそれに類する攻撃を避けるためなのです。それらの攻撃に対して、もし正当な権限を持つ裁判官がいたとしても、攻撃を行ったかもしれない者たちに死刑を宣告すれば、その裁判官が罪人になるかもしれません。なぜなら、法律は、死の宣告をすることから遠く離れたものだからです。結局のところ、過激な行動が極まり、宗教者や司祭でありながら、権限もなく法律に反して人を殺したとしても、罪にならず、規則違反を問われることもありません。
攻撃されたと考え、情念のままに相手を断罪し、命を奪う。相手の肉体だけではなく、魂さえも尊重することがないそうした振る舞いは、平手打ち一つ、一言の悪口を避けるためなのだ。
だからこそ、裁く権限を持つ人間が死刑宣告をしたとしても、裁いた側がcriminel(罪人)となるかもしれない。
人間の命はこの上もなく重要なもの。イエス・キリストが人間を救うために十字架に架かったことがその象徴になる。だからこそ、人間の法律で人の命を奪うことは、思いも寄らない。
従って、人間が人間を殺す判断をするとしたら、その判断をした人間が罪人だと、パスカルは考えるのだ。
しかし、イエズス会の法律に従い、一人で敵を裁き、死に追いやる人間は、péché(罪)もirrégularité(規則違反)も背負うことがない。というか、そうした意識を持つことさえない。
それがパスカルから見たnos pères(神父の皆様)の姿に他ならない。
(3)現代社会のパスカル
私たちがこの一節を読み、神を根拠にした議論にはついていけないとか、イエズス会の批判とか、イエス・キリストは人類のために十字架に架かったなどというのは馬鹿げているとか、そうした読みをしてもあまり意味がない。
そうではなく、現在の世界に即していえば、自己防衛という理由で敵を即座に殺害することが正当な行為かどうか、という問いにつなげるとどうだろう。
パスカルが絶対的な善と考える神の問題は、絶対的な基準が現代社会の中に存在しないことの意味を考えるきっかけになる。
正義を決める絶対的な基準がないとしたら、何に基づいて善悪を決めればいいのか?
ラ・フォンテーヌは寓話「狼と小羊」の冒頭に以下の教訓を掲げた。
La raison du plus fort est toujours la meilleure.
最も強いものの理屈が、常に最もいいものだ。
日本語で言えば、「勝てば官軍、負ければ賊軍」とか、「長いものには巻かれろ」とか、「弱肉強食」。
神なき世界では、最も強い者が神の位置を占め、« Il est tout ensemble le juge, la partie et le bourreau. »となっているかもしれない。
そうした意識の中で忘れられかねないのは、次の言葉ではないか。
La vie des hommes est trop importante, on y agit avec plus de respect.
世界中で暴力の連鎖を止めることができない今、この言葉を反復することで、情念に支配された復讐に少しでも歯止めがかかればと願う。
それがパスカルを今読む意義の一つになる。そんな風に考えたい。
「人間は考える葦である」と並ぶパスカルの有名な言葉がある。
Misère de l’homme sans Dieu
神なき人間の悲惨
神がいたら、つまり、絶対的な善悪の基準が定まっていたら、どんなにいいことかと思わずにはいられない。