
「最近、自分の顔が自分だと思えない時があるけれど、なぜ?」という質問を受けた。確かに、鏡に映った顔を見ながら、自分がこんな顔をしていたのかなあ、などと思うことがある。
そこで、自分で自分を認識するとはどういうことか、少しだけ考えてみた。
私たちは五感を使って外の世界を感じている。それらの感覚の中で、触覚、味覚、臭覚では、自分を感じ取ることはできない。
手で自分を触った時、触られていることは感じる。自分で自分を触っていることは分かる。しかし、手の感触だけで、自分自身を触っているのか、他の人を触っているのかは分からない。
自分を舐めたときの味も、自分の匂いも、他の人とはっきりと区別はつかない。
ということは、自分を自分だと感じ取る感覚は、聴覚と視覚ということになる。
そして、この二つで感じ方に差があることに、私たちは気付いている。
自分の声の録音を聞く時、なんとく違和感を感じる。自分の声ではないような感じがする。
鏡に映った自分や、写真の中の自分を見る時、多くの場合、それが自分だと分かる。声と同じような違和感を感じることは少ない。
その違いはどこから来るのだろう?
(1)聴覚
聴覚の場合、自分の声だと思っている声と、録音した声が違う理由ははっきりしている。

自分の声だと思っているものは、二つの音が重なり合ったものだ。
「気導音」:口から出した音が、空気を伝わって耳から入ってくる音。
「骨導音」:声を出す時に声帯が振動し、その振動が頭蓋骨を通じて音として認識される音。
私たちはそれら二つの音を同時に聞き、それが自分の声だと思っている。
録音した声は気導音だけなので、気導音と骨導音の重なり合った自分の声とは違っている。
耳を塞ぐと空気を伝わる音は聞こえないので、骨導音だけが聞こえる。その声は籠もった感じがして、普段聞いている声とは少し違っている。
面白いことだが、私以外の人間は、私の気導音しか耳に入らないので、その音が私の声として聞こえる。
私が自分の声だと思っている声と、他の人が聞いている私の声は、違っている。だから、録音した声を聞くと、他の人が私の声をどのように聞いているかがわかることになる。
(2)視覚
視覚の場合、「気導音」と「骨導音」といった二重の自己イメージはない。しかし、聴覚の自己像以上に複雑なメカニスムが働いている。
最初に、当たり前でありながら、しばしば私たちが忘れている事実を確認しておこう。
世界中で、私だけが私をじかに見ることができない。
自分だけが、自分の顔を見ることができないただ一人の人間なのだ。
私たちが見たことがあるのは、鏡に映ったイメージか、写真に映った映像でしかない。つまり、私たちは、何かに映った映像を見、それを元にして自分の顔のイメージを作り上げていることになる。

赤ん坊が鏡に映った自分の姿を見て、自分だと認識するのは、1−2歳の頃だと言われている。
最近の研究によると、生後12ヶ月頃の子供は、鏡に映った自分の顔を見て、他の顔とは違う「特別な顔」だと気付いているという。
そして、徐々に「特別な顔」が「自分の顔」だと認識していく。
そのことは、2歳くらいの子供であれば、自分の顔のイメージを持っていることの証となる。自己イメージを持っているからこそ、鏡に映った顔を自分だと認識することができるのだ。

自己イメージは、年齢とともに徐々に変化していく。成長に連れて自分の顔も変わっていく。
子供だけに限らず、大人になってからも、30歳から40歳へ、40歳から50歳へ、さらには老人と言われる60歳から70歳、80歳へと、外見は変化を続け、それに応じて、自分の姿に対して抱くイメージも変化していく。
そうした中で興味深いことは、鏡に映った像は、左右が逆転しているということ。しかも、その逆転に気付くことはなく、鏡像が自分のありのままの姿だと思っていることだ。
では、どうして反転している映像を見ながら、それに気付かないのだろう?


鏡に文字を映すと、文字は反転して見える。
もちろん、人間でも映った像は反転している。
それにもかかわらず、人間が映っている場合には、反転に気付くことがない。左右が逆転していないと仮定すると、とても不思議な像が出来上がってしまう。


なぜ逆転した映像をそのように感じないのか?
その問いに対して古代から様々な回答が寄せられてきたが、ここでは、人間は自己像を自動で補正する、と考えてみたい。
文字の場合、私たちは、文字の視点に立ち、文字の側から見ることはない。
それに対して、人間の姿が鏡に映る場合、鏡の中の映像を、鏡のこちら側の姿に合わせて、自動的に補正する仕組みが出来上がっている。
アルフレッド・ステヴァンスの「着物を着たパリジェンヌ」を見ると、鏡の手前にある現実の右手が、鏡の中では身体の左側にある。それにもかかわらず、自然に見える。
科学的な研究では、左右反転を意識している人もいれば、そうでない人もいるという結果が出ているらしいが、しかし、一般的に言えば、鏡の中の姿を左右逆転していると思うことはほとんどない。
むしろ、私たちは、自分の身体感覚を鏡に映る姿に投影し、その映像を自然な姿として見る。だからこそ、鏡像が自分のあるがままの姿だと思うことになる。
そのシステムは、幼児の時、鏡を見て自分だと認識したのと同じだ。

左右が逆転した映像を自動的に補正する仕組みが自分の姿を認識する際に働いているとすると、自分の顔だと思っている映像は、鏡に映るそのままの顔ではなく、知らないうちに補正がかかっていることになる。
そして、日々そうした作業が行われ、自分の中に、複数の自己イメージが積み重なっている。
幼い頃の自分、10代の頃の自分、中年の自分、老年になってからの自分、などなど。
鏡を見て、自分の顔がこんなだったのだろうかと思うことがあるとしたら、自分の中にある自己イメージと、たまたまその時に鏡に映っている映像との間に、なんらかのズレを感じたということになる。
そうしたズレもごく自然なことだ。

最近では、インスタ映えする写真を撮ることがよくある。
以前であれば、結婚式など晴れがましい機会に撮影した写真を、日常的に撮影し、インスタグラムにアップする。
そこに映る姿は、普段よりも少しだけオシャレで、見栄えのいい自分。
求めるイメージは、普段の自分のイメージを基準にして、それよりも美しいもの。つまり、ズレを作り出すことが、目的とされる。
こんな風に考えてみると、自分の生(なま)の顔を一度も見たことがないのに、それを知っていると思い込んでいる自分にびっくりすることになる。
鏡、あるいは写真でしか自分の顔を見たことがない。声で言えば、「気導音」しか知らないことになる。
それにもかかわらず、鏡像を通して私たちの中で2歳くらいまでには自己イメージが形成され、それ以降、身体的な変化とともにイメージも変遷し、積み重ねられていく。
それらのイメージは、決して他人が外から見た姿ではなく、左右が逆転した鏡像を自動的に補正した姿だ。その姿は他人たちから見えるわけでもなく、鏡や写真の姿とも違う。私だけが持つイメージであり、物理的に外部に定着することは決してできない。
そうしたイメージが、鏡に映る顔と対応していると思える時もあれば、似ていないと思える時もある。その時その時に私が抱く自己イメージに応じて、一致していたり、違っていたりする。
要するに、自分の顔をどのように思うかはその時の自分次第という、平凡な結論に落ち着くしかない。

ただし、自分の顔や姿は外部の映像を通してしか認識できず、その認識には自動補正が必ずかかっているということを知ることは、自己認識に関しても、意識しないうちに補正がかかっていることを知ることにつながる。
否定的な補正であれば、自己認識も否定的なものになる。肯定的な補正がかかると、インスタ映えする自己認識にもなる。
そんな風に考えると、鏡に映る顔が日々変化して見えることも、色々な自分がいることも、自動補正のせいだとわかり、ズレを楽しむことができるに違いない。