
« Le moi est haïssable. » (私という存在は憎むべきものだ)というパスカルの考えは、現代の日本では否定される傾向にある。
子供たちだけではなく、大人に対しても、自分を否定的に捉えず、自己肯定感を保ち、前向きに生きることが推奨されている。
自分を愛すること、自己愛は、自分を支える柱であり、自己否定していては楽しくないし、生きていけなくなってしまう。
そうした考えが、現代社会の主流になっている。
そうした中で、La Misère de l’homme sans Dieu(神なき人間の悲惨)などと言い、人間という存在の卑小さを前提とした17世紀フランスの思想を読む価値などあるのだろうか?
そんな疑問に答えるために、パルカルの『パンセ(Pensées)』の中に収められている、自己愛(amour-propre)に関する一節を取り上げてみよう。
(1)自己愛の性質と働き
自己愛を、「自分を大切にすること」という意味に取れば、自己肯定感のベースになるものであり、人間が生きていく上で重要な感情な一つだといえる。
しかし、自分の能力を過大評価し、その反動として、他者の能力を過小に評価するといった行動につながる場合には、自己愛性パーソナリティ障害と呼ばれる状態にもなりかねない。
パスカルにとって、神は絶対的な存在であり、神の前であれば、人間は自分を小さな存在と感じるほかない。日本的な感受性でいえば、謙遜、謙虚、控えめといった態度を導くことになる。
他方、神を意識しない場合には、人間は自己愛に捕らわれ、自分を世界の中心に置き、他者に対して尊大になってしまう可能性がある。それが、「神なき人間の悲惨」という言葉の意味だ。
従って、パスカルが自己愛について考察するのは、人間とは、神という支えがなければ、自分と自分に関係するものだけを愛し、他者を尊重しない傾向に陥ってしまいかねない、弱く惨めな存在であることを自覚するためだといえる。
La nature de l’amour propre et de ce moi humain est de n’aimer que soi, et de ne considérer que soi. Mais que fera-t-il ? Il ne saurait empêcher que cet objet qu’il aime ne soit plein de défauts et de misère.
自己愛と人間的なこの私の性質は、自分しか愛さないこと、そして、自分のことしか考えないことにある。しかし、そうした私が、将来的に何をするだろうか? 愛する対象が数多くの欠点と悲惨で満たされるのを、その私には妨げることができないだろう。
繰り返すことになるが、ここで言うce moi humain(人間的なこの私)とは、神という人間を超えた存在、あるいは自分を超越する何かがあるということを意識しない人間のことだ。
そして、l’amour propre(自己愛)とce moi humain(人間的なこの私)が並列に並べられているが、それは、自己愛が人間的(humain)なものであることを強調する役割を果たす。
そして、パスカルは、人間的という言葉に、「神に対する意識を持たない場合の人間」という意味を暗に含ませていると考えられる。
そうした人間のla nature(性質)は、ne… que soi(自分だけを)という表現で明確にされる。aimer(愛する)のも、considérer(考慮する、重要だと思う)のも、自分だけなのだ。
また、「私」の愛する対象(cet objet qu’il aime)は、défauts(欠点)とmisère(惨めさ)に満ちている。
ちなみに、défautsが複数形、misèreが単数刑に置かれているが、単数の場合には一般的な性質を指し、複数の場合には具体的で個別的な事象を思い描いている。
ここで注意したいのは、「私」が愛する対象は「私」だけということ。つまり、欠点や惨めさに満ちているものは、「私」自身なのだ。
次に、「人間的な私」の状態が具体的に示される。
Il veut être grand, et il se voit petit. Il veut être heureux, et il se voit misérable. Il veut être parfait, et il se voit plein d’imperfections. Il veut être l’objet de l’amour et de l’estime des hommes, et il voit que ses défauts ne méritent que leur aversion et leur mépris.
その私が望むのは偉大であること、そして、自分のことが小さく見える。幸福を望むと、惨めに見える。完全であることを望むと、不完全なことで満ちているのが見える。他の人々から愛され、尊敬されることを望むと、見えてくるのは、数々の欠点が人々の嫌悪や軽蔑の対象でしかないこと。
パスカルは、願望(vouloir)と、その結果見えてくる姿(il se voit …)の対比を、et(そして)でつなぐ。例えば、il veut être grand(偉大であることを望む)。et(そして)、il se voit petit(自分を小さな者として見る)。
つまり、願望の結果が望みとは反対の結果になるのだが、それをmais(しかし)で示される逆説と見なすのではなく、順接だと考える。
ここには、パルカル流の皮肉が込められている。
人間的な「私」が望むことは、grand(偉大であること)、heureux(幸福であること)、parfait(完全であること)。そして、l’objet et l’amour et de l’estime des hommes(人々の愛と尊敬の対象)であること。
その結果は、il se voit(自分が・・・だと見える)という表現で示される。
petit(卑小に)、misérable(惨めに)、plein d’imperfections(色々な不完全なことで満ち)。
そして、そうしたdéfauts(欠点)のために、人々からaversion(嫌悪)され、mépris(軽蔑)されるように思える。
ここで、パスカルの文章の巧みさに注目したい。
すでに指摘したように、vouloir とse voir が etでつながれ、その組み合わせが4回反復される。その反復によって、読者はパスカルの主張に自然に納得する仕組みが施されている。
しかも、ここでは、人間が小さな存在だとは断定されてはいない。そう見えたり、思えたりするだけなのだ。
その微妙なニュアンスをパスカルの文は見事に表現している。
次の文では、そうした現実あるいは真実を思い知った時、「私」がどのような行動を取るかが描かれる。
Cet embarras où il se trouve produit en lui la plus injuste et la plus criminelle passion qu’il soit possible de s’imaginer. Car il conçoit une haine mortelle contre cette vérité qui le reprend, et qui le convainc de ses défauts. Il désirerait de l’anéantir, et, ne pouvant la détruire en elle-même, il la détruit autant qu’il peut dans sa connaissance et dans celle des autres ; c’est-à-dire qu’il met tout son soin à couvrir ses défauts et aux autres et à soi-même, et qu’il ne peut souffrir qu’on les lui fasse voir ni qu’on les voie.
「私」の置かれている困惑した状態が、想像しうる限りで最も不当で最もよこしまな感情を、「私」の中に作り出す。なぜなら、「私」を何度も捉え、数々の欠点を自覚させるその真実に対して、「私」は死ぬほどの憎しみを抱くからだ。その真実を消し去りたいと願うのだが、それ自体を破壊することができないため、自分の認識の中で、そして他の人々の認識の中でも、可能な限り、その真実を破壊する。つまり、全力を注いで、他人に対しても、自分自身に対しても、自分の欠点を隠そうとする。それらの欠点を人から見せられることも、人に見られることも、我慢できないのだ。
cet embarras(困惑)は、自分が望めば望むほど逆の自分に見えるという、「私」にとって好ましくない真実(vérité)から発生する感情だといえる。
だからこそ、その真実に対して、最大級の憎しみ(une haine)を抱くことになる。
その憎しみのla passion(感情、情念)が、injuste(不正)であり、criminel(積みある)ものであることは分かっている。しかし、それをなくすことはできない。
なぜなら、「私」は何度もその真実を思い起こし、自分に欠点(défauts)があることを自覚させられるからだ。
cette vérité qui le reprend(「私」を再び捉える)の« reprendre»は、「再び取る」という意味だけではなく、「批難する」という意味だとも考えられる。その場合、「真実が私を批難する」という意味になる。
だからこそ、「私」は願いに反する真実をanéantir(無にする)ことを望むかもしれない。
しかし、その真実自体(en elle-même)をdétruire(破壊する)ことはできない。そのために、「私」や他の人々の connaissance(認識)では、それがないことにしようとする。
自分の欠点(défauts)を、on les lui fasse voir(人がそれらを彼に見させる)ことも、on les voie(人がそれらを見る)ことも、souffrir(我慢する)ことができない。
そのために、全力で(mettre tout son soin)、欠点をcouvrir(隠そう)とするのだ。
もちろん、「私」や他の人々の意識から隠すことができたとしても、現実は変わらない。
「私」の感情(passion)が不正(injuste)であり、積みあるもの(criminel)であることは、最初から示されていた。そうした行為は、神の前ではまったく無意味である。パスカルが言外にほのめかしているのは、そのことだ。
(2)真実を意図的に隠そうとする
パスカルは、une illusion volontaire(意図的な錯覚)という言葉を使い、自分の欠点を認めないことが、欠点を持つこと以上に問題であることを、強い言葉で表現する。
C’est sans doute un mal que d’être plein de défauts, mais c’est encore un plus grand mal que d’en être plein et de ne les vouloir pas reconnaître, puisque c’est y ajouter encore celui d’une illusion volontaire. Nous ne voulons pas que les autres nous trompent, et nous ne trouvons pas juste qu’ils veuillent être estimés de nous plus qu’ils ne méritent. Il n’est donc pas juste aussi que nous les trompions et que nous voulions qu’ils nous estiment plus que nous ne méritons.
欠点が数多くあることは間違いなく悪であるが、しかし、それ以上に大きな悪は、欠点を数多く持ちながら、それを認めようと望まないことである。なぜなら、意図して見ない振りをするという悪を、さらに加えることになるからだ。私たちは、他の人々に騙されることを望まないし、他の人々が尊敬されるに値する以上に私たちから尊敬されたいと望むことを正しいことだとは思わない。従って、私たちが他の人々を騙すことも、私たちが値する以上に他の人々から尊敬されたいと望むことも、正しいことではない。
欠点があったとしても当たり前なのだが、大切なことは、それを認める(reconnaître)ことだ。自分を騙すこと、そして他人を偽ることは、欠点を持つこと以上に大きな悪(un mal)なのだと、パスカルは指摘する。
そして、tromper(騙す)とêtre estimé(尊敬される)という二つの行為を例に取りながら、自分と他者の視点を交換させ、私たちが他者に望まないことを、私たちが他者にすることは正しい行いではないと主張する。
nous méritons(私たちがそれに値する)以上にêtre estimé(尊敬される)ことを望むのは、juste(正当)なことではない。
Ainsi, lorsqu’ils ne nous découvrent que des imperfections et des vices que nous avons en effet, il est visible qu’ils ne nous font point de tort, puisque ce ne sont pas eux qui en sont cause ; et ( il est visible ) qu’ils nous font un bien, puisqu’ils nous aident à nous délivrer d’un mal, qui est l’ignorance de ces imperfections. Nous ne devons pas être fâchés qu’ils les connaissent et qu’ils nous méprisent, étant juste, qu’ils nous connaissent pour ce que nous sommes, et qu’ils nous méprisent si nous sommes méprisables.
従って、他の人々が、私たちが実際に有している不完全なことや悪徳だけを、私たちの中に見出すのであれば、私たちに害を与えるのでないことは明らかだ。というのは、その原因となるのは彼らではないからだ。むしろ、彼らは私たちに対して、利益をもたらしてくれていることが明かなのだ。というのも、そうした不完全なところを無視するという悪から私たちが解放されるのを、助けてくれているのだから。私たちは、彼らがそれらを知っているために、私たちを軽蔑することに対して、腹を立てるべきではない。私たちのあるがままの姿を知り、私たちが軽蔑に値する際には私たちを軽蔑するのだとしたら、それも正当なことだ。
パスカルはここで、私たちが実際にdes imperfections(不完全な部分)やdes vices(各種の悪徳)を持つのだということを明確にするために、en effetという表現を使う。欠点を持っているように見えるだけではなく、nous avons en effe(私たちは実際に持っている)のだ。
そのこと自体は当たり前のことであり、そのことが悪ではない。
だからこそ、他の人々がそれらを指摘してくれることは、私たちに faire tord(害を与えること)ではなく、むしろfaire bien(利益をもたらす)ことだといえる。
というのも、それらの存在を無視すること(l’ignorance)の方がle mal(悪)であり、自分たちの欠点の自覚は、悪からの解放につながるからだ。
現在分詞 étant justeは、ここでは、il est justeと考えることができ、人々がce que nous sommes(私たちが現在そうであるもの=あるがままの状態)を知ることが、正当なことであることを示している。
その状態がもしもméprisables(軽蔑すべきもの)であるならば、mépriser(軽蔑)されても当然なのだ。それに対して、私たちがfâchés(腹を立てる)必要はない。
Voilà les sentiments qui naîtraient d’un cœur qui serait plein d’équité et de justice. Que devons-nous donc dire du nôtre en y voyant une disposition toute contraire ? Car n’est-il pas vrai que nous haïssons et la vérité, et ceux qui nous la disent ; et que nous aimons qu’ils se trompent à notre avantage, et que nous voulons être estimés d’eux, autres que nous ne sommes en effet ?
こうしたものが、公正と正義に満ちた心から生まれる感情といえるだろう。としたら、私たち自身の心に関して、まったく反対の傾向を示すのを見て、何と言うべきだろう? 私たちは真実を憎み、真実を私たちに告げる人々を憎むというのが、本当ではないのだろうか? 人々が私たちに都合のいいように間違えてくれることを好み、実際の私たちとは違う人間として、彼らから尊敬されたいと願うのが、本当ではないのだろうか?
あるがままの姿を自分で認識し、他の人たちからその姿に応じた扱いを受けようとする気持ちは、équité(公正)とjustice(正義)から生まれる。
それなのに、自己愛は、une disposition toute contraire(正反対の傾向)を示す。それがどうしてなのかという気持ちを、パスカルは疑問文によって示している。
que devons-nous dire du nôtre (notre cœur)… ?:私たちの心について、なんと言うべきなのだろう?
n’est-il pas vrai que (…) ; et que (…) et que (…) … ? : 本当ではないだろうか?
その上で、haïr(憎む)とaimer(愛する)という動詞を対比的に用いる。
私たちが憎むのは、la vérité(真実)や、ceux qui nous la disent(真実を私たちに言う人々)。
私たちが愛するのは、à notre avantage(私たちの利益となるように)、ils se trompent(人々が間違えること)こと。
そして、そうした人々から尊敬されること。しかし、その私たちは、nous ne sommes en effet(実際の私たち)とは違っている。
こうした心のあり方は、パスカルの思想の中では、神に対する意識を持たない人間の心の働きに他ならない。そうした人間の自己愛は、自分のありのままの姿を偽り、意図的な錯覚(une illusion volontaire)を好む。それは、自分自身を偽ることでもあり、他の人を偽ろうとすることでもある。
そうしたパスカルの論理に対して、現代の私たちは、神の存在を前提とすることに違和感を抱き、後ずさりしてしまうかもしれない。
しかし、神ではなく、偽りのない自分をそのまま受け入れると考えたらどうだろう。パルカルの定義する自己愛はその反対の働きをする。
そのように考えると、パスカルが、juste(正しいこと)とmal(悪)の二元論に立ち、私たちにとって正しい行為とは何かを示していることが明確になる。
二度用いられているen effetが示すのは、私たちが実際に欠点を持ち、それが私たちの実際のあり方であること。
そのことを隠そうとするのが、パルカルの言う意味でのl’amour-propre(自己愛)なのだ。
神のような超越的な存在がいるとするならば、それを隠しても意味はない。私たちは、あるがままを受け入れるしかないし、それを受け入れるだけなのだ。
そして、その状態をパスカルは、Félicité de l’homme avec Dieu(神とともにある人間の至福)だと言う。
私たちは、生きている中で、どうしても錯覚(illusion)を抱きたくなる。そして、Il veut être grand, et il se voit petit. という状態に陥ることがある。
そんな時、パルカルの言葉を思い出すことは、決して意味のないことではないだろう。