
17世紀フランスの宮廷では外見が全てだった。
そのことは、ルイ14世の時代に活躍したシャルル・ペローが語る「長靴をはいた猫」を思い出すとすぐに推測がつく。
主人公は貧しい粉屋の息子だが、猫の知恵によって貴族の服を手にいれ、それを着ることで、王女と結婚することが可能になる。
宮廷社会では、服という外見が身分の保証となった。

そうした外見の文化を生き抜いていくためには、外見の裏に隠された内心を読み取ることが必要になる。
ラ・ロシュフコーは1665年に上梓した『箴言集(Maximes)』のエピグラフとして、「我々の美徳は、大部分の場合、偽装された悪徳である。」という一文を掲げた。
そして、美徳と見える振る舞いを促す原動力として、自己愛(l’amour-propre)を置いた。
次のような箴言は、私たちの心にもすっと入ってくる。
「自己愛は、この上もなく巧みに人をおだてる。」(L’amour-propre est le plus grand de tous les flatteurs.)
「私たちの自己愛にとって耐えられないのは、意見を否定されることよりも、趣味を否定されることだ。」(Notre amour-propre souffre plus impatiemment de la condamnation de nos goûts que de nos opinions.)
こうした箴言は現代のキャッチコピーと似たところがあり、何も考えなくてもすっと理解でき、時には誰かに伝えたくなる。とても魅力的な言葉だ。
ただし、時間をかけて考えた上で納得するではなく、反射的に好き嫌い、納得するしないが決まる。そのために、前提となる思考が見えてこないという問題がある。
ここでは、1659年に発表された比較的長い考察を取り上げ、ラ・ロシュフコーが自己愛についてどのように語っていたのかを、少し時間をかけて読み、考えていきたい。
(1)自己愛の定義
L’amour-propre est l’amour de soi-même, et de toutes choses pour soi ; il rend les hommes idolâtres d’eux-mêmes, et les rendrait les tyrans des autres si la fortune leur en donnait les moyens ; il ne se repose jamais hors de soi, et ne s’arrête dans les sujets étrangers que comme les abeilles sur les fleurs, pour en tirer ce qui lui est propre.
自己愛とは、自分自身を愛すること、そして、全てのものを自分自身のために愛することである。それは、人間が自分自身を偶像のように愛し、かつ、もし幸運がその手段を与えるのであれば、他の人々に対して暴君になるようにするものである。自己愛は決して自分自身の外で休息することはなく、自分以外の対象の上に留まるとしたら、花の上に蜜蜂が止まるように、そこから自分にふさわしいものを引き出すために他ならない。
自己愛が自分を愛する感情であることは明らかだが、ラ・ロシュフコーは、その作用について緻密な考察を加えていく。
まず、自分をidole(偶像)のように愛するようにさせるだけではなく、他の人々に対してtyran (暴君)のように振る舞わせる。
il ne se repose jamais hors de soi(自己愛は決して自分自身の外で休息することはない)というのは、常に自分にしか関心を向けないということ。
たまには、les sujets étrangers(自分にとって見知らぬ人や物)に関心を向けるようなことがあるかもしれない。しかし、そうした状態は、花の上に止まる蜜蜂のようなもので、花に関心があるわけではなく、花の蜜を吸うためだけにすぎない。
この部分だけを取り上げ、« L’amour-propre ne s’arrête dans les sujets étrangers que comme les abeilles sur les fleurs, pour en tirer ce qui lui est propre. »としたら、『箴言集』に採用しても効果を上げたに違いない。
(2)自己愛の巧妙さ
次に、自己愛が私たちの行動の至る所に影響を及ぼしながら、気づかれないように巧妙に振る舞うことに言及される。
Rien n’est si impétueux que ses désirs, rien de si caché que ses desseins, rien de si habile que ses conduites ; ses souplesses ne se peuvent représenter, ses transformations passent celles des métamorphoses, et ses raffinements ceux de la chimie. On ne peut sonder la profondeur, ni percer les ténèbres de ses abîmes.
何もその欲望よりも激しいものはない。何もその意図よりも隠されたものはない。何もその活動より巧妙なものはない。その柔軟な動きを思い描くことはできない。その変形は変身の際の変形を上回る。そして、その繊細な様子は化学の繊細さを上回る。その深さを測ることも、その深淵の闇を見通すこともできない。
ラ・ロシュフコーは、Rienという言葉を文の先頭で3回繰り返す。
その技法は、詩法では語頭反復(anaphore)と呼ばれ、読者の注意を引くために用いられる。
ここでは語頭反復の効果により、自己愛の働きが、désirs(望むこと)、desseins(意図)、conduites(活動)という言葉で示された上で、それらがimpétueux(激しく)、cachés(隠され)、habiles(巧妙)であることが、強く印象付けられる。
それはla souplesse(柔軟)であり、la transformation(変形)し、les raffinements(繊細)だ。la profondeur(深さ)をsonder(計ること)こもできないし、そのles ténèbres de ses abîmes(深い穴の闇)をpénétrer(見通す)こともできない。
以下の部分では、自己愛の活動が非常に巧妙で気付かれにくいことが、さらに強調される。
Là il est à couvert des yeux les plus pénétrants ; il y fait mille insensibles tours et retours. Là il est souvent invisible à lui-même, il y conçoit, il y nourrit, et il y élève, sans le savoir, un grand nombre d’affections et de haines ; il en forme de si monstrueuses que, lorsqu’il les a mises au jour, il les méconnaît, ou il ne peut se résoudre à les avouer.
そこにおいて、自己愛は最も慧眼な眼差しからさえ覆われている。知覚されない幾千もの往復運動を行う。そこで、自己愛は、しばしば自分自身からも見えない。そうとは知らずに、数多くの愛情と憎しみを抱き、養い、育てる。それは非常に恐ろしいものを形作るので、それを生み出した後では、自分でもそれと認識できなかったり、認める決意ができない。
à couvert des yeux(目に見えない)、insensible(感じられない)、invisible(目に見えない)、sans le savoir(それと知らずに)といった言葉が繰り返され、人間の様々な行動の中で自己愛が働きながら、気付かれないことが読者に印象付けられる。
その一方で、自己愛が生み出す愛情や憎しみという感情について言及されると、それらの感情に対して、monstrueuses(怪物的、恐ろしい)という形容詞が用いられる。
そうした感情だからこそ、méconnaître(認識できない、見誤る)することがあったり、あるいはそうした感情をavouer(告白)する決心ができなかったりする。
要するに、自分の感情が自己愛によって引き起こされていることを、自分で気付かないようにしているというのだ。
(3)自己愛の闇
次に、自己愛を認識する難しさが、自己愛を取り囲む闇という言葉で比喩的に表現され、そこから発生する問題が指摘される。
De cette nuit qui le couvre naissent les ridicules persuasions qu’il a de lui-même ; de là viennent ses erreurs, ses ignorances, ses grossièretés et ses niaiseries sur son sujet ; de là vient qu’il croit que ses sentiments sont morts lorsqu’ils ne sont qu’endormis, qu’il s’imagine n’avoir plus envie de courir dès qu’il se repose, et qu’il pense avoir perdu tous les goûts qu’il a rassasiés. Mais cette obscurité épaisse, qui le cache à lui-même, n’empêche pas qu’il ne voie parfaitement ce qui est hors de lui, en quoi il est semblable à nos yeux, qui découvrent tout, et sont aveugles seulement pour eux-mêmes.
自己愛を覆う闇から、自分自身に対して持つ滑稽な思い込みが生まれる。そこからやってくるのが、自分についての誤り、無知、無骨さ、愚かさだ。その結果、自己愛は、その感情が眠っているだけなのに死んでいると思い、休み始めるともう走りたくないと思い込み、全ての好みを満足させるとそれらを失ってしまったのだと考える。その厚い闇は、自己愛を自分自身から隠してしまうのだが、しかし、それ自体の外にあるものをはっきりと見るのを妨げることない。その点で、自己愛は私たちの目と似ている。目には全てが見えているのだが、しかし、それ自体に対しては盲目なのだ。
自己愛の抱くles ridicules persuasions(滑稽な思い込み)が、erreurs(間違い)、 ignorances(無視)、grossièretés(粗雑さ)、niaiseries(愚かなこと)という言葉で言い換えられ、その後、具体的な例が示される。
ある感情がまだ完全には消え去っていないのに、なくなったと思う。その誤解は、morts(死)とendormis(眠り)の対比で示される。
少しでも休むと、走りたいという気持ちをもう持たないと思い込む。ここでの対比は、envie de courir(走りたいという気持ち)とse reposer(休む)。
好きなことを満足させてしまうと、それらをなくしてしまったと思う。perdre(失う)とrassasier(満足させる)が対比を形作る。
自己愛が働いてもそれを自覚できないという現象は、目と見る対象によって説明される。
nos yeux(私たちの目)はtout(全て)を見ることができるが、しかし、目自体を見ることはできない。目はそれ自体に対しては、aveugles(盲目)の状態にある。
それと同様に、自己愛は、ce qui est hors de lui(自己愛の外にあるもの)を完全に見ることはできるが、自己愛自体を見ることはできない。(il ne voieのneは虚字のne。否定の意味はない。)
« L’amour-propre est semblable à nos yeux, qui découvrent tout, et sont aveugles seulement pour eux-mêmes. »だけを取り上げて、『箴言集』に掲載したら、魅力的な箴言となる。
(4)自己愛の魔法
En effet dans ses plus grands intérêts, et dans ses plus importantes affaires, où la violence de ses souhaits appelle toute son attention, il voit, il sent, il entend, il imagine, il soupçonne, il pénètre, il devine tout ; de sorte qu’on est tenté de croire que chacune de ses passions a une espèce de magie qui lui est propre. Rien n’est si intime et si fort que ses attachements, qu’il essaye de rompre inutilement à la vue des malheurs extrêmes qui le menacent.
実際、自己愛の最も大きな利害や、最も重要な事柄において、自己愛の願望の激しさが全注意力を呼び寄せるような時には、自己愛は見、感じ、聞き、想像し、疑い、見通し、全てを見抜いている。その結果、自己愛のもたらす感情の一つ一つに固有の魔法のようなものがあると信じたくなるほどである。何も自己愛が執着するものよりも親密で強力なものはない。自己愛を脅すような極端な不幸を目にして、それらのものを断ち切ろうとしても、無駄である。
自己愛は、私たち自身の外にある対象に向けられる時には、非常に活発な働きをする。
そのことは、les plus grands intérêts(最も大きな利害)、les plus importantes affaires(最も重大な事柄)に含まれる最上級の表現、そして、願望のla violence(激しさ)という言葉によって示される。
次に続く動詞の列挙は、その活発さを読者に活き活きと伝える。
il voit, il sent, il entend, il imagine, il soupçonne, il pénètre, il devine tout.
この最後に置かれたtout(全て)という言葉は、先行する7つの動詞の目的語。そのことによって、見える、感じる、聞こえる、想像する、疑う、見通す、見抜くといった行為の後ろには、常に自己愛が潜んでいることが暗示される。
次に、そうした具体的な行為に伴うla passion(感情、情念)について言及され、その活動の不思議さが、la magie(魔法)という言葉で表現される。
魔法とは、人間の力を超え、理性ではコントロールできない力。
自己愛のattachements(執着するもの)に関して、語頭反復(anaphore)の際に用いられたrienという言葉がここでも使われ、執着の性質が、何にもまして intime(親密)で、fort(強力)だと言われる。
次に言及されるles malheurs extrêmes qui le menacent(自己愛を脅かす極端な不幸)とは、自己愛のために何らかのひどい不幸が起こるといった意味。
たとえそうしたことが起こったとしても、自己愛は働き続け、私たちは自分たちが執着しているものから離れることはできない。
魔法的な力が別の仕方で働くこともある。
Cependant il fait quelquefois en peu de temps, et sans aucun effort, ce qu’il n’a pu faire avec tous ceux dont il est capable dans le cours de plusieurs années ; d’où l’on pourrait conclure assez vraisemblablement que c’est par lui-même que ses désirs sont allumés, plutôt que par la beauté et par le mérite de ses objets ; que son goût est le prix qui les relève, et le fard qui les embellit ; que c’est après lui-même qu’il court, et qu’il suit son gré, lorsqu’il suit les choses qui sont à son gré.
その一方で、時には、非常にわずかの間に、いかなる努力をすることもなく、何年もの間あらゆることをしてもできなかったことを実現することがある。そのことから、かなりの確かさをもって、以下のように結論付けてもいいだろう。自己愛自体によって自己愛の欲望に火が付くのであり、対象となる物の美しさや価値による度合いは少ない。自己愛の好みこそが、それらを高める価値であり、それらを美しくする化粧である。自己愛は自己愛自体を追い求めているのであり、自らが気に入るものを追いかける時、自分の好みに従っているにすぎない。
自己愛の働きは、何年かけてもできなかったことを、一瞬のうちに実現することもある。
そして、そのことから、自己愛に関する3つの推測を導き出す。
自己愛が活動するのは、それが向けられる対象の特質、la beauté(美)やle mérite(価値)によるというよりも、自己愛その自体による。
最初に言われたように、自己愛は他の対象に向けられるのではなく、それ自体にしか関心を向けない。
だからこそ、対象に価値があるように見えたとしても、その価値を高めるのは自己愛。対象を美しくするのも自己愛。
対象を追い求めているように見えても、実は自己愛自体を求めている。
こうした考察は、最初に掲げた「自己愛とは、自分自身を愛すること、そして、全てのものを自分自身のために愛することである。」という定義から派生してものに他ならない。
自己愛が発揮する魔法の力の全ては、自分自身を愛することに由来する。(2/2に続く)
「自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld Maxime 1/2」への1件のフィードバック