(5)自己愛の捉えがたさ
Il est tous les contraires : il est impérieux et obéissant, sincère et dissimulé, miséricordieux et cruel, timide et audacieux. Il a de différentes inclinations selon la diversité des tempéraments qui le tournent, et le dévouent tantôt à la gloire, tantôt aux richesses, et tantôt aux plaisirs ; il en change selon le changement de nos âges, de nos fortunes et de nos expériences, mais il lui est indifférent d’en avoir plusieurs ou de n’en avoir qu’une, parce qu’il se partage en plusieurs et se ramasse en une quand il le faut, et comme il lui plaît.
自己愛は、対立するもの全てである。高圧的であり、従順。誠実であり、感情を偽る。慈悲深く、残酷。内気であり、大胆。自己愛は、多様な気質に従って、異なる傾向を持つ。それらの気質が自己愛を方向付け、自己愛をある時には栄光に、別の時には財産に、さらに別の時には快楽に捧げる。自己愛は、私たちの年齢、富、経験に応じて、向かう先を変化させる。しかし、複数の傾向を持とうと、一つだけの傾向だろうと、そうしたことには無関心だ。なぜなら、必要な時に、好きなように、複数に分かれたり、一つに集まったりするからだ。
もし自己愛が明確な形をしていれば、私たちはすぐにそれとわかる。しかし、自己愛は変幻自在に姿を変え、しかも、正反対の感情を通して現れることがある。
それが、tous les contraires(全ての対立するもの)の意味することだ。
différentes(異なる)、diversité(多様性)という言葉も、自己愛の変幻自在さを示す。
人々の多様なtempéraments(気質)に応じて、自己愛のinclinations(傾向)も様々に変化する。そのために、ある時の自己愛はla gloire(栄光)に向かい、別の時はles richesses(財産)やles plaisirs(快楽)に向かったりする。
nos âges(私たちの年齢)、nos fortunes(富み)、nos expériences(人生経験)の違いによっても、自己愛の向かう先は変化する。
しかし、それらが複数だろうと、一つだろうと、自己愛にとってはどうでもいい。なぜなら、全ては自己愛の思いのままなのだから。
要するに、私たちが何を望み、どんなことを行うにしても、どこかに自己愛が潜んでいる。例えば、相手に対してimpérieux(高圧的)な態度を取る場合も、相手にobéissant(従順)な時も、どちらにしても、相手を通して自分を愛するという自己愛に源を発していると、ラ・ロシュフコーは考える。
(6)自己愛の無目的性
Il est inconstant, et outre les changements qui viennent des causes étrangères, il y en a une infinité qui naissent de lui, et de son propre fonds ; il est inconstant d’inconstance, de légèreté, d’amour, de nouveauté, de lassitude et de dégoût ; il est capricieux, et on le voit quelquefois travailler avec le dernier empressement, et avec des travaux incroyables, à obtenir des choses qui ne lui sont point avantageuses, et qui même lui sont nuisibles, mais qu’il poursuit parce qu’il les veut.
自己愛は一定ではない。外的な原因に由来する変化だけではなく、自己愛自体やそれ固有の本質的な部分から生まれる無限の変化がある。自己愛が一定しないのは、不安定、軽さ、愛、斬新さ、倦怠、嫌悪によってである。気まぐれであり、時には非常に熱心に、信じられないような苦労をして働き、自己愛にとって有益ではなく、むしろ有害なものさえ得ようとする。それでも自己愛がそれらを追い求めるのは、ただそれらを望むという理由からなのだ。
自己愛は、それが向けられる対象によってだけではなく、それ自体としても常に変化し、一定しない。
son propre fonds(それ固有の地所、土地資産、資金)という言葉は、ラ・ロシュフコーが自己愛を「資本」のように考えていることを示しているのだと考えられる。
資本は人間のコントロールを離れて、自己増殖する。
それと同じように、自己愛も、様々な要因に左右されて、常に変化する。
ラ・ロシュフコーは、その要因となるものを、inconstance(人間の不安定さ)からdégoût(嫌悪感)まで列挙している。
さらに、自己愛がcapricieux(気まぐれ)だと付け加える。
気まぐれというのは、avantageux(有益)なものだけではなく、nuisibles(害になる)ものまでも熱心に求めることがある、ということ。
要するに、ただそうしたいと思うだけで、明確な目的なく活動する。
その動きは、資本と似ている。それは人間のコントロールを超えて、増殖したり、減少したりする。しかも、資本自体には何の目的もない。
ラ・ロシュフコーは、自己愛の無目的性についてさらに続ける。
Il est bizarre, et met souvent toute son application dans les emplois les plus frivoles ; il trouve tout son plaisir dans les plus fades, et conserve toute sa fierté dans les plus méprisables. Il est dans tous les états de la vie, et dans toutes les conditions ; il vit partout, et il vit de tout, il vit de rien ; il s’accommode des choses, et de leur privation ; il passe même dans le parti des gens qui lui font la guerre, il entre dans leurs desseins ; et ce qui est admirable, il se hait lui-même avec eux, il conjure sa perte, il travaille même à sa ruine.
自己愛は奇妙なものであり、しばしば最も軽薄なことに全力をつぎ込む。最も味気ないことに非常な喜びを見出し、最も軽蔑すべきものに誇りを持つ。人生のあらゆる段階、あらゆる条件の中に存在する。至るところで生き、全てのことで生き、何もなしで生きる。全てのものに順応し、何もないことにも順応する。自己愛を攻撃する人々の側に回ることさえあり、そうした人々の意図の中に入り込む。賞賛すべきことだが、自己愛はそうした人々と一緒になってそれ自体を憎み、自分が消え去ることを祈願し、自分の破滅に向けてさえ活動する。
自己愛のbizarre(奇妙)な点は、自己矛盾につながること。
toute son application(全力)を尽くすのが、les plus frivoles(最も軽薄)なことであり、plaisir(喜び)を見出すのは、les plus fades(最も味気ない)こと。les plus méprisables(最も軽蔑すべきもの)にtoute sa fierté(誇り全体)を持つ。
ここでも最上級の表現が、奇妙さを際立たせている。
続く文の中には、tout(全て)が反復され、最上級と同じ役割を果たす。自己愛は、人生のあらゆる場面に現れ、あらゆることと関係する。
さらにそのことを強調するために、rien(無)とかprivation(欠乏、喪失)という言葉が使われ、toutだけではなく、rienでも自己愛は生きるのだと言われる。
また、自己愛は自分自身を憎み、敵となる存在と協力して、sa ruine(自己破壊)に向かうこともある。そのことは、無目的性の極致だといえる。
では本当に自己愛は消滅することがあるのだろうか?
(7)自己愛の不死性
Enfin il ne se soucie que d’être, et pourvu qu’il soit, il veut bien être son ennemi. Il ne faut donc pas s’étonner s’il se joint quelquefois à la plus rude austérité, et s’il entre si hardiment en société avec elle pour se détruire, parce que, dans le même temps qu’il se ruine en un endroit, il se rétablit en un autre ; quand on pense qu’il quitte son plaisir, il ne fait que le suspendre, ou le changer, et lors même qu’il est vaincu et qu’on croit en être défait, on le retrouve qui triomphe dans sa propre défaite.
結局、自己愛が気にかけるのは、存在することだけだ。存在するのであれば、自らの敵となることを望むことさえある。従って、自己愛が最も厳しい禁欲に加わり、自らを破壊するために、禁欲さと大胆に協力するとしても、驚く必要はない。というのも、自己愛は、ある場所で破滅するのと同じ時に、別の場所で再び自らを作り上げるからだ。自己愛が快楽を捨てると思われる時でも、実は快楽を一時的に中断するか、変化させるだけなのだ。自己愛が打ち負かされ、人が自己愛を取り払ったと思う時でさえ、人は、自己愛が自らの敗北の中で勝利するのを再び見るのだ。
もし自己愛が常に存在し続けることを望むのなら、どうして敵と協力して、自己破壊に向かうようなことをするのだろうか。
例えば、自己愛は快楽をもたらすはずのものなので、禁欲とは対極にあるはず。しかし、時に、la plus rude austérité(最も厳しい禁欲)に加わり、se détruire(自己破壊)へと向かう。
こうしたことは明らかに矛盾している。
しかし、そこにこそ自己愛の最も巧みな技、あるいは狡猾な性格が潜んでいる。
そして、その秘密が、dans le même temps(同時に)という言葉で明かされる。つまり、自己愛がある場所でse ruine(自らを破滅させる)時、別の場所ではse rétablit(自らを再び作り上げる)ことが行われる。
別の観点から見ると、自己愛をdéfait(振り払った)と思う人は、その時にもっとも自己愛に捉えられているのかもしれない。自己愛はla propre défaite(それ自体の敗北)の中でtriomphe(勝利する)という言葉は、そうした狡猾さに対する警告になっている。
« Lors même que l’amour-propre est vaincu et qu’on croit en être défait, on le retrouve qui triomphe dans sa propre défaite.»
このフレーズも、défait de…(・・・を取り払う)とdéfaite(敗北)が巧みに連動し、説得力ある箴言になる。
結局、私たちは自己愛から逃れることはできず、自己愛が消え去ることはない。消滅したと思っても、すぐに甦る。
ラ・ロシュフコーは、そうした状況を海にたとえることで、この長い箴言を終わりにする。
Voilà la peinture de l’amour-propre, dont toute la vie n’est qu’une grande et longue agitation ; la mer en est une image sensible, et l’amour-propre trouve dans le flux et le reflux de ses vagues continuelles une fidèle expression de la succession turbulente de ses pensées, et de ses éternels mouvements.
以上が自己愛の描写である。自己愛の生涯全体は、大きく長い動きに他ならない。海はその感覚的なイメージだ。自己愛は、寄せては返す絶え間ない波の中に、それ自体の思考の騒々しい継続と、その永遠の動きの、忠実な表現を見出すのだ。
自己愛が、波のle flux et le reflux(寄せては返す流れ)という動きによって表現される。
私たちはある時にはその波に呑み込まれ、別の時には波が去って行くのを見る。しかし、すぐにまた波は打ち寄せてくる。
それは、ses éternels mouvements(永遠の動き)であり、決して消滅することはない。

ここで展開された考察は、通奏低音として、『箴言集』に掲載された自己愛に関する数々の言葉の奥底で響いている。
例えば、「嫉妬には、愛よりも自己愛が多く含まれる。」(Il y a dans la jalousie plus d’amour-propre que d’amour. )という箴言。
その言葉の根底には、自己愛の変幻自在さがあると考えてみる。すると、自己愛は変幻自在に姿を変えるために愛と区別がつかないといった、一歩踏み込んだ思考へと促される。
自己愛を抑え、相手に対する真実の愛を想定したとしても、そこにすでに自己愛の姿が垣間見える。自分に対する愛は不死なのだ。
このように考えると、箴言の短い言葉は、キャッチコピー的な人生訓ではなく、物事を多角的で重層的に考えるきっかけとなる。
ここまで読んで来た少し長めの自己愛に関する考察は、そうした読書法の、ロシュフコーによる手引きだと考えていいのかもしれない。