他人に厳しく自分に甘い ラフォンテーヌの寓話 振り分け頭陀袋  La Fontaine La Besace

La Besaceとは、肩の前後に振り分けてかつぐ頭陀袋のこと。そのLa Besaceという題名を持つラ・フォンテーヌの寓話は、イソップの「ジュピターの二つの袋」の原典としている。そのおおまかな内容は以下のようなもの。

ジュピターが人間を造った時、二つの袋を担がせた。肩の前に掛かった袋には隣人の欠点が、後ろに掛かった袋には自分の欠点が入っている。そのために、他人の欠点はすぐに目に入るが、自分の欠点はなかなか見えない。

「他人に厳しく自分に甘い」といった意味の諺は日本にもある。例えば、「灯台下暗し」、「人の一寸(すん) 我が一尺(しゃく)」、「目はその睫(まつげ)を見る能(あた)わず」、など。

では、そうした教訓を核とする小話を、ラ・フォンテーヌはどのような寓話として語ったのだろうか。

Jupiter dit un jour : “Que tout ce qui respire
S’en vienne comparaître aux pieds de ma grandeur :
Si dans son composé quelqu’un trouve à redire,
Il peut le déclarer sans peur ;
Je mettrai remède à la chose.

ジュピターがある日こう言った。「息するもの全ては
偉大なわしの足下に出頭すること。
誰か自分の身体の作りに不平があるのであれば、
    恐れることなく申告するがよい。
    わしがそれを直してやろう。」

ジュピターはローマ神話の主神であり、ギリシア神話のゼウスと同一視される。全ての神の上に立つ神だといえる。
この寓話でも、最後の部分で、Le Fabricateur souverain(君主である製造者)と呼ばれ、全てのものを作成した主であることがわかる。

そのジュピターが、tout ce qui respire(息をする全てのもの)に向かい、Queを先頭にして動詞(s’en vienne)が接続法で活用される命令形を使い、身体の作りでどこか不満なところがあるのであれば、申し出るようにと命じる。

こうした点に関して、神話や寓話として何も不自然なところはないように見える。しかし、ラ・フォンテーヌがジュピターに対して皮肉を込めた表現をしていることに注意したい。
そのことは、ジュピターが自分のことをma grandeur(私の偉大さ)と言うことから最初に感じられる。

身体の作りに関しては、son composé(構成されたもの=各部位の集合)という言葉が使われ、ジュピターがすべての製造者であるという暗示がなされている。

さらに、不具合があるとしてもsans peur(恐れることなく)言うようにということは、普段であれば常に恐れを抱ていることが垣間見える。もし何か不平を言うとしたら、それは製造者の作品に文句を言うことになるからだ。

2行目の最初の6音となる s’en vienne comparaître(出頭してくる)は、意味的に言えば、venir(来る)だけでも、comparaître(出頭する)だけでもいいのだが、6音節という詩句の半分を占める表現を使うことで、その行為が重大であるという印象を与える。

このように見てくると、以下に出てくる猿、熊、象たちを通して表現される皮肉の向かう本当の対象はジュピターではないか、という推測が生まれてくる。

。。。。。

韻文の視点から見ておくと、12音節からなる最初の3行は、切れ目が6音節の後にあり、6/6のリズムを刻んでいる。
4行目と5行目は8音節の詩句。

韻は、ABABの交差韻だが、意味との関係で興味深いことがある。
respireとredireが韻を踏むことで、息をすることが、実は何か言うこと、つまり不平を言うことにつながる。
grandeurとpeurの韻は、偉大さが恐れを抱かせることを示す。


ジュピターはまず猿に呼びかける。
その理由は、ラ・フォンテーヌが参照した寓話の中に、「雌猿とジュピター」があったからだと考えられる。その寓話では、動物たちが自分たちの子供の可愛さを競う中で、雌猿が揶揄の対象となる。

Venez, singe ; parlez le premier, et pour cause.
Voyez ces animaux, faites comparaison
De leurs beautés avec les vôtres.
Etes-vous satisfait? – Moi ? dit-il, pourquoi non ?
N’ai-je pas quatre pieds aussi bien que les autres ?
Mon portrait jusqu’ici ne m’a rien reproché ;
Mais pour mon frère l’ours, on ne l’a qu’ébauché :
Jamais, s’il me veut croire, il ne se fera peindre.

サルよ、ここに来なさい。最初に話すのだ。それが当然なのだ。
ここにいる全ての動物を見て、比べてみなさい、
      彼らの美しさと、お前の美しさを。
お前は満足しているのか? — 私ですか?とサルは言う。もちろんです。
私にも四つの足がないでしょうか、他の動物たちと同じように?
私の肖像画は、これまで、私に対して何も批難することがありませんでした。
しかし、我が兄弟の熊に関していうと、クマは素描されただけです。
もしクマが私の言うことを信じるなら、決して自分を描かせないでしょう。

ジュピターの最初の言葉は、これまでの12音節の詩句が6/6のリズムであったのに対して、4/5/3と区切られ、新しい展開に入ることが示される。

そこで問題になるのは動物たちのbeautés(美しさ)なのだが、そのことは、12音節の詩句の中に一つだけ8音節の詩句(De leurs beautés avec les vôtres)が置かれることで、形体的に明確に示される。

その美しさは、portrait(肖像画)、つまり見た目によって競われる。
singe(サル)は、自分の肖像画、つまり自分の容姿には批難されるところがないと言う。その一方で、ours(クマ)を持ち出し、クマはébauché(素描された)だけだと言う。

そこでも韻が役割を果たす。これまでの韻がABABと進んできたのに対して、reproché / ébauchéからはAAという平韻になる。その連続により、いよいよ動物同士の比較が始まり、ライヴァル心がパチパチと燃え上がる様子が示される。

こうした様子は、ラ・フォンテーヌの時代、ルイ14世の宮廷で貴族の女性たちが美を競い合う様子を想像させないだろうか。

熊が自分の姿を描かせないだろうという最後の一節 « Jamais, s’il me veut croire, il ne se fera peindre. » では、12音節が2/4//6と区切られ、それ以前の6/6のリズムとは異なるリズムが使われていることにも注目したい。


L’ours venant là-dessus, on crut qu’il s’allait plaindre.
Tant s’en faut : de sa forme il se loua très fort
Glosa sur l’éléphant, dit qu’on pourrait encor
Ajouter à sa queue, ôter à ses oreilles ;
Que c’était une masse informe et sans beauté.
L’éléphant étant écouté,
Tout sage qu’il était, dit des choses pareilles.
Il jugea qu’à son appétit
Dame Baleine était trop grosse.
Dame fourmi trouva le ciron trop petit,
Se croyant, pour elle, un colosse.

そこにクマがやって来たために、みんなはクマが不満を言うのかと思った。
しかし、そんなことはない。クマは、自分の姿をとても自慢した。
ゾウについて注釈し、まだすることがあるだろうと言った。
尻尾は長くできるし、耳は小さくできる。
ゾウは、不格好で美しさの欠けた塊だ。
     ゾウは、話を聞かれると、
とても賢いはずなのに、(猿や熊と)同じようなことを口にした。
     ゾウの好みからすると、
     クジラ夫人は太すぎると、判断したのだった。
アリ夫人はダニが小さすぎると見なし、
     自分のことを巨大だと思った。

クマがゾウを悪く言うところまでと、ゾウがクジラの悪口を言うところで、話題が変化する。
最初は姿形の美しさだが、身体の大きさが問題になる。

クマはサルから美しくないと言われたので、その仕返しをゾウに対してする。
まず、クマはsa forme(自分の形)をse loua(自慢)し、自己弁護する。
それに続けて、ゾウに対して、sa queue(尾)やses oreilles(耳)に文句をつける。そして最後には、ゾウはune masse(塊)であり、しかもinforme(不格好)で、sans beauté(美しさがない)と断定する。

それに対して、ゾウは自己弁護をせず、クジラを批判する。そして、そこからは、身体の大小が問題になる。
巨大なはずのゾウが、クジラは太すぎると言う。
小さなアリはダニを小さいと見なし、自分が大きいと思う。
この部分で、ゾウとクジラの組み合わせから、アリとダニの組み合わせへと移行する。この展開は、大きさのギャップがあまりにも大きく、滑稽な味わいを生み出している。

。。。。。

美から大小への移行に際して、韻の連なりを見ると、美に関する部分の最後で、ABBA (oreilles – beauté – écouté – pareilles)という抱擁韻が使われる。
その後、最初から使われてきたABAB(appétit – grosse – petit – colosse)と交差韻に戻る。

また、ゾウが話を始める詩句からは、8音節の詩句が数を増し、語りのスピードが上がっていくのが感じられる。


動物たちが悪口を言い合う部分が終わると、寓話は教訓部分に移行する。

Jupin les renvoya s’étant censurés tous,
Du reste, contents d’eux ; mais parmi les plus fous
Notre espèce excella ; car tout ce que nous sommes,
Lynx envers nos pareils, et taupes envers nous,
Nous nous pardonnons tout, et rien aux autres hommes :
On se voit d’un autre oeil qu’on ne voit son prochain.

ジュパンはみんなを下がらせた。みんながお互いにチェックし合い、
その一方で、自分たちには満足しているのだ。しかし、最も愚かな者たちの中で、
私たちの種族が群を抜いている。なぜなら、私たちの存在全体が、
同類に対してはオオヤマネコ、自分たち自身に対してはモグラなのだ。
自分たちには全てを赦し、他者に対しては何も許さない。
自分を見るのは、隣人を見るのとは違う目で見るのだ。

Jupinは、Jupiterを短縮した呼び方で、古いフランス語や詩の中で用いられた。
寓話の冒頭でque (…) s’en vienneと命令し、みんなが出頭するように命じたジュピターが、今度はみんなを追い払う。動物たちが互いにcensurés(チェック:検閲)し、悪く言い合いながら、自分たちにはcontents(満足)しているのを見たからだ。

その後、寓話の語り手は、notre espèce(私たちの種族)、つまり人間について言及する。
その表現は、省略的であると同時に、イメージに富んでいる。
« tout ce que nous sommes, / Lynx envers nos pareils, et taupes envers nous. »

tout ce que nous sommes, 「私たちがそうであるものの全体」とは、私たち人間の生きている姿全体といった意味だと考えることできる。
その言葉が主語となり、動詞êtreが省略され、次の言葉が続けられる。
envers nos pareils(私たちの同胞にとって)、つまり他者にとっては、lynx(オオヤマネコ)。
envers nous(私たち自身)にとっては、taupes(モグラ)。
他者に対しては攻撃的になり、自分に対しては穏やかになる。

動物以上に人間こそが、他人に厳しく自分に甘い生き物だということが、オオヤマネコとモグラという比喩で示された後、イソップ寓話の同様に同じ振り分け頭陀袋を持つ人々(besacier)を思い起こさせ、ラ・フォンテーヌは自らの寓話を終わる。

     Le Fabricateur souverain
Nous créa besaciers tous de même manière,
Tant ceux du temps passé que du temps d’aujourd’hui :
Il fit pour nos défauts la poche de derrière,
Et celle de devant pour les défauts d’autrui.

     至高の製造者は
私たちを、振り分け頭陀袋を持つ人間として制作した、全員同じように、
過去の人間たちも、現在の人間たちも。
私たちの欠点のためには、後ろの袋を作り、
前の袋は、他の人々の欠点のため。

私たち人間はすべて振り分け頭陀袋を持つ人間として製造されている。過去の人間も現在の人間もそのことに変わりはない。
自分の欠点は背中の後ろにあり見えないが、他人の欠点はすぐ目に入る。

この教訓は、誰もがすでに知っていることだし、しばしば口にされる。
イソップだけではなく、17世紀の思想家で、ラ・フォンテーヌに負けずアイロニーに富んでいるラ・ロシュフコーも、自己愛(amour-propre)に関する考察の中で、こんな言葉を残している。

(…) il (l’amour-propre) est semblable à nos yeux, qui découvrent tout, et sont aveugles seulement pour eux-mêmes.

自己愛は私たちの目と似ている。目には全てが見えているのだが、しかし、目自体に対しては盲目なのだ。

(参照:自己愛 ラ・ロシュフコー 箴言 La Rochefoucauld Maxime 1/2

確かに、私たちは目を通して自分たち以外のものを見ているが、自分の顔や背中を見ることはできない。そのために、自分に対して甘く、他人に厳しくなりがちなのだ。

では、ラ・フォンテーヌはどこに最もアイロニーを利かせたのか?

寓話の最後になり、ジュピターはcréateur(創造者)ではなく、fabricateur(製造者)だと言われる。
たとえsouverain(至高の、君主の)という形容詞が付けられているとしても、fabricateurという言葉はジュピターの価値を下げている。

そのように考えると、ラ・フォンテーヌの本当の狙いは、みんなの上に立ち、動物たちに命令を下すジュピターではないかという推測が成り立つ。
彼こそが、自分の欠点を背中にかつぎ、他者の欠点を自分の見えるところに置く存在ではないのか?

自分のことは棚に上げて、他の人たちに向かい、「他人に厳しく自分に甘い」という格言を説くその人こそが、ラ・フォンテーヌの寓話が狙い撃ちしている相手なのだ。
ジュピターをジュパンと呼び変え、さらに製造者と言い直す。そのことで、頭陀袋を造った本人も、やはり他の人々と同じ作り方をされた人間と変わるところはないと、暗にほのめかす。
そこが、「振り分け頭陀袋」から読み取れる最も面白い教訓に他ならない。


Fabrice Lucchiniによる朗読でもう1度 la Besaceを聞いてみよう。韻文の面白さを少しだけでも感じられるに違いない。


こうした考察は決して17世紀に関わるだけではなく、 現代の日本における人間関係においても大きなテーマになっている。
「他人に厳しく自分に甘い」という言葉でネットを探すと、数多くのサイトがすぐに見つかる。
職場内での人間関係
https://www.recurrent.jp/articles/jibun-amai
自己分析
https://saita-puls.com/32795
性格分析
https://marketx.co.jp/agent/strict-person-characteristics/
自己愛性パーソナリティ障害
https://h-navi.jp/column/article/35026371

こうしたサイトに少し目を通すだけで、現代の日本において、自己愛やそれに起因する心理的な葛藤がどれほど人々の関心を引いているかがわかる。
そうした中で、サイトに書かれた細かな分析をたどり、ノウハウを知ろうとするのも一つの手段だが、それでは常に受身にまわってしまう。
それよりも、ラ・フォンテーヌの寓話を読み、自分なりに考えてみることで、能動的に理解する姿勢を身に付けたほうが、楽しみが大きいのではないだろうか。

また、« La Besace »をフランス語で読むことによって、日本語だけを通すのとは違う何らかの発見があるに違いない。

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