ヴィクトル・ユゴー 「橋」  Victor Hugo Le Pont 深淵での祈り La prière dans l’abîme

2024年12月7日、パリ・ノートルダム大聖堂再開の式典が行われた。
その式典の中で、ヴィクウトル・ユゴー(Victor Hugo)の「橋」(Le Pont)が、ヨーヨー・マ(Yo-Yo Ma)のチェロ演奏をバックに、女優マリオン・コティヤール(Marion Cotillard)によって朗読された。

「橋」は、ユゴーが1856年に発表した「静観詩集(Les Contemplations)」の第六部「無限の縁で(Au bord de l’Infini)」の冒頭に置かれた詩。
深淵(L’abîme)の闇(les ténèbres)に包まれた人間が、その中でも神(Dieu)をおぼろげに目にし、祈り(la prière)を捧げるといった内容を詠っている。

LE PONT

J’avais devant les yeux les ténèbres. L’abîme
Qui n’a pas de rivage et qui n’a pas de cime
Était là, morne, immense ; et rien n’y remuait.
Je me sentais perdu dans l’infini muet.



私の眼の前には闇があった。その深淵が、
岸辺もなく、頂きもなく、
そこにあった、どんよりとし、巨大な深淵が。その中に動くものは何なかった。
私は迷子になったように感じていた、その物言わぬ無限の中で。

この詩の最も大きなテーマが深淵(l’abîme)であることは、最初の詩行の最後に置かれたl’abîmeの配置によって示されている。
その単語は、続く二つの行の主語となり、詩法でコントル・ルジェ(contre-rejet)と呼ばれる位置に置かれることで、強調されているからだ。

そのL’abîme(深淵)は、les ténèbres (闇)、 l’infini muet(物言わぬ無限)といった言葉で言い換えられ、人間を圧倒する不安な要素が列挙される。
そして、「私(je)」は、深い闇の苦悩の中で、迷子(perdu)であると感じていた。

ちなみに、l’abîmeには岸辺(rivage)も頂き(cime)もないという際、動詞がn’a pasと現在形で活用されていることは、それが普遍的な事実であることを意味する。
その上で、深淵はどんよりとし(morne)、巨大であり(immense)であった(était)。そして、そこでは何も動かなかった(remuait)という際には、半過去形の動詞が使われている。
このように、動詞の現在(普遍的現在)で示された一般論から、半過去形で描かれる「私」の具体的な状況へと記述が移行する。
その関係は、「私」の体験が普遍的なものの一つの表現であることを示すと考えていいだろう。


続く詩句では、闇の中に一つの暗い星(une sombre étoile)のようなものが見え、「私(je)」は自分の魂(mon âme)に語り掛ける。

Au fond, à travers l’ombre, impénétrable voile,
On apercevait Dieu comme une sombre étoile.
Je m’écriai : — Mon âme, ô mon âme ! il faudrait,
Pour traverser ce gouffre où nul bord n’apparaît,
Et pour qu’en cette nuit jusqu’à ton Dieu tu marches,
Bâtir un pont géant sur des millions d’arches.

その底で、闇、つまり見通すことができない幕を通して、
人々には神が見えていた、暗い星のように。
私は叫び声を上げた。— 我が魂よ、おお、我が魂よ! しなければならないことは、
この渦潮、いかなる岸も姿を見せないこの渦潮を通過するため、
そして、今夜のうちに、お前の神の許(もと)までお前が歩むために、
巨大な橋を作ることだろう、幾百万ものアーチの上に。

この詩節でまず注目する必要があるのは、神が見えていた(On apercevait Dieu)という場合の主語が、「私」ではなく、一般的な人(on)だということ。
しかも、闇の底で、通過することができない=見通すことができない幕(impénétrable voile)を通して、という状況が付け加えられ、apercevoirとimpénétrableという矛盾する要素が重ね合わされている。
深淵の闇の中では何も見えないはず。それにもかかわらず、神が垣間見られたのだ。だからこそ、その姿は、暗い星(une sombre étoile)のように見えたのだ。

そして、人々(on)の眼に神が見えたからこそ、「私」は自らの魂に「お前(tu)」と呼びかけ、巨大な渦潮(ce gouffre)を通過し、今夜(en cette nuit)のうちに神の許まで歩むためには、橋(un pont)を作らないといけないだろう(il faudrait (…) bâtir)と訴えかる。

どんなに絶望的な状況にあっても必ず希望を見出すこうした精神は、『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)の作者であるヴィクトル・ユゴーの人道主義を思わせる。

『レ・ミゼラブル』第2巻『コゼット』の第5章の題名は「祈り(La Prière)」。その最初は、次の言葉で始まる。

Ils prient. / Qui ? / Dieu. / Prier Dieu, que veut dire ce mot ?

彼らは祈る/ 誰に? / 神だ。 / 神に祈るとは、何を意味するのか?

Victor Hugo, Les Misérables, tome II, ch. V. « La Prière »

「橋」の最後に置かれた言葉も「祈り(La prière)」。この一致は、「橋」が『レ・ミゼラブル』と同じ精神に導かれていることの証だといえる。


続く詩節では、橋を作らないといけないとしても、しかし誰もそれを作ることなどできないという絶望から始まり、最後の「祈り(la prière)」という言葉へと続いていく。

Qui le pourra jamais ? Personne ! Ô deuil ! effroi !
Pleure ! — Un fantôme blanc se dressa devant moi
Pendant que je jetai sur l’ombre un œil d’alarme,
Et ce fantôme avait la forme d’une larme ;
C’était un front de vierge avec des mains d’enfant ;
Il ressemblait au lys que sa blancheur défend ;
Ses mains en se joignant faisaient de la lumière.
Il me montra l’abîme où va toute poussière,
Si profond que jamais un écho n’y répond,
Et me dit : — Si tu veux, je bâtirai le pont.
Vers ce pâle inconnu je levai ma paupière.
— Quel est ton nom ? lui dis-je. Il me dit : — La prière.

一体誰がそれを実現できるというのか? 誰もいない! おお、なんたる悲しみ! なんたる恐れ!
涙せよ! — 白い亡霊が私の前に立ち上がった、
私はその影に警戒の眼差しを投げかけた。
その亡霊は一粒の涙の形をしていた。
乙女の額をし、子供の手をしていた。
百合の花に似ていた、その白さが自らを守る百合の花に。
その手は、結び合わされ、光を生み出していた。
それが私に深淵を指さした。その深淵へとあらゆる埃が向かうのだ。
その深淵は深く、決してエコーが答えることはない。
それが私に言った。— もしお前が望むのであれば、私がその橋を作ろう。
その青白い未知なる者に向かい、私は瞳を挙げた。
— 「お前の名前は?」それに向かい私が言った。それが私に言った。— 「祈り。」

自分の魂に向かい、巨大な橋を作らなければならないと呼びかけた「私」は、すぐに、そんなことは誰にもできないだろうと絶望する。そして、悲しみ(deuil)と恐怖(effroi)のうちに、涙しろ(pleure)と、自らの魂に命じる。

その最も深い闇の中から、突然、一つの白い亡霊(un fantôme blanc)が立ち上がった(se dressa)。
その動詞 se dressaは、この詩の中で初めて、単純過去形で活用されたもの。
半過去形で描き出されてきたこれまでの状況を背景として、白い亡霊がくっきりと浮かび上がってきたことが、単純過去によって示される。

先回りして言ってしまうと、白い亡霊は、詩の最後の言葉によって、「祈り(la prière)」であると明かされる。
そのことを知った上で亡霊の描写をたどっていくと、ユゴーが祈りに対してどのようなイメージを付与しているのか知ることができ、非常に興味深い。

祈り=白い亡霊は、一粒の涙(une larme)の形をし、乙女の額(un front de vierge)を持ち、子供の手(des mains d’enfant)をしていた。
白百合と似ているのは、その白さが自らを守る(défend)からだろう。
祈るために結んだ手(se joignant)からは、光(de la lumière)が発せされる。

その描写の後、亡霊は「私」に対して、示す(montra)と言う(dit)という、二つの行為を行った。
二つの動詞の活用は単純過去形であり、se dressaに続く行為であることが示されている。

一つ目の行為で示す(il me montra)のは、深淵(l’abîme)。
深淵は、この詩の最初の詩句で出てきた単語であり、その際には、暗く恐ろしい空間であることが強調されていた。
ここでも、深淵はあらゆる埃(toute poussière)が向かい(va)、吸い込まれる場所であり、そこに入ってしまうと、何の音もしないことが、エコー(un écho)の不在によって示される。
従って、深淵が恐怖の場、絶望の場であることに変わりはない。

そのように確認した上で、白い亡霊=祈りは、「私」に向かい、« Si tu veux, je bâtirai le pont. »と言
った(dit)。
ここで重要な言葉は、« si tu veux ». 
「お前が望むなら」ということは、逆に言えば、望まなければ「祈り」は実現しない。
実現するためには、「私」がそのように希望することが最大の条件になる。
実現を望み「祈る」ことで、誰も実現できない(personne ne le pourra )と思われる「橋」が作られるかもしれない。

「橋」の最後の詩行は、先頭にダッシュが置かれ、それ以前の詩句と切り離され、とりわけ強い意味を与えられている。
— Quel est ton nom ? (4) / lui dis-je. (3) / Il me dit (3) : — La prière.(3)
しかも、12音節で構成される他の詩句とは異なり、この詩句だけは4/3/3/3と13音節で構成され、二つ目のダッシュの後ろに置かれた3音節のla prièreという単語に強烈なアクセントが与えられている

闇の中から立ち上がった白い亡霊の名前は、「祈り」。
その「祈り」こそが、深淵に橋を架ける力を持つのだ。


では、誰に対して、あるいは何に対して、祈るのか?
それを知るためには、「私」と「白い亡霊=祈り」の関係を理解する必要がある。

「私」と「白い亡霊=祈り」の関係の密接さは、最後の詩句の中で2度使われる「言う(dire)」という言葉によって暗示されている。
[…] lui dis-je. Il me dit. […].
この表現の中で、青白い未知なる者(ce pâle inconnu)と「私(je)」は、lui-je / il-meと相互に変換し、交換可能な関係にあることがわかる。
私と未知なる者は、一方が鏡の前に立つ実体となり、他方が鏡に映る像となる。そして、その関係が入れ替わることも可能なのだ。

「私」が影(l’ombre)に眼を投げかけた時に、一つの白い亡霊(Un fantôme blanc )が立ち上がったとすれば、亡霊は深い闇に包まれた深淵(l’abîme)から生まれたともいえる。
とすると、「私」も深淵から生まれた存在、あるいは深淵の反映ではないのか?

『レ・ミゼラブル』の「祈り」の章の一節は、その問いについて考える上で、有益な情報を与えてくれる。そこでは、無限(l’infini)が話題にされ、二つの無限に言及される。

 En même temps qu’il y a un infini hors de nous, n’y a-t-il pas un infini en nous ? Ces deux infinis (quel pluriel effrayant !) ne se superposent-ils pas l’un à l’autre ? Le second infini n’est-il pas pour ainsi dire sous-jacent au premier ? n’en est-il pas le miroir, le reflet, l’écho, abîme concentrique à un autre abîme ? (…) 

 Mettre par la pensée l’infini d’en bas en contact avec l’infini d’en haut, cela s’appelle prier.

  私たちの外部に無限があるのと同時に、私たちの内部にも無限がないだろうか? それら二つの無限は、(何と恐ろしい複数なのか!)、お互いに重なり合わないだろうか? 二つ目の無限は、いわば最初の無限の下部にあるのではないだろうか? その鏡、反映、エコーであり、もう一つの深淵と同心円的な深淵ではないのか?

  思考によって、下部の無限を上部の無限と接続すること、それが祈ると呼ばれるのだ。

         Victor Hugo, Les Misérables, tome II, ch. V. « La Prière »

私たちの外部にある無限(un infini hors de nous)が宇宙(コスモス)だとしたら、私たちの内部にある無限(un infini en nous)とは、ミクロコスモスである人間、あるいは人間の内部に秘められた深淵だと考えてもいい。

そして、第二の無限が第一の無限に従属しているとしても、それらは同心円的に重なり合い、鏡像関係にある。

「祈り(la prière)」がそれら二つを接続することだとしたら、同じ役割が「橋(le pont)」にも与えられいると考えても、間違いではないだろう。
「橋」は、コスモス=神とミクロコスモス=人間をつなぎ、人間の声を神に届け、神からの声が人間の耳に聞こえるための通路となる。
としたら、「橋」が「祈り」だと考えてもいいだろう。

「祈る」対象は、彼方の無限(神、超越的な存在)でもあり、「私」の中の無限=深淵でもある。だからこそ、「我が魂が望むこと」が、橋を作る条件となるなのだ。

ヴィクトル・ユゴーの思想においては、人間がどんな深く暗い絶望の闇に落ち込んだとしても、あるいはそうした闇に落ち込んだ時こそ、「我が魂がそう望めば」、遠くに暗い星が見え、私と永遠の存在との間に「橋」が形作られる。

パリのノートルダム大聖堂が2019年に火災で焼け落ちたとき、人々は驚愕し、深い悲しみを味わった。その災害から5年後の2024年に大聖堂が再建された。
その式典の中で、『ノートルダム・ド・パリ』の作者であるヴィクトル・ユゴーの「橋」が朗読されたことは、深い闇の上に「祈り」という「橋」が架けられたことを象徴しているといっていいだろう。


朗読の伴奏をしたヨーヨー・マが、同じ式典で演奏したバッハの無伴奏チェロ組曲、第1番プレリュード。


Le Pontの別の朗読を聞くのも楽しい。

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