智力 — 福沢諭吉『文明論の概略』の一節から

福沢諭吉は、『文明論の概略』(明治8(1875)年)の中で、「智力」の有無を、野蛮(非文明)と人文(文明)を区別する基準としている。

その説の根拠を知ることは、SNSやYoutubeでフェイク情報や陰謀論が飛び交い、大手マスメディアにおいても無責任なコメントが日々発信され、「表現の自由」という名の下で、無関係で無責任な人間たちによって無差別的な誹謗中傷さえ平然と行われる現代社会において、私たちが今まさに何を目指すべきかを考え直すきっかけになる。

では、野蛮と人文の違いは何か? 福沢諭吉は以下のような対比を提示する。

結局、野蛮の世には、人間の交際に唯(ただ)恩威(おんい)の二箇条あるのみ。即(すなわ)ち、恩徳(おんとく)に非(あら)ざれば暴威(ぼうい)なり、仁恵(じんけい)に非ざれば掠奪なり。此の二者の間に智恵の働きあるを見ず。

人文(じんぶん)漸(ようや)く開化し、智力(ちりょく)次第に進歩するに従いて、人の心に疑ひを生じ、天地間の事物に遇(あ)ふて軽々(けいけい)之れを看過(かんか)することなく、物の働きを見れば其の働きの源因を求めんとし、仮令(たと)ひ或は真の源因を探り得ざることあるも、既に疑ひの心を生ずれば、其の働きの利害を撰(えら)びて、利に就(つ)き害を避(さ)るの工夫を運(めぐ)らす可(べ)し。


「野蛮の世」には、「恩威(おんい)」、つまり恩恵か威光か、温かい情けをかけるか厳しい態度で威圧するかという、両極端の人間関係しかない。
現代で言えば、同意できる相手は味方としてうなずき合い、同意できなければ敵であり、批難し攻撃する。

そして、その両極端な視点しか持てない人々は、「此の二者の間に智恵の働きあるを見ず」、と福沢諭吉は指摘する。彼らには「智恵」が欠けている。「野蛮」とはそうした意味だ。

それと反対なのが、「人文」。「文明」と言ってもいいだろう。
そこでのポイントは、「疑うこと」。
「疑う」とは、目の前にあることを何の考えもなくそのまま受け入れるのではない、という意味。
福沢は、「天地間の事物に遇ふて軽々之れを看過することなく」、「物の働きを見れば其の働きの源因を求めんとし」と、より具体的な説明を加える。

「軽々之れを看過する」、つまり、何事も当たり前のことと見なし、何も考えず見過ごしていまう。それは、SNSやyoutubeなどでどんな怪しげな映像が流れてきても、「素直に」信じ込んでしまう現代人の姿勢と並行関係にある。

「其の働きの源因を求めん」としないことは、より深刻な問題を引き起こす可能性がある。
例えば、日本語版wikipediaの「福沢諭吉」の項目の冒頭付近には、福沢は「嫌韓主義の第一人者でもあり、『学問のすゝめ』や『脱亜論』で韓国を批判している」と記されている。
しかし、そのような一方的な福沢理解こそが、敵味方を二極化してその間に「智恵の働きある」を見ない姿勢であり、私たちがすべきことは、この記述の執筆者の「野蛮」を「疑って」みることなのだ。

そうした二極化した思考の持ち主たちにとって、「疑い」が難しいことは、福沢がすでに指摘していた。

道を説いて人の品行を評するには、悉皆(しっかい)徳義を以て目的と為し、仁不仁、孝不孝、忠不忠、義不義、正しく切迫(せっぱく)に相対(あいたい)して、伯夷(はくい)に非ざる者は盗跖(たうせき)なり、忠臣に非ざる者は賊なりとて、其の間に智恵の働きを容(い)れず。
偶(たまたま)智恵の事を為すものあれば、之れを細行(さいこう)末事(まつじ)と称して顧みる者なし。

この世に生きる全ての人々が道徳的な行いをすることは確かに理想的である。しかし、そのことを全て(悉皆)の目的にして、江戸時代の儒教に基づく教えのように、「五倫五常」(ごりんごじょう)を説き、仁(他人への愛情)、親に対する孝行、君主に対する忠誠などなどを基準にし、それらの有無を問うだけになると、敵味方の二極論的な判断しかできないことになってしまう。

その結果、「疑う」ことをしない者、あるいは「疑い」を抱くことができない者にとって、「智恵」を働かせて思考し、行動することは、「細行末事」、つまり、些細で取るに足らないことになってしまいかねない。
現代で言えば、客観的なデータや論理的な思考過程をたどるのは面倒で、短く分かりやすい言葉が効果を発揮するという状況。

例えば、「レントゲン検査は被曝するので危険」という説が流れ、それをそのまま素直に信じる人々がいる。
そうした人々はその簡潔なフレーズに「疑い」を抱かず、次のような思考過程をたどることもないだろう。
1)放射線は自然界にも存在し、私たちは、大まかに言えば、大地から1年間に0.46mSv(ミリシーベルト)、宇宙からの放射線で1年間に0.38mSv、その他空気からなど1.5mSv程の被曝を受けている。
2)レントゲン検査で受ける放射線量は、胸部で0.1mSv、胃透視で15mSv程度。
3)人体が白血病やガンになると言われている放射線量は、 「1度に1000mSv」を越える量と言われる。つまり、レントゲンによる胸部の被曝量の1万倍。
結論:レントゲン検査で被曝する量は人体に影響を与えるものではない。

もしかすると、こうしたデータが提示されると、それは政府が出している偽りの情報であり、実は被曝量はその何倍にもなると言い張るかもしれない。
彼らにとっては、「レントゲン検査で被曝する」という簡潔なフレーズが意味を持つのであり、どれだけ被曝したら人体に影響を与える可能性があるのかといった「疑い」は、問題を見えにくくするトリックにすぎないだろう。


私は、丸山真男の『「文明論の概略」を読む(上・中・下)』(岩波新書)を読み、福沢諭吉の思考法に大きな共感を抱くようになった。

「人文」という言葉に関して、文部科学省のHPには、「 人文学とは、「(精神的価値、歴史時間及び言語表現に関する)世界の知的領有」と「知識についてのメタ知識」である」という定義が掲載されている。
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/gijyutu/gijyutu4/015/siryo/attach/1343352.htm

しかし、こんな抽象的な定義ではなく、福沢諭吉の「人文漸く開化し」以下の一節を読むことで、人文学が現代社会において持つ意義を知ることができる。

明治維新直後の日本のあり方を知るためだけではなく、現代を生きる私たちにとって「智恵」がどのような意味を持ち、その第一歩には「疑い」があることを知るためにも、丸山真男の『「文明論の概略」を読む』は有益な書籍だと言ってもいいだろう。

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