日本の歴史 超私的概観 (10) 幕末から明治へ

幕末から明治へと移行する中で、政治体制が大きく変化しただけでなく、一般の人々の生活様式を含む文化全体も大きく様変わりした。
この変化を広い視野で捉えると、飛鳥時代以来約1300年間続いてきた中国文化の影響から離れ、西洋の文化圏へと移行したことに他ならない。
別の視点から見れば、東アジアの端にある島国の日本が、もはや欧米列強の世界戦略とは無関係でいられなくなったことを意味している。

19世紀に入り、外国船が日本に頻繁に来航するようになり、とりわけ1853年に浦賀沖に現れたペリーの黒船に象徴される開国の要求以降、江戸幕府は鎖国政策の転換を迫られるようになっていった。
同じ頃、薩摩藩や長州藩などいくつかの藩では、有能な下級武士を登用して藩政改革に成功し、幕府に対抗し得る実力を備えつつあった。
そうした状況の中で、徳川時代を通じて政治の表舞台に立つことのなかった朝廷の存在感が次第に増し、明治維新後には、天皇が政治の中心に位置する国家体制が形成されていくことになる。


A. 天皇の存在

現代の私たちは、明治維新以降に形成された世界観をごく自然に受け入れているため、天皇が常に日本人の意識の中に存在していたかのように思い込んでいる節がある。
しかし、12世紀後半に鎌倉幕府が成立して以来、南北朝時代を例外として、政権の中心にいたのは常に武家であり、江戸時代の最終盤までの約700年間にわたり、朝廷が実際の権力と結びつくことはなかった。
徳川時代の将軍、家康、吉宗、慶喜、あるいは将軍ではないが水戸光圀といった人物の名前はすぐに思い浮かぶ一方で、当時の天皇の名を挙げられる人はほとんどいない。それほど、天皇家の存在感は希薄だったといえる。

では、天皇の存在が浮上したのは、いつ、どのような理由によるものだったのか?
この問いに答えることが、幕末から明治維新にかけての政治状況を理解する重要な手がかりとなる。

i. 攘夷と尊皇

江戸時代初期から清とオランダを除く諸外国との直接的な交流を断っていた幕府は、19世紀半ばになってもなお、鎖国政策を堅持しようとしていた。ロシア、イギリス、アメリカなどの船舶や軍艦が来航し、条約の締結を求めても、外国人は野蛮な夷人(いじん)であるとして、実力でこれを排除しようとする「攘夷」思想が根強く、幕府もその要求を拒絶する姿勢を貫こうとしていた。

しかし、長崎の出島でオランダ人と接したり、蘭学を通じて諸外国の実情を知る者たちは、欧米諸国との実力差を十分に認識していた。
さらに、1840年に始まったアヘン戦争によって、大国である清がイギリスと不平等条約を結ばざるを得なかったことは、武力による外国勢力の排除が現実的ではないことを、より明確に示す出来事となった。

a. ペリー来航と宮廷の政治的浮上

そうした時代状況の中、朝廷が政治の表舞台に登場するきっかけとなる出来事が起こった。
それは、1853年、ペリーが4隻の軍艦を率いて来航し、アメリカ大統領の国書の受理と開国を求めたことに端を発する。

幕府は国書を受理し、開国の是非については翌年に返答する旨を伝えてペリーを退去させたが、その後の対応を幕府単独では処理しきれないと判断し、前例を破り、外様大名たちに意見を求めるとともに、朝廷にも事態を報告した。
その結果、朝廷や薩摩・長州などの雄藩が幕府の政策に関与する余地が生まれることとなった。

翌1854年、ペリーが再び来航し、最終的にアメリカと日米和親条約が締結されることとなった。この条約により、下田と函館の港が開かれ、下田には領事館が設置されることなどが定められた。さらに翌年には、同様の条約がイギリス、ロシア、オランダとの間にも結ばれた。

この幕府の政策に対して、攘夷を叫ぶ勢力は反対の姿勢を示したのだが、それがさらに過激化する事態が起こる。
アヘン戦争後も清への実質的な侵略を続けていたイギリスは、1856年にフランスと共にアロー号事件を口実として戦争を仕掛け、さらなる権益の拡大を図った。
その動きに呼応するかのように、下田に着任したアメリカの総領事ハリスは、幕府に対し通商条約の締結を強く求めた。
これに対し、幕府は条約締結の方向で調整を進めようとしたが、攘夷派はこれに断固として反対し、激しい運動を展開した。

事態をさらに複雑にしたのは、ちょうど同じ時期に、将軍の後継問題が浮上したことだった。
第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の後継をめぐって、激しい争いが起こった。
幕府中枢の老中たちは血統を重視し、紀伊藩の徳川慶福(よしとみ、のちの家茂〔いえもち〕)を支持した。
他方、外様の雄藩の藩主たちは、能力本位を掲げて一橋慶喜(よしのぶ)を擁立しようとした。

条約問題と後継問題という二つの課題が交錯する中で、両派が自らの正当性を主張する手段として持ち出したのが、「勅許」、つまり「天皇の意向」だった。
そして、この動きが、「尊皇」思想と結び付くことになる。

b. 尊皇思想

尊皇思想の根拠として、しばしば水戸光圀が編纂を命じた『大日本史』が挙げられる。
徳川家康が江戸幕府を開くにあたり、戦国大名たちの上に立つ正統性を示すために用いたのが、鎌倉幕府を開いた源頼朝にならい、「征夷大将軍」の称号を名乗ることだった。この称号は天皇から授けられるものであり、形式上は天皇が将軍の上に立つとされていた。
水戸藩による『大日本史』はこの前提を踏まえ、将軍が天皇から政治を委任された存在であることを強調することで、幕府の権威を高め、諸大名に対する統制を正当化する意図のもとに編纂された。

ところが幕末に入り、幕府の権威が揺らぎ始めると、こうした意図とは逆に、天皇こそが将軍の上位に立つべき存在であり、国家の重大な方針は天皇から下される「勅許」をもって決すべきだとする思想が台頭するようになった。

その考えに、国学思想が重なった。
非常に概説的な視点から見ると、国学とは、18世紀半ばに本居宣長が、外来の中国文化の影響を受けた「漢心」(からごころ)を廃し、古代日本の精神である「大和心」(やまとごころ)を取り戻すべきだと説いたことから始まったと言うことができる。

その流れを受けた平田篤胤(あつたね)は、19世紀初頭、ロシアなどの外国勢力からの圧力に危機感を抱き、本居宣長の思想を学びながら、古代日本の神話に基づく世界観を築き上げた。

平田篤胤によれば、全宇宙は「天(あめ)」「地(つち)」「泉(よみ)」の三層から成る。
そのうち、「天」を支配するのは天照大御神(アマテラス)、「泉」を支配するのは素戔嗚尊(スサノオ)だった。
さらに、「地」は「顕世(うつしよ)」と「幽世(かくりよ)」に分かれ、「幽世」を支配するのは大国主神(オオクニヌシ)、そして「顕世」を支配するのが天皇とされた。
その説に従えば、天皇は日本神話の主神たちに匹敵する存在だということになる。

水戸学や平田神道において、天皇を中心とする「国体」が形成され、その正当性は天皇家の連続性によって保証されるものと考えられた。
幕末の「尊皇」思想は、こうした思想的な基盤の上に立つものだった。
そして、それが明治維新後、天皇を頂点とする政治体制の構築へとつながっていくのだった。


B. 公武合体か倒幕か

ここまでに見てきたように、「尊皇」は雄藩と幕府にとって共通の意識になっていた。また、諸外国から開国を迫られ、通商条約を結ぶしかない状況に追い込まれていた幕府の中でも、決して「攘夷」の望みがなかったわけではない。
そのように考えると、「尊皇攘夷」がすぐに「倒幕」と直結したわけではないことがわかる。
そうだとしたら、幕府を倒して新しい政権を樹立しようとする動きは、どのようにして生まれたのだろう?


i. 井伊直弼の暗殺

1858年にアメリカの総領事ハリスから締結を要求された日米修好通商条約は、横浜、長崎、神戸などの港を開港し、江戸と大坂での貿易の自由を保障した上で、関税を自主的に決める権利を持たず、治外法権を認めるという、大変に不平等なものだった。

そうした要求に対して、幕府の政策を担っていた大老・井伊直弼(いい なおすけ)は、最終的に天皇の「勅許」を得ることなく、条約に調印する決断を下した。
さらに、イギリス、ロシア、オランダ、そしてフランスとも、ほぼ同様の条約を結んだ。
実質的には、それらの修好通商条約こそが、200年以上にわたって続いた鎖国政策に終止符を打つものだった。

条約の発効によって、日本は欧米中心の国際貿易の枠組みに取り込まれた。
その結果、これまで国内だけで流通していた物資が大量に輸出に回されたため、商品不足による物価の高騰が生じ、とりわけ庶民や下級武士たちの生活を圧迫することになった。
そこで彼らは、生活苦の原因を開国にあるとし、「攘夷」を唱えて不満を幕府に向けるようになった。

その怒りにさらに追い打ちをかけたのが、将軍の後継問題だった。
井伊直弼は、条約締結のときと同様に、天皇の「勅許」を得ないまま、13歳にすぎない徳川慶福の将軍継嗣を決定し、慶福は家茂(いえもち)と名を改め、第14代将軍となった。

こうした施策は、尊皇攘夷論者たちの反発を招き、幕府への批判をいっそう強める結果となった。
これに対して井伊直弼は、徹底した弾圧によって批判の封じ込めを図った。
その結末として起こったと言っていいのが、1860年3月の「桜田門外の変」であり、井伊直弼は浪士たちにより暗殺された。
幕府の大老が浪人によって暗殺されるという事件は、その時点で幕府がすでに大きく弱体化していたことを、内外に印象づけるものだった。

ii. 公武合体論

弱体化した幕府が政権を維持し続けるためには、朝廷の権威を利用して尊皇攘夷論者の批判をかわし、将軍後継問題で対立していた一橋慶喜(よしのぶ)を支持する諸大名たちとも融和を図るしかなかった。
それは、公(朝廷)と武(幕府)が協力して治平を実現しようとする「公武合体論」に基づく政策だった。

この政策が実際に大きな効果をもたらしたとは言い難いが、形式的には、孝明天皇が条約の破棄と攘夷を条件に、妹の和宮(かずのみや)を第14代将軍・徳川家茂(いえもち)に降嫁させることを認め、1862年に婚礼が行われたことで、公武合体が実現したことが示された。

この機会を捉え、公武合体を推進する薩摩藩の藩主・島津久光らは幕政改革に乗り出し、それまで中枢を占めていた、徳川家茂を将軍に推挙した譜代大名の家老たちに代わって、一橋慶喜を中心とする新たな体制を模索した。
その結果、朝廷・幕府・薩摩・長州・土佐などの有力諸藩が連携する政治体制の構築が進められることになった。

iii. 倒幕

1860年代初頭の段階では、尊皇攘夷の思想が直ちに倒幕へと結びついていたわけではなかった。実際に幕府を打倒しようとする機運が高まっていったのは、攘夷をめぐる複雑な動きの中でのことだった。
そして、その過程には、イギリスを中心とした外国勢力との対立が深く関わっていた。

海外事情に通じた一部の人々の間では、外国勢力の排除が現実的には不可能であるとの認識は共有されていた。
しかし、それ以外の多くの人々の間では、依然として攘夷の実行や不平等条約の破棄を求める声が根強かった。朝廷においても攘夷が強く唱えられており、それは和宮降嫁の条件の一つとして攘夷の実行が求められていた事実からも明らかである。

こうした情勢の中で、孝明天皇が幕府に対し強い働きかけを行ったため、将軍・徳川家茂は攘夷を実行することを約束せざるをえなくなった。
そして、1863年5月、長州藩は「攘夷実行」の大義のもと、関門海峡を通航中のアメリカおよびフランスの船舶に対して砲撃を加えた。

この事件は、二つの重大な結果をもたらすことになる。
一つは、公武合体に基づいて形成された朝廷・幕府・雄藩の連合の中で、長州藩と薩摩藩の間に勢力争いが生じたことである。
攘夷を実行した長州藩が連合政権内で存在感を増す中、主導権を奪われた薩摩藩は、会津藩や一部の公家と連携し、政変を起こした。
これにより、長州藩をはじめとする勢力は京都から排除されることになった。(「8月18日の政変」)
これに対して長州藩も反撃に転じ、1864年7月に京都へ出兵したが、薩摩・会津両藩によって撃退された。

もう一つは、長州藩が外国勢力から二度にわたり報復攻撃を受けたことである。(「下関戦争」)
長州側による関門海峡での砲撃の翌月、アメリカとフランスの軍艦が下関の砲台を攻撃した。
さらに1864年8月には、イギリス・アメリカ・フランス・オランダの四国連合艦隊によって再び攻撃を受け、下関での陸戦も行われるなど、長州藩は甚大な被害を被った。

こうした状況の中、幕府が長州征討に乗り出したため、長州藩はやむなく謝罪し、表面的には屈服する姿勢を見せるしかなかった。
しかしその後、高杉晋作が農民や町人をも含む「奇兵隊」を組織し、藩の保守的な正規軍を打ち破るといった動きが起こった。
その結果、1865年初頭には、伊藤博文ら下級武士たちが藩政の実権を握り、攘夷から転じてイギリスとの提携を模索する方向へと舵を切ることになった。

そうした動きと前後して、薩摩藩でも大きな変化があった。
1862年、薩摩藩主・島津久光が江戸から帰国する途中、横浜の生麦村で、行列の前を横切ったイギリス人を藩士が殺傷するという事件が発生した。(「生麦事件」)
この事件に対する報復として、イギリスは1863年7月に軍艦を鹿児島湾に派遣し、砲撃を行って薩摩藩に甚大な被害を与えた。

「薩英戦争」と呼ばれるこの戦いを通じて、薩摩藩は攘夷の不可能性を痛感し、和平交渉の過程でイギリスと急接近した。
その後、軍艦や武器の購入を進めるなど、イギリスとの貿易を活発化させていった。

その結果、1863年の「8月18日の政変」以来敵対していた長州と薩摩が、イギリスを仲介として連携を模索するようになったのだった。
イギリス側でも、それまで正式な交渉相手としていたのは幕府だったが、この時期からは薩摩藩や長州藩との取引を重視するようになっていた。
実際、長州藩は幕府から武器の購入を禁じられていたため、薩摩藩を経由してイギリスから軍艦や近代的な兵器の供給を受けるようになっていた。

そうした中で、1866年には薩摩と長州の間で「倒幕」の密約が交わされ、いわゆる「薩長連合」が形成されていくことになった。
その目的の一つは、イギリスの支援を受けていたことからも明らかなように「開国」であり、もう一つは、幕府を排除した上で、天皇を頂点とする中央集権国家を築くことだった。

ちなみに、同じ時期、イギリスに対抗するかたちで、フランスは幕府を支援し、軍事的援助を行っていた。

iv. 大政奉還と王政復古

1866年7月、第14代将軍・徳川家茂が病死し、その後を徳川慶喜が継いだ。そして、慶喜は、フランスの援助を受けながら幕政の改革に着手した。

一方、薩長連合は、同年12月に公武合体派だった孝明天皇が死去し、わずか14歳の明治天皇(1852–1912)が即位すると、倒幕運動をさらに活発化させていった。

そして、1867年10月14日、歴史的な偶然が起こる。
この日、倒幕派は明治天皇から倒幕の密勅を得ることに成功した。
その同じ日、徳川慶喜は、土佐藩の公武合体者の勧めに従い、「大政奉還」の建白書を朝廷に提出したのである。
翌15日、明治天皇はこれを勅許し、ここに江戸幕府の終焉が正式に告げられることとなった。

徳川慶喜が大政奉還に踏み切った意図は、将軍職の権限を天皇に返上することで、徳川家も含めた新たな政権の枠組みを構築することにあった。つまり、天皇を中心に据えつつ、徳川将軍や有力諸藩が連携する形での連合政権を目指したのである。

また、これを朝廷に建白するよう進言した土佐藩の思惑には、薩長両藩に対して主導権を確保しようとする意図も含まれていた。
実際に朝廷が大政奉還の建白書を受理したことは、公武合体派の主張に沿う動きであり、倒幕派にとっては敗北とも言える状況だった。

こうした事態に対し、討幕派は巻き返しを図る。
大政奉還からおよそ2か月後の1867年12月、明治天皇の名において「王政復古の大号令」が発せられた。

その内容は、幕府の廃止、新たな行政機構の設置など、一見すれば実務的な改革のように見える。
しかし、真の狙いは別にあった。それは、慶喜の将軍辞職を形式上認めつつ、徳川家の所領(天領)を接収することで、徳川家を新政権の枠外へと追いやることであった。
つまり、「王政復古の大号令」とは、倒幕派による事実上のクーデターであり、政権の主導権を薩長中心に奪取するための転換点だった。

こうした措置に強く反発した旧幕府側は、新政権に対して武力行使に踏み切り、鳥羽・伏見の戦いが勃発する。しかし、旧幕府軍はこの戦いで敗北し、主導権は完全に討幕派の手に渡った。

その後も戦闘は続いたが、1868年4月、最終的に徳川慶喜は恭順の意を示し、江戸城は無血で明け渡される。そして、徳川家は、駿河70万石を与えられたのみの一地方大名として、その存続を許されるにとどまった。

このようにして、幕末における政権をめぐる争いは、討幕派の全面的な勝利によって決着することになった。


C. 明治維新

「王政復古の大号令」により江戸幕府の勢力を排除することに成功した新政府は、天皇を君主とする立憲君主制の政治体制を築き、日本という国家意識を人々の間に芽生えさせ、欧米列強に伍していくための国力を養うことを目指した。

その政策がいかに見事に成功したかは、現在私たちが持っている日本観の多くが明治維新期に形作られたものであるにもかかわらず、それらを古代からの伝統だと思い込んでいることからも推察できる。

たとえば、「日本国民」という意識について言えば、江戸時代の人々は、藩に属するという意識はあったかもしれないが、自分が江戸幕府の統治下にあると実感することはほとんどなかった。庶民にとっての「殿様」とは藩主であり、各藩の間には関所が設けられ、通行には手形が必要とされるなど、藩は一つの独立した国のような存在だった。
そのような状況にあって、庶民が藩を超えた「国家」という枠組みを意識することはほとんどなかったはずである。つまり、人々は藩民ではあっても、「日本国民」という意識を持ってはいなかった。

もう一つの例が、元号制度である。私たちは、天皇が交代すれば元号が変わるのが当然のことのように思っている。しかし、江戸時代までは、元号はさまざまな理由によって頻繁に変更されていた。「一世一元制」が定められたのは、明治時代に入ってからのことである。

これら二つの例からも、私たちが古くからの伝統だと思い込んでいる多くの事柄が、実は明治時代に創られたものであることがわかる。

i. 1868年=明治元年

1868年、江戸時代から明治時代への転換となる施策が次々になされた。

ちなみに、従来の太陰太陽暦に代わって太陽暦が採用されたのは明治5年のことであり、旧暦の明治5年12月2日の翌日を新暦の明治6年1月1日とすることで実施された。
したがって、それ以前の日付については、月日が旧暦か新暦かによってずれが生じることになる。
以下の示す月は、まだ新暦が採用されていない時期のものなので、旧暦に従う。

3月

五箇条の御誓文」においては、明治天皇が神に誓うという形式で、政府の基本方針が示された。

第1条では、「広く会議を興し、万機公論に決すべし」とあり、これはすなわち議会制民主主義の理念を定めたものである。
第2条から第4条にかけては、経済の振興、人民の一体化、そして従来の因習の打破が説かれている。
第5条では、「知識を世界に求め」ること、すなわち欧米の近代文明を積極的に摂取する姿勢が示されている。

これらの条文は一見すると、近代化の宣言のように見える。しかし、その発表形式は「天皇が神に誓う」ものであり、第5条における近代化の目的も、「大に皇基を振起すべし」、すなわち天皇による統治の基盤を強固にすることにある。つまり、公論や会議が重視されているとはいえ、その上位に天皇の権威が置かれていることは明らかである。

9月

日本における元号は「大化の改新」に始まり、天皇の交代とは関係なく、災害などによって人心を一新する必要が生じた際に変更されてきた。
これに対して、江戸から明治への転換に際しては、天皇一代につき一つの元号とする「一世一元制」が定められた。
この制度は、天皇親政を強調し、天皇が「時=治世の支配者」であることを人々に強く意識させるための、有効な手段だった。

10月

4月の江戸開城を契機として、7月には「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」が発せられ、10月には天皇が江戸城に入城し、同城は皇居となった。それに伴い、城の名称も「東京城」と改められた。

ii. 中央集権化と国家意識

欧米列強による過酷な搾取に対抗するためには、藩の連合体ではなく、日本全体が一体化して国力を強化することが不可欠だった。
そのためには、幕藩体制を廃止し、天皇を頂点とする中央集権体制を構築して、すべての人々が「日本という国家に属する日本人である」という意識を育むことが求められた。
こうした意識は、廃藩置県、身分制度の改革、学制、徴兵制などの政策を通じて、徐々に形成されていったと考えられる。

「廃藩置県」とは、藩を解体し、地域を再編成して府や県という単位に置き換え、政府が任命した知事を配置する政策である。
この政策により、中央政府が全国を統治する体制が整い、国家が府県の上位に位置することが明確になった。このような関係は、大名の筆頭である将軍が諸大名の上に立っていた江戸幕府の体制とは大きく異なっている。

身分制度に関しては、「四民平等」という言葉に象徴されるように、江戸時代の士農工商という身分の違いが解消され、華族・士族という特権階級を除き、すべての人々が平民とされた。
武士は廃刀や断髪など、外見上も特権を失った。他方、平民は名字を持つことが許され、職業の選択も自由となり、それまでは禁じられていた異なる身分間での結婚も可能となった。

その平等意識が具体的な形で実現されたのが、学制と兵制である。「国民皆学」「国民皆兵」という言葉に象徴されるように、人々の間に「日本国民」としての意識が植え付けられていった。

学校制度はフランスの制度に倣い、全国を学区に分け、各学区に小学校・中学校・大学を設置することとされた。
そして、原則として身分や性別を問わず、すべての国民が教育を受けられる体制が整えられた。

兵制においては、満20歳に達した男子に兵役義務を課し、さらに満17歳から40歳までの男子を「国民軍」の兵籍に登録することが定められた。
この制度には、官吏や一定額の金銭を支払った者が徴兵を免れるといった抜け道も存在したが、基本的な趣旨としては、士族であれ平民であれ、すべての男子が徴兵の対象となることに意義があった。

平民の側からは大きな反発があり、いわゆる「血税一揆」と呼ばれる抗議運動が各地で発生した。しかし徴兵制は、近代的な軍制の基礎を築き、富国強兵政策の柱として機能した点で大きな意味を持つ。
また、江戸時代には武士だけが兵士となることを許されていたことを考えれば、皆兵制は、平民が日本国民としての自覚を持つ契機となったと考えることもできるだろう。

iii. 廃仏毀釈

現在では比較的忘れられているが、明治初期には「廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)」と呼ばれる、仏教寺院や仏教文化に対する破壊活動が各地で起こった。
この運動は、仏教を廃し、釈迦の教えを否定しようとする思想に基づいており、その間接的な契機となったのが、「神仏分離令」であったと考えらる。

明治政府は、天皇を頂点とする中央集権体制の確立を目指し、古代律令国家の伝統に倣った「王政復古」を理念として掲げた。その一環として、神道を国教化する方針を採り、神仏習合を禁止する政策を実施した。

神と仏を区別すべきだとする思想については、本居宣長の国学を想起すると理解しやすい。本居宣長は、「漢心(からごころ)」を排し、「大和心(やまとごころ)」を回復すべきだと主張した。そして、中国大陸から伝来した「漢心」の宗教である仏教ではなく、日本古来の神々への信仰に立ち返るべきだと説いた。

この流れを汲む平田篤胤の国家神道思想においては、天皇は「顕世(うつしよ)」を司る存在とされ、同じく「幽世(かくりよ)」を支配する大国主神と対をなす形で、神と同列の地位に位置づけられた。

明治政府は、こうした国家神道の思想に基づき、外来の仏と日本古来の神々とを区別する方針を採った。
その結果、政府自身が意図したわけではないかもしれないが、国家神道を強く信奉する人々の間に、外来宗教である仏教を排斥しようとする思想が生まれた。これにより地域差はあるものの、全国各地で多くの寺院において仏堂や仏像、経典、仏画などが破壊される事態に至った。

このような蛮行が十年ほどで終息したのは、江戸時代初期に導入された檀家制度の影響が大きかったと考えられる。檀家制度によって、すべての住民が自らの地域の寺院に所属し、その信徒となっていたため、寺院に対する破壊行為は信徒たちの強い反発を招いたに違いない。
神仏習合の風習に親しみ、神と仏を明確に区別しない信仰を持っていた人々にとって、たとえ「仏は日本の神ではない」と言われたとしても、仏が〈カミ〉であるという感覚に変わりはなかっただろう。

いずれにせよ、明治政府の最も基本的な方針は天皇親政であり、『古事記』や『日本書紀』に語られる神話を基盤として、天皇家を日本古来の神々の系譜に位置づけることは、国民の頂点に立つ天皇を権威づけるうえで、非常に有効な手段であったといえる。
こうした流れの中で、たとえ歪んだ形で展開されたとしても、廃仏毀釈は、日本本来の伝統に立ち返る一環として、仏教と神道を分離し、大和心に基づく神々の信仰へと回帰しようとする政策を照らし出すものだったと考えることもできる。


政府によって進められた文明開化、殖産興業、富国強兵といった政策の根底には、これまで見てきたような、「日本」という国家、その国家に属する「国民」、そして天皇の「臣民」としての自覚——そうした意識が人々の中に形成されてきたという事実を見逃してはならない。

このような意識は現在にまで受け継がれており、現代の日本人の多くは、それが明治期に構築されたものであるにもかかわらず、あたかも古代から連綿と続く日本の伝統であるかのように、時代錯誤的に認識してしまう傾向がある点にも注意が必要である。

それほどまでに、現在の日本は、およそ150年前に始まった一連の改革の延長線上にあるのだといえる。

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