日本人の神(カミ)とは 2/3

(2)神と人との交わり

神は、目で見ることも、声を聞くことも、触れることもできない。物理的に存在しないため、科学的な実験によってその存在を確かめることはできない。しかし、信仰を持たず、神を信じていないと思っていても、私たちはどこかで神に向かって何らかの行為をし、何かを期待していることがある。

このような神とのやり取りは、私たちにとってあまりにも当たり前になっていて気づきにくい。だが、キリスト教と比較してみると、一般的な日本人が神という存在とどのように接しているかが、よりはっきりと見えてくる。

i. キリスト教:契約

キリスト教においては、神と人間の間に結ばれる「契約(covenant)」が重要な意味を持っている。
すでに見てきたように、キリスト教において神は唯一の創造主であり、人間の上に立つ絶対的な存在である。そして、その神が人間との間に「契約」を結ぶ。

最初の契約は、「善悪の知識の木の実を食べることの禁止」だった。
『出エジプト記』では、神はシナイの荒野において、エジプトから救い出されたイスラエルの民に対し、「契約」という語を用いて明確に意思を示している。

5. もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。 (「出エジプト記」第19章)

『聖書』に描かれる物語においては、人間が契約を守らずに罰を受け、その後、新たに救済の契約が結ばれ、救済へと至るという展開が繰り返される。
この構造からは、人間には契約を破る傾向があるという前提が読み取れる。しかしながら、「契約」という行為そのものが、神と人間とを結びつける根本的な枠組みであることに疑いの余地はない。

こうしたキリスト教における神と人間の関係は、私たち日本人にとっては大変に違和感がある。神と「契約」を結ぶなどという発想自体が、私たちにはなじみにくい。
契約とは、当事者間の合意に基づいて権利と義務の関係を成立させるものであり、神と人間の間に契約が成立するということは、両者に法的拘束力をもたらすことを意味する。

たとえキリスト教においてであっても、信者が神に世界の平和を祈ったからといって、神に世界を平和にする「義務」が生じると考える者はいないだろう。
とはいえ、原則的に言えば、キリスト教は神と人間との契約に基づく宗教であり、その思想的影響のもと、アメリカやヨーロッパの社会では契約が極めて重要な意味をもつと考えられる。

ii. 日本の神々:互酬性

神々との関係において、「契約」という概念が私たち日本人に違和感を与えるのは、義務や束縛といった考え方が、神々のあり方にふさわしくないと感じられるからだろう。
これは人間関係にも通じており、私たちが好むのは、契約的な関係ではなく、互酬的な関係だと言える。

互酬とは、何かを贈られたとき、それに対して自発的に返礼をすることを意味する。「お返し」は義務ではなく、法律で定められているわけでもない。とても緩やかな関係ではあるが、それでもお返しをしないままでいると、どこか落ち着かない、居心地の悪さを感じる。
こうした微妙で複雑な関係性を生み出すのが、互酬性なのだ。

a. 祈り

日本人は、場所や対象を問わず、思わず手を合わせて「祈る」ことがある。
祈るという行為は、願いごとを抱いたときに神を呼び寄せるために行われる。その際、頭を下げるのは、神に対する敬意を表すと同時に、あらかじめ感謝の気持ちを伝えるためであり、両手を合わせるのは、願いを叶えてもらいたいという思い、つまり、「乞う」気持ちを込めているからだと考えられる。

他方、神がその願いを聞き入れ、望みを叶えてくれるかどうかはわからない。願いが実現することは神の義務ではなく、祈る側もそれを当然とは思っていない。
ただし、熱心に祈れば、その気持ちに神が応えてくれるかもしれない。そんな淡い期待を抱いているのではないだろうか。
ここに見られるのは、互酬的な関係の発想である。贈り物が貴重であればあるほど、返礼も貴重なものになるかもしれない。そんな思いがどこかに潜んでいる。だからこそ、願いの実現を強く望む時には、祈りも熱心なものになる。

b. 祭り 

「祈り」は個人でも集団でも行われるが、「祭り」は基本的に集団で行われる。

「マツル(奉る)」という言葉は、本来的には「食物を供え、酒を差し出す」という意味を持っていた。
古代の日本人たちは、海や山から得た食物や酒を神に奉ることで、神々を天上から地上へと招き、人々の安全や食物の確保を祈願したのだと考えられる。

このような行為が集団的に行われるのが「マツリ(祭り)」である。
そこでは、食物や酒を豊富に供え、太鼓や笛を鳴らし、踊りを奉納することで、神々の心を引き寄せ、五穀豊穣や国土の安寧を祈った。

ちなみに、「祭」という漢字は「月(にくづき)」「又」「示」の三要素から成る。
「月(にくづき)」は肉を、「又」は手の動作を、「示」は神に捧げ物を載せる台を表す。従って、「祭」とは、肉を手に取り、神の台に捧げるという意味を本来持っており、それこそが「祭り」の原型である。

こうした祭りも、神と人間の間で契約を結ぼうとするものではない。神が捧げ物を受け取ったからといって、人間の願いを叶える義務が生じるわけではない。
人々は、ただ神に贈り物をし、その返礼として、願いが叶えられることを、互酬性に基づく淡い期待として、願っているにすぎない。

「祈り」や「祭り」において、日本人は神に対して、まるで知人や祖先に接するかのような、親しみのある接し方をしていることがわかる。
神の側でも、人間に対して契約を要求することはなく、むしろ人々の自発的な気づきや自覚を待っているかのようなあり方を見せる。

こうした関係性の背景には、日本神話において、神も人間も動植物もすべてが「成る」存在であり、本質的には横並びの関係にある、という世界観があるのではないだろうか。
すべてを創造した唯一の神が絶対的な存在として君臨するキリスト教の神と人間の関係と対照してみると、両者のあいだには明確な違いがあることが見えてくる。

日本における神と人間の関係は、支配者と支配される民という上下関係ではなく、互酬的な関係にある同類と見ることができる。そして、その互酬的関係を前提としたうえで、神は人間を超えた霊的な力を持つ、より上位の存在として尊ばれているのである。

iii. 人間に対する神々の対応

神は、人間にとって親しい存在であると同時に、人間をはるかに超越した霊力を持つ存在と考えられている。
その霊力は、人間の願いを叶える方向に働くこともあれば、逆に災いをもたらす方向に作用することもある。

a. 御利益

神の力は、人間の願いのあらゆる領域に及ぶ。すなわち、どのような分野であれ、神はその願いを叶える力を持っていると考えられている。
だからこそ私たちは、神から御利益(ごりやく)を与えられることを期待して、様々なことを願う。
国家の安全や平和、天候や豊作といった公的なことから、恋愛、健康、長寿、さらには試験の合格といった私的な願いに至るまで、神に祈り、望みが実現するように心の中でお願いする。
神の御利益は、人間の活動の全ての範囲に及ぶのだ。

しかし、日本においてとりわけ特徴的なのは、神があらゆる分野を包括していることそのものではなく、人間と神との境界が必ずしも厳密ではない、という点である。
たとえば、「勉強ができるようになりたい」と願うとき、多くの日本人はどの神に祈るだろうか。
その相手は、菅原道真である。道真はもともと一人の人間に過ぎないが、文章博士としてきわめて優れた能力を持っていたことから、死後に神格化され、今でも各地の神社で「学問の神様」として祀られている。

日光東照宮に祀られている神は誰だろう。
主祭神は徳川家康であり、神社における中心的な神として位置づけられている。さらに、織田信長や豊臣秀吉も配祀神として祀られ、三人は「国の安寧」を守る神とされている。

このように、人間が死後に神として祀られるという在り方は、日本人にとって、神の本質が、「創造主」のように人間を超越した絶対的存在ではなく、「並外れた力や徳」を備えたという部分にあるということを示している。
そして、人々はその力の助けによって願いが実現することを期待し、神々に祈りを捧げ、神々を祭るのである。

b. 祟り

神々が人間の振る舞いに満足しない場合、天罰が下され、疫病が蔓延したり、自然災害が起こったりする。神は、良いことだけでなく、悪いことにも超越的な力を及ぼすのだ。

神が「祟る」こともある。
「タタル」という動詞は自動詞で、対応する他動詞は「タテル」。ここで「立てる」という動詞は、波を立てる、湯気を立てるといったように、自然の活力を活気づけ、沸き立たせることを意味する。人間も、腹を立て、不満を胸の内で沸き立たせる。
その自動詞である「タタる」は、腹の中で怒りが煮えくり返ることを意味する。
神は、人間が祭りを怠ったり、何らかの禁忌を犯した場合には怒りを沸き立たせ、人間の行いを咎めて災いをもたらす。これが「祟り」である。

c. 禊ぎとお祓い

神の怒りに触れないためには、人間が自らの罪を洗い清めることが求められる。
罪とは、人間に付着した汚れのようなものであり、水で洗い流したり、埃のように払い落としたりすることで取り除けると考えられていた。
そのため、神に仕える者は、身を清めるために「禊ぎ」や「お祓い」を行い、祈りや祭りの儀礼に臨む。
そこには、祖先や知人に対して失礼のないように振る舞うという、日常生活の習慣が反映されているとも考えられる。

このように、神が人間に対して何をなすかは、人間の側の在り方に大きく依存している。私たちはそのように考える傾向がある。
民俗学者の柳田国男は、「神が祖霊の力の融合であった」と信じ、「少なくとも神の恩愛と同情とは、先祖が後裔(こうえい)に対すると近いもの」(『日本の祭』)だとしている。
私たちは、ご先祖様に接するように、神々に接していると言ってよいのかもしれない。

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