
日本は明治維新以降、欧米化の波にさらされ、政治・経済・文化・芸術・日常生活など、あらゆる面で大きな変革が起こったとしばしば見なされる。
絵画においても、幕府のお抱え画家集団であった狩野派や、江戸を中心に人気を博した浮世絵、京都画壇(円山派・四条派)など、江戸時代のさまざまな流派が影響を受け、西洋の画法を何らかの形で受容するとともに、洋画そのものも描かれるようになった。
こうした西洋絵画の影響をたどる際、幕末から明治初期にかけて活動した高橋由一(1828–1894)の作品と、黒田清輝(1866–1924)や横山大観(1868–1958)の作品を並べてみると、そのわずか30年ほどの間に、日本の画家たちが西洋の画法をいかに急速に消化し、自らの表現として昇華させたかを、はっきりと確認することができる。



高橋由一の「自画像」は、明治維新の直前に描かれた作品でありながら、非常にリアルな表現がなされている。しかし一方で、どこか不自然さが残り、洋画の技法をまだ十分に消化しきれていない様子もうかがえる。
それに対して、フランスへの留学経験を経た黒田清輝の「自画像」には、19世紀後半のヨーロッパ絵画の画風がしっかりと吸収されていることが見て取れる。
また、横山大観の「無我」は、日本の伝統的な絵画を基盤としながら、西洋絵画の技法を巧みに取り入れた、新たなスタイルの作品となっている。
(1)江戸時代中期から明治維新前まで
私たちはしばしば、1853年のペリーによる黒船来航によって日本が開国を強いられ、明治維新以降に欧米の影響が一気に押し寄せたかのように思いがちである。
しかし実際には、18世紀半ば以降、長崎の出島を通じてオランダや清の文物が伝来し、地図や図鑑など実用的な図版を中心として、写実的な絵画表現はすでに知られるようになっていた。

円山応挙(1733–1795)の、細部まで精密に描き込まれた写実的な画風は、その代表例といえる。本草学のために彼が描いた動植物や昆虫の「写生帖」は、まるで実物が目の前にあるかのようなリアリティを備えている。
さらに、日本の装飾的な絵画表現にも、対象をそのままの形で写し取る写生的なアプローチが取り入れられ、立体的な対象把握や遠近法といった西洋絵画の写実技法と融合することで、円山応挙ならではの写実的な画風が形成された。




司馬江漢(1747–1818)は、もともと鈴木春重という名で浮世絵師として画業を始めたが、平賀源内(1728–1780)から西洋の自然科学や絵画を学び、日本における最初期の洋画を描いた画家である。
渡邊崋山(1793–1841)は伝統的な文人画の画家でありながら、日本画では一般的でなかった陰影法を用いて、人物の表情に立体感を与える表現を、19世紀前半の段階ですでに実践していた。
こうした洋画受容の流れを受けて、幕末から明治時代初期に活動したのが高橋由一(たかはし・ゆいち)である。
彼が洋画を志すようになったきっかけは、あるとき目にしたヨーロッパの石版画に強い印象を受けたことにあった。その感動を彼は、「真に逼(せま)りたるが上に一の趣味あることを発見し」と記している。つまり、対象をリアルに描き出すという点では博物図鑑的な再現性を持ちながら、同時に、日本の絵画が重んじてきた「趣」も備えていると感じたのである。
「真に迫る」と「趣味」との両立を目指して、高橋由一は幕府が設けた「洋書調所」に入所するとともに、イギリス人画家で新聞や雑誌の挿絵を手がけていたチャールズ・ワーグマン(1832–1891)のもとでも、油絵制作の研鑽を重ねた。
そうして描かれた作品には、たしかに日本の伝統的な絵画とは異なる迫力があり、リアルな表現が追求されているといえる。
高橋由一の「花魁」(おいらん)を浮世絵と並べて見ると、リアルさが際だっていることがわかる。


この「花魁」(おいらん)に描かれた女性は、吉原の四代目・小稲だといわれている。当時、多くの花魁たちは、例えば渓斎英泉(けいさい えいせん)のような浮世絵に描かれることを望んだのだが、彼女は油絵に描かれることを受け入れた。しかし、実際に描かれた自らの姿を見て、「わちきはこんな顔ではありんせん」と言い、泣いて怒ったという逸話が残されている。
それほどまでに、由一の表現は、美しい花のような理想化された美貌とはかけ離れ、生身の女性をそのまま描き出すかのようなリアリティを持っていた。
静物画においても、本草学の標本のような客観的かつ即物的なものではなく、独特の迫力が感じられる。1876年の《豆腐》や、1875〜1879年の間に描かれたと考えられる《鮭》を見てみよう。


これらの作品を、明治維新直前に描かれた《自画像》と比較すると、不自然さはやや和らいでいるものの、なおどこかに、ヨーロッパ的な現実再現的技法を完全に消化しきれていない印象が残る。
こうした高橋由一の作品こそが、明治期の日本における洋画制作の出発点だった。
(2)明治時代の二つの流れ:
洋画 vs 日本画の西洋化
1868年の明治維新直後、伝統的な文化の価値は否定され、「文明開化」「富国強兵」「殖産興業」の名のもと、欧米の文明を積極的に取り入れ、日本を近代化しようとする動きが加速した。
その流れの中で、洋画の導入も明治政府の主導によって進められた。
1870(明治3)年、西欧の科学技術をできるだけ早く習得することを目的に、工部省が設置される。さらに1876(明治9)年には、その付属機関として「絵画」と「彫刻」の2部門を擁する工部美術学校が開設され、イタリア人画家アントニオ・フォンタネージ(1818–1882)が洋画の指導にあたった。
フォンタネージの日本滞在はわずか2年間であったが、その短い期間に彼の教えを受けた多く画家たちが、のちに日本の洋画界を支える中心的存在となっていった。

これに対して、日本画再評価の動きは、1878(明治11)年に来日し、東京大学で哲学や政治学を講義したアーネスト・フェノロサ(1853–1908)と、その弟子である岡倉天心(1863–1913)の指導のもとで展開された。
彼らは、洋画中心の絵画観を否定し、日本美術の持つ美を再評価した。その大きなきっかけとなったのは、1884(明治17)年に法隆寺夢殿の「救世観音像」の開帳だった。本来、寺の僧侶ですら見ることを許されなかった秘仏を前にし、フェノロサは「プロフィルの美しさにおいて古代ギリシャ彫刻に迫る」と絶賛した。この出来事は、日本画の再興にとって決定的に重要な意義を持つものだった。
明治期の絵画は、この二つの大きな流れを中心として展開していったのだった。
i. 第一世代
a. 工部美術学校系 — 洋画派の系譜
工部美術学校の絵画部門で教師を務めたアントニオ・フォンタネージは、バルビゾン派の影響を受けた画家だった。
バルビゾン派は、それまでのフランスの風景画が理想化された自然を描いていたのに対し、アトリエを出て戸外で実際の風景を直接描くようになった画家たちの集団である。その結果として生み出された絵画は、当然ながら、ありのままの自然を写し取るような写実的な表現を特徴とした。
バルビゾン派を代表するアンリ・ルソーやカミーユ・コローの風景画は、あたかも私たちの目の前に現実の風景が広がっているかのような印象を与える。


明治時代初期の日本の若い画家たちに洋画を教えたフォンタネージの作品も、この流れに沿ったものだった。彼が描いた不忍池は、東京でありながら、ヨーロッパのどこかにある現実の風景を思わせる。

フォンタネージは1876年から1878年までの2年間しか日本に滞在しなかったが、彼の教えを受けた弟子たちの中からは、山本芳翠(1850–1906)、五姓田義松(1855–1915)、浅井忠(1856–1907)など、明治時代を代表する洋画家が多数育った。
彼らに共通しているのは、同じ教師から影響を受けたのち、フランスを中心にドイツやイタリアなどにも留学し、西洋の美術を直接学んだ経験を持つ点である。
当時のフランスでは、すでに印象派の画家たちが活動を始めていたが、彼らはまだ美術界の主流とは見なされておらず、画壇の中心は伝統的な絵画を重んじるアカデミー派が占めていた。そのため、日本からの留学生たちは、古典的な画法を学んで帰国することになった。
この点は、次の世代に属し、ある程度印象派の画法を取り入れた黒田清輝のような画家たちとの大きな違いである。
山本芳翠(やまもと ほうすい)
山本芳翠は、工部美術学校でフォンタネージの指導を受けた後、1878(明治11)年にパリ万国博覧会の事務局雇としてフランスに渡り、1887(明治20)年に帰国するまでの約10年間をフランスで過ごした。その間、17世紀から続く伝統ある美術学校エコール・デ・ボザールに学び、古典的な絵画技法を習得した。
彼が留学中に描いた作品を見ると、洋画の技法を高い水準で身につけていたことがうかがえる。
「西洋婦人」は、『蜻蛉集』のフランス語訳者ジュディット・ゴーチエをモデルにした作品で、日本人画家が初めてヨーロッパの女性を描いた肖像画とされている。
また、「裸婦」は、「裸婦」は、日本人による最初のヌード画の一つと考えられているが、当時のアカデミーで認められていた裸婦像と比較しても遜色のない出来栄えを見せている。


帰国後、山本芳翠は仲間の洋画家たちとともに1889(明治22)年に「明治美術会」を設立し、洋画の普及に努めた。そして、その一環として、日本人の感受性に合った表現を模索する試みにも取り組んだ。
たとえば、「浦島図」や「猛虎一声山月高」(もうこいっせいさんげつたかし)のように、日本の伝説やよく知られた漢詩の一節を題材とした作品は、そうした試みだと考えられる。


ここで注目したいことは、フランス留学時代に描かれた肖像画や裸婦像が、ヨーロッパの画家の作品と言われても疑うことなく受け入れられるほど自然に仕上がっているのに対し、浦島太郎や漢文の一節を題材とした作品には、どこか不自然さが残っている点である。
このことは、洋画が当時の日本において、まだ完全には根づいていなかったことを示していると考えられる。
五姓田義松(ごせだ よしまつ)
五姓田義松も山本芳翠と同様に、工部美術学校でフォンタネージの指導を受けた後、1880年にフランスへ渡った。
そして1882年には、「人形の服(Robe de poupée)」が日本人画家として初めてサロンに入選した。

同様にフランス滞在中に描かれた「操(あやつり)芝居」(Théâtre de marionnettes)も含め、五姓田義松は日本人画家という枠組みを超えて、ヨーロッパの画家に匹敵する技量を有していたことを見てとることが出来る。

帰国後の五姓田はあまり才能を発揮できなかったとして、評価が低く語られることもある。
しかし、1905(明治38)年の「富士」を見ると、バルビゾン派の風景画に学んだ若き画家が、日本の名所絵の伝統を取り込み、それを自身の作品として昇華させていることが感じられる。

浅井忠(あさい ちゅう)
浅井忠はフォンタネージのよるバルビゾン派的な作風を最もよく伝える画家といってもよく、1889(明治22)年に設立された「明治美術会」の中心メンバーでもあった。
その一方で、留学は、1900年のパリ万国博覧会を機会にしたもので、同世代の画家たちと比べてかなり遅く、しかも2年間と短いものだった。
留学前の浅井忠の画風は、バルビゾン派を代表する画家の一人ジャン=フランソワ・ミレーを思わせることがある。

実際、ミレーの「晩鐘」のどっしりとした大地の雰囲気は、浅井忠の「春畝」や「収穫」からも感じられる。


こうした作品を見ると、工部美術学校のフォンタネージバの直系の弟子の作品だといえる。
1900年からのパリ滞在中、浅井忠は美術商サミュエル・ビング(Samuel Siegfried Bing, 1838–1905)と交流するなどして、日本美術の影響を強く受けたアール・ヌーヴォーが流行している様子を見聞した。
サミュエル・ビングは、1870年代からパリで浮世絵や日本の工芸品を扱う店を営み、ゴッホが初めて浮世絵を目にしたのもビングの店だったとされている。また、日本美術を広く紹介するため、複製図版や挿絵を掲載した美術月刊誌『芸術の日本』(Le Japon artistique)を1888年から1891年まで発行するなど、アール・ヌーヴォーの発展に大きく貢献した人物でもあった。
浅井は滞在の終盤、約半年間をバルビゾン村に近いグレ=シュル=ロワン(Grez-sur-Loing)で過ごし、風景画の制作に取り組んだ。
そこで描かれた「グレ=シュル=ロワンの橋」「グレ=シュル=ロワンの洗濯場」「グレ=シュル=ロワンの秋」といった作品には、印象派やアール・ヌーヴォーの影響が見られ、フォンタネージから教えられたバルビゾン派の画風とはかなり異なる作風となっている。



1902年に帰国してからの浅井忠は、印象派的な画風やアール・ヌーヴォー風の様式を取り入れた油彩画やデザイン画を制作する一方で、関西美術院などを拠点に若手画家たちの教育にも力を注いだ。
「洋上の夕陽」「京都高等工芸学校の庭」「花」からは、帰国後の活動の一端を垣間見ることができる。



浅井忠の名前は、留学中に知り合った夏目漱石が、彼をモデルにして『三四郎』の中に登場する深見画伯を造形したことも知られている。
b. フェノロサ系 — 日本画派の系譜
明治初年、日本社会は文明開化の大波を受け、江戸時代までの伝統を否定し、欧米の科学技術のみならず文化的価値にも優位性を認めるようになった。
さらに、明治政府による神仏分離令にともない廃仏毀釈の運動が起こり、各地の神社では仏像や仏具が破壊される事件が相次いだ。これは、6世紀の仏教渡来以来続いてきた日本文化の価値を否定する動きでもあった。
アーネスト・フェノロサは、東京大学で政治学や哲学などを教えるため、1878(明治11)年に来日したが、日本美術の美しさに心を打たれ、狩野永悳(えいとく)に師事して日本および中国絵画の鑑定法を学び始めた。
また、弟子の岡倉天心とともに奈良や京都の文化財の調査・研究を行い、日本美術の再興を強く訴えた。
その中でも特筆すべきは、1886(明治19)年にフェノロサが法隆寺夢殿の厨子を開扉させ、救世観音像の存在を明らかにしたことである。この出来事は、仏像が古代ギリシアの彫刻にも匹敵する美の表現であることを、日本人に改めて認識させた。
明治以降の日本人が日本の伝統的な美を再認識できたのは、フェノロサの尽力によるところが大きいと言っても過言ではない。
フェノロサが仏像と古代ギリシア・ローマの彫刻に共通する美を見出したのは、それらが写実性を追求する一方で、内面に神性や精神性を宿していると考えたからである。
彼は、法隆寺夢殿の救世観音像や東大寺の日光・月光菩薩立像だけでなく、唐招提寺の如来形立像のように一部が欠損した彫像からも、イデア的な美の表現を見いだした。




フェノロサは1882(明治15)年の講演「美術真説」において、日本ではじめて「日本画」(Japanese painting)という語を用い、西洋の「油絵」(oil painting)に対して、日本画の優位性を主張し、伝統的な日本絵画の復興を強く訴えた。
そして、日本画の描線の方が油絵よりも「イデア」(当時の訳語では「妙想」)の表現に適していると述べ、江戸時代末期には衰退していた御用絵師集団・狩野派の絵画を擁護するなどした。
フェノロサによる日本美術再興の訴えは、1889(明治22)年、伝統的な日本美術の保護を目的とした東京美術学校の開校という形で結実した。翌1890年には岡倉天心が校長に就任し、フェノロサは副校長となった。
そして、東京美術学校からは、明治時代を代表する日本画の画家たちが育っていくことになる。
それ以前の日本画画家の第一世代を代表するのは、フェノロサが強く支持した狩野芳崖(1828-1888)だといえる。
狩野芳崖(かのう ほうがい)
狩野芳崖は、フェノロサの勧めに従い、日本画に西洋絵画の技法を取り入れ、新たな日本画の創造を目指した。彼は、三次元的な空間表現や明確な色彩の使用などを、伝統的な日本画の中に取り込もうと試みた。
1886年に描かれた「仁王捉鬼図(におうそっきず)」では、フランスから取り寄せた顔料が用いられ、鮮やかな色彩によって、仁王像が背景の空間から立体的に浮かび上がるような効果が生み出されている。

江戸時代までの伝統的な日本画に見慣れた目には、「仁王捉鬼図」の色彩表現はやや毒々しく映り、仁王像として違和感を覚えるかもしれない。
日本の顔料を用い、モノトーンの色調で落ち着いた雰囲気を醸し出している「悲母観音」になると、「仁王捉鬼図」で感じたような違和感はかなり和らいでいる。
こうした印象の違いを確かめるために、洋画派の一人でドイツへの留学経験もある原田直次郎(1863–1899)の「騎龍観音」と並べて比較してみよう。


洋画である「騎龍観音」は非常に写実的で、この世の存在ではないはずの観音像がかえって生々しく感じられ、現実味を欠いた印象を与えてしまっている。
一方、「悲母観音」は、同じく写実的でありながらも、抑えられた色調によって表現に内面的な深みが加わり、秘められた精神性=「妙想」までもが同時に伝わってくる。
その意味で、この作品は、第一世代の日本画における一つの到達点を示していると考えていいだろう。
(ii. 第二世代に続く)